【第1話 3】
「――こんなチープな分身じゃ、とてもじゃないが教授たちの目は誤魔化せない……クソッ!」
学校に通う見習い魔術師は不甲斐なさに苛立ち、手首の魔法ブレスレットを放り投げた。そして、中庭の濡れた芝生の上へ、ベール・ラムバートは大の字になって全身も投げ出す。
何度繰り返しても結果は同じだった。シュウゥゥと頼りない風の音だけが虚しく響き、生まれた輪郭は微動だにせず、そよ風とともに霧散してしまう。
「はぁ……なんでこんなことに……」
見上げた空は晴れていたはずだった。それが放課後、分厚い雨雲に覆われ、不気味なほど黒ずんでいた。まるで彼の転落していく学校生活に似ている。
年間最終テストの成績がすべてとはいえ、特待生資格の審査には、定期的に開かれる『魔法研究成果発表会』での評価が極めて重く考慮される。
本来であれば、風の魔法を応用した“空飛ぶ車”や“風力発電”といった、ガイア帝国における生活革新のアイデアで教授会を納得させたはずだ。そして今頃、片思い相手の女子生徒を彼女にし、アップル市で人気のカフェで鼻の下でも伸ばしていた……はずだった。
しかし、約3か月前のラブレター事件があって、カツアゲされたあとに残された3万GGの端金では実験機材すら揃えられず、ましてや研究室さえ借りられず、ベールの研究は完全に破綻してしまった。
わずか1週間後に迫る発表会を乗り切るため、愛用する魔法ブレスレットでできそうな、金のかからない小手先の“風の魔法・分身魔術”で足掻いてみたが、それすら形にならない。
無力感に苛まれ、流れる暗雲をただ見つめていたベールの耳に、
「――ただ遊んでいるだけか? 若者よ、大志を抱いてみせよ」
と、意識の外から落ち着いた穏やかな声が小雨とともに降ってくる。
ベールは肩をビクンと震わせ、慌てて身を起こす。
振り返ると、そこに立っていたのは高尚な濃い紫のローブを身に纏った老人、四大魔法を自在に操り、国家から賢者と称えられるマスタークラスの魔術師、賢者と称されるラムアビ・マーリン名誉教授が慈愛に満ちた笑みを浮かべて佇んでいた。
「ラ、ラムアビ卿……! な、なぜここに?!」
「なんのことはない、ワシが教育熱心な老いぼれだからじゃよ。老い先短いじいさんなど、魔法研究の邪魔かな?」
「い、いえ……! 滅相もございません!」
と、正座となって背筋を伸ばす男子生徒に、その賢者はまっすぐ問う。
「それでラムバートくん、先日のテスト結果はどういうことじゃ?」
唾を呑み込むベールの胸元へ、賢者は携えたステッキの先、白金の魔宝石をこつんと当てた。先端に嵌め込まれた拳大の透明なダイヤモンドが、妖しく澄んだ光を放つ。
「やはり、賢い君のことだ。こんな小手先の浅知恵に逃げ込むからには、特段の事情があるようじゃな」
図星を突かれ、ベールは俯くしかない。「……はい」だが、言えない。沈黙が雨粒を招く。
賢者は手で雫を振り払いつつ、「1週間後の研究発表会、このままではオルコット主任にどやされるだろう。そこでじゃ、私が直々に特訓してやろうと思うてな」
「え……本当ですか?!」
突然差し伸べられた救いの手に、暗雲の底から一条の光が射し込んだように思えた。
「迷える子羊を導くのも教育者の務めじゃよ。ワシも生きているうちに、君の言う『空を走る車』を見てみたい。では明日、ワシの屋敷に来なさい」
温和な老人の瞳の奥に、獲物をじっと待ち伏せる獅子のような冷徹な光陰が一瞬だけ過った。だが、藁にもすがる思いの見習い魔術師に、その底知れぬ狂気を感じ取る余裕などあるはずもなかったが――。
「それでは、100パーセントの力を見せてくれるかな、ラムバートくん」
時計の針が15時半を過ぎる。ガーデンチェアに深く腰掛けた賢者に見守られながら、ベールはここ3ヶ月の成果を示すべく、手首の魔法ブレスレットを固く握りしめた。
頭の中で気流の渦を精密にイメージし、魔宝石であるエメラルドへと体内のエネルギーを送り込む。
周囲の大気がざわめき、ベールの全身を包み込むと、やがて等身大の風の輪郭が彼の隣に立ち現れた。しかし、そよ風がロウソクの火を吹き消すよう、その不完全な分身は十秒と経たずに霧散してしまう。
「――発想は素晴らしい。だが、維持できるのはせいぜい数秒とはひどいな」
ラムアビ・マーリンは小さくため息を漏らすと、おもむろに立ち上がり、自らのステッキを軽く振るう。唇から紡ぎ出された短い呪文とともに完璧な風の複製、マネキンが庭園の芝生の上に立ち現れる。
「――こんなもんじゃろ」
ラムアビの分身は、優に3分間も乱れることなくその場に佇み続けた。
「お、お見事です……!」
天と地との差といえるほど圧倒的な魔力を間近で目撃したベールは丸くした目のまま惜しみない拍手を送るしかできなかった。しかし、百戦錬磨の魔術師はどこか浮かない表情を浮かべる。
「マスターランクを極めたワシでもな、火や水、そして地と違い、風の魔法で気体を実体へと転換し、なおかつ自由自在に動かすのは至難の業なんじゃ……
