【第3話 4】
放課後、夕暮れ時――。
西日が長く差し込む本館中央の廊下では、キューッ、キューッ!
と乾いた摩擦音が規則正しく響いていた。
制服の上着を脱ぎ捨て、腕まくりをした白シャツ姿のベールは、四つん這いになって一心不乱に雑巾を滑らす。 「ふぅ……よし! 今日はここまでにしといてやろう!」
雑巾をバケツの水に放り込み、ベールは大きく息を吐いて立ち上がった。
窓枠に肘をかけ、オレンジ色に染まるアップル市の街並みをぼんやりと見下ろす。
校庭からは運動部の掛け声が遠く響き、下校を急ぐ生徒たちの笑い声が風に乗って届き、彼は思索に耽る。
……しかし、不思議だな。すべてがうまくいっている。
人一人、殺したというのに、街は何食わぬ顔でいつも通りの日常を刻んでいる……。
今朝の食卓でも父さんは何も感づいていなかったし、あのガルベスやシーラも睨みを利かせて黙らせた。あいつらの悪事は明後日の成果発表会のときに全部バラしてやる。
攻撃すれば反撃されるものだと、自業自得と因果応報を教えてやろう。
そのあとは目立たずに卒業できればいい。
民間魔術師となって、田舎に住んで、趣味で空飛ぶ車を研究すれば……
だったら、ポーラ先輩と結婚するのもありか。
そうすれば、裏切られる心配もない……うん、大丈夫だ!
張り詰めていた神経がふっと緩み、胸の奥を満たしていく甘美な安堵からか、笑みがこぼれた。
その油断を示すように、朝にあれほど入念に固めたオールバックの前髪が汗と疲労でだらしなく崩れているが、ベールはまったく気づかない。
彼は夕暮れの街を眺めながら、心地よいリズムで息を吐き出し続けた。
コツ、コツ、コツ――。
その平和な幻想を打ち破るように、磨き上げたばかりの板張りの廊下を、二つの足音が穢していく。
革靴の鈍い音と硬質な軍靴の金属音で、ベールは崩れた前髪を察した。
そして、近づく二人の影にも気づいた。
一人はくたびれたジャケットを着た黒人刑事――父アインの部下であるホールトンだ。
「やあ、ベールくん。熱心に掃除かい? 感心するよ」
もう一人は知らない女軍人だった。
「こちらはクリス・ランスロット大佐です――」
市内で見かける青を基調とした軍服に身を包み、鮮やかな金髪を高い位置でポニーテールに束ねた若い女性佐官だ。ホールトンが手帳を片手に微笑む。
「ちょっと聞きたいことがあって……先日、賢者ラムアビ卿宅付近でポーラ・マルモンさんと会っていたよね? 魔法クラスの恋愛禁止校則違反について、少し事実確認をしたいんだよ」
ホールトンには決定的な油断があった。
彼からすれば上司の真面目な息子がやらかした、高校生の色恋沙汰に過ぎないからだ。
だが、ベールはその隣に立つポニーテールの軍人に、妙な違和感を覚える。
整った顔立ちは異様なほど青白く、額にはびっしりと脂汗が浮き、左腕で抱きかかえる魔術書が今にも落ちそうだからだ。そして、胸元を押さえて浅い呼吸を繰り返している。
「……あの、夏風邪ですか? 大丈夫ですか?」
「とにかく、話が聞きたい……君とポーラについて……」
軍人特有の威圧感はあるものの、今にもその場に倒れ込みそうな重病人のようだ。
自分を怪しんでいるのかどうかも釈然としない。
ベールは努めて無害な生徒の仮面を被り、崩れた前髪をかき上げるふりをして、情けない困り眉を作って見せた。
「いやー、参ったな。ホールトンさん、父さんには絶対に内緒にしてくださいよ。
――けっこう汗だくなので、壁際の上着とバッグを持ってきてもいいですか?
話が終わったら、そのまま家に帰りたいので」
「ああ、構わないよ。――もしかして、夕陽をバックに彼女とデートとか?」
「そ、そんな予定はないですよ」
ホールトンが男子生徒をからかいながら手帳にペンを走らせた。
ベールは小さく会釈し、壁際のロッカーの前に置いたスクールバッグへと歩み寄る。
(ふぅ……びっくりした。ただの校則違反の聞き取りか。
ホールトンさんなら言い訳して誤魔化せる。
あの軍人も体調が悪そうだし、どうってことないだろう)
机にさげられたスクールバッグの持ち手を掴み、ファスナーを開けたその時だった。
「――いま、黒い石を持っているか?」
静まり返った教室に、背後から低く掠れた女の声が投げかけられた。
ビクンッ! ――全身の毛穴が逆立ち、表情が一気に凍りつく。
心臓が激しく鐘を打つ。血の気がサーッと引き、指先が凍りつくように冷たくなった。
ゆっくりと振り返ると、軍人が、ポケットから出した無線機に呟くところだった。
「……ビンゴだ!」
(どこで……?! 父さんか? ホールトンさんか?
いや、父さんには話していないし、現場の凶器も証拠も全部消したはずだ!
だったら――ポーラか!? あの女が吐いたのか……!?)
裏切りの疑心暗鬼と人間不信が濁流のように脳内のあらゆる領域を襲い、すべきことを考えられないほど、心臓が破裂する寸前だ。
(言い逃れは不可能だ。相手は軍だぞ。捕まればどうなる……)
ベールはバッグの奥深くに突っ込んであった『黒い石』の輪郭を、震える指先でなぞった。
そして、奥歯が欠けるほど噛み締める。
(もう、逃げるしかない……! クソッ、やるしかないんだッ!!)
バッグを掲げる動作のまま、ベールの指先は父にねだって手に入れた護身用魔法具『閃光弾』を掴み、躊躇なく床へと叩きつけた。
ピッ、カンッッッッ!!!!
真昼の太陽を凝縮したような白金の閃光が、夕暮れの廊下を白一色に焼き尽くす。
「ぐあっ!? 目がぁッ!」
目を灼かれたホールトンが絶叫し、床に転がった。
激しい魔力酔いに襲われていたクリスもまた閃光弾をもろにくらってしまう。
「クソッ! 降霊術の代償がこんなときに――」
防御魔術を唱える隙などなく、魔術書を床に落とし、視界を奪われて倒れてしまう。
だが、気合と根性で、無線機で仲間に犯人を伝える。
「シュミット、マルティン、逃げられた! 奴だ、ベール・ラムバートが犯人だッ!」
閃光の残光の中、男子学生は本館一階まで駆け下りていく。
そして、多目的室の窓ガラスを蹴破り、夕闇が迫る中、校舎の裏門へと続く植え込みへと迷わず身を投げ出す――こうして、ベール・ラムバートの終わりなき逃走劇が幕を開けたのだった。