にもかかわらず、挑戦するおぬしは天才か、はたまたバカなのか……In Deo speramus ――『私たちは神に希望を託す』ほかないのぉ」
ラムアビは国立学校の標榜の一つを口にすると、再びガーデンチェアへと腰を下ろす。
「ラムバートくんも座りなさい。少し話をしよう」
一人で暮らすには広大すぎるその屋敷には、手入れの行き届いた豪奢な庭園が広がっていた。
主であるラムアビ・マーリンはマスタークラスの魔術師であり、上級貴族に属す。各種特権を与えられており、当然ながら軍から派遣された要人警護がいるのだが、ベールが魔法研究の成果を見せるわけで、邪魔するわけにはいかないと配慮し、本日は独居老人だと笑った。
「あ、ありがとうございます……」
恐縮しすぎて肩幅が縮んだベールは、差し出された温かいカフェオレを一口すする。甘く芳醇な香りが口いっぱいに広がった。
「なぜ風の分身魔術が破綻しやすいのか、わかるかね?」と、そのメカニズムを解説してくれた後、賢者は優しげな眼差しで、自ら淹れたコーヒーを少年に振る舞ってくれたのだ。
ベールがミルクをたっぷり注ぎ、砂糖をこれでもかと投入する姿を見て、ラムアビは面白そうに目を丸くしていた。
「――それで、どうして君のような秀才があんな付け焼き刃の研究に逃げ込んだのじゃ? やはり、リーキー・ガルベスが原因かね?」
賢者は寸分の狂いもなく核心を突いてきた。怪力番長ガルベスが他生徒を脅迫する問題児であることは、教授会でもたびたび議題に上がっている。ここ最近、ベールがガルベスにつるまれ、不当に扱われているのではないかという噂を耳にしていたのだ。
「ラムアビ卿、実は――」
相手は百戦錬磨のマスタークラスの魔術師、せっかく二人きりの空間にしてくれた配慮にも心苦しく感じ、成果発表会の結果は目に見えており、もはや嘘を突き通す理由などないと観念したベールは、恋愛禁止校則を受け入れるべく、生唾を甘いカフェオレで腹に流し込み、人生の大先輩にことの顛末をすべて白状した。
「――というわけで、ガルベスがラブレターを持っているんです」
「はっはっはっはっは! なんじゃ、そんなことか!」
聞き終えた老人は、木々の小鳥たちが一斉に飛び立つほど豪快に笑い声をあげた。
「そ、そんなことって……僕にとっては一世一代の――」
「いやー、すまんすまん。悪気はない。ただ、実に青春だと思うて」
老人は悪戯っぽくニヤリと笑う。だが、すぐに冷徹な真顔へと戻り、庭の池のほとりで佇む黒いカラスを見つめた。
「だがな、ラムバートくん。魔法クラスは恋愛禁止じゃよ?」
「ええ……恋愛禁止校則がありますから」
「その真の理由がわかるかね?」
教育者の瞳から、ふいに底知れぬ凄みが放たれる。
魔法クラスにおける恋愛禁止の絶対校則、発覚すれば特待生剥奪、停学、最悪の場合は除籍のうえ退学という極刑が待っている。
教授会でも生徒の自由恋愛を巡る議論は絶えないが、帝国の魔法開発局や教育開発局に太いパイプを持つ伝統保守派の面々は、『童貞を守り抜いてこそ最強の魔術師に至る』という古臭い迷信を頑なに信じ込み、その校内秩序にねじ込んだ経緯からも、生徒会が話し合いを丁重に申し込んでも、強硬な態度を崩さないのであった。
つまり、ベールがシーラへ送ったラブレターは、彼の魔術師人生を一撃で破滅させかねない致命的な弱みなのだ。
「――魔術師たるもの、まずは己を研鑽すべきだと。魔法は己を救い、ひいてはガイア帝国のためにもなる、と」
「そうじゃ。恋愛はな、魔術師の精神を狂わせる。己が未熟であるがゆえに感情に溺れるのじゃよ。まずは魔力に必要なフィジカルとメンタルを鍛え上げ、卒業してから欲望の限りイチャイチャチューチューすればよい」
賢者は天を見上げた。古き良き時代に思いをはせているのか。
「まあ、若いゆえに恋愛が我慢できなかったんじゃな。かつて教員と駆け落ちした愚かな女子生徒もおったが……愛とは永遠なるものだが、恋は呪縛でもある。古今東西、男と女のトラブルは尽きないが、近づいては離れ、引いては押して、まるで時のようじゃ……」
老人は自らの古い過去を思い返したのか、ふと我に返ったよう、砂糖もミルクも入れない漆黒の液体を一気に飲み干す。そして、どこか憐れむような目をベールへ向ける。
「しかし、あのマイヤーズくんがそこまで人を貶める小悪魔だったとは……君は女運がないようじゃのぉ」
「ええ……まんまと嵌められました。見た目はあんなに可愛らしいのに、腹の底があんなに真っ黒だったとはおも……しな……か……」
ガシャン! 澄んだ陶器の割れる音が響き、カラスが驚いて空へと飛び去った。
ベールの手からカップが滑り落ち、身体の自由が急速に奪われていく。
椅子から崩れ落ち、冷たい地面へと倒れ込む。舌の根に奇妙な痺れが走ったかと思えば……原因を確かめる暇などなかった。
視界が鮮やかに歪んでいき、深い闇の底へと引きずり込まれていくベールの瞳には、不気味に口角を吊り上げる老賢者の顔があった――。




