【第3話 1】
アップル州アップル市――。
清々しい青空に朝日が昇り始める。
だが、朝が苦手な繁華街は生ごみの腐臭とアルコールの残り香が混ざり合い、祭りの後のような静寂に包まれていた。
裏通りの石畳には夜の喧騒が嘘のように人影がない。
隅にあるゴミ捨て場で、黒々とした羽を光らせた数羽のカラスが、前夜に投げ捨てられた残飯を巡って小競り合いを繰り広げている。
ときおり向ける視線の先には水商売であろう派手なドレスを着た若い女と、くたびれたスーツ姿の男が側溝の縁に絡み合うように熟睡していた。
ブルルルルルッ……!
だが、滑り込んできた重低音がその停滞した空気を一変させた。
重厚な黒塗りのパネルバンが一台、路地に滑り込んできたのだ。
カラスは警戒して飛び立ち、電柱の上から路地を見下ろすが、酔いつぶれた男女は夢の中から戻ってこない。
ブルルルルルッ……!
車内の時計針がちょうど7時を指した瞬間、待ち合わせの相手が寸分違わぬ同型のパネルバンで音もなくやって来た。互いの運転席側の窓がギリギリ触れ合うほどの距離で、慣れているのか、寸分の狂いもなくピタリと並行に停車する。
「お見事ね」
相手方を待っていた老婆が呟いた。
ジジジ……双方の窓ガラスが半分だけ下りる。
向かいの車のスモークガラスの奥――昇り始めたばかりの鋭い朝光を嫌悪しているのか、深く沈み込んだ影の中から鮮やかな赤毛が覗いていた。
老婆はその視線を、バックミラー越しに運転席に座る溺愛する我が子へと向けながら口を開く。
「今朝の新聞は読んだかい?」
しゃがれ声とともに、周囲のドブ臭を暴力的に塗りつぶすご自慢の濃厚なバニラ香水の匂いが車外へと漏れ出す。
「読まない派なので、部下から聞きました」
向かいの車から、芯のある涼やかな低音が返ってきた。
声の主である彼女は――ガイア帝国の裏社会を牛耳るマザー・ファミリー、そのトルシトーロ東家に仕えるアンダーボス――カルロッタだ。
仕立ての良いトレンチコートの襟を立て、その白い首筋にはどこか人外の妖艶さが漂っていた。
裏社会に溶け込む賞金稼ぎどもは、彼女に畏怖を込めてこう呼んでいる――《吸血鬼の未亡人》と。
「なら話が早いわね。行方不明になった賢者ラムアビ卿、ボスはあの老いぼれの首に一億もの懸賞金を懸けるそうだよ」
「1億GG……マスタークラスの魔術師にしてはずいぶん安いわね」
カルロッタはバニラの甘ったるい臭いを嫌い、シルクのハンカチでそっと鼻口を覆った。
「バカおっしゃい。探し当てて生け捕りにしたらの話だよ。万が一にもやっちまったら、ガイア騎士団がお出ましだ。内戦は勘弁だよ」
重い嘆息をもらす老婆――フランソワーズ・ルブランことグランドマダム、賞金稼ぎからの異名は《氷河の女帝》――は秘密の製法で作らせたという毒々しい真紅のルージュを引いた唇を歪める。
すでに70代の半ばを過ぎているが、その節くれだった両手の指には規格外の魔宝石を嵌めた指輪がびっしりと光っていた。
「――あんたのところで賢者を囲って、よろしくやってないだろうね?」
カルロッタの運転席に座る巨漢剣士ブルーノが無言でワニ革のケースから上品な細身の葉巻を取り出し、身体を乗り出して火を灯した。
「まさか。私の舌はもっと新鮮で熱い血を好みますから」
そのボスは紫煙を細く吐き出し、氷のような視線とともに言葉を返す。
「――そちらこそ、若き日の火遊びを思い出して、地下室で楽しんでいるのではなくて?」
「フン、何のことやら……ねぇ、ジュリアン?」
マダムは運転席の愛息に話を振る。
「へへっ、我々はボスの顔に泥を塗るような真似はしねぇよ! それにマスターランクの賢者相手に、俺たちが手を出せるわけねぇだろ!」
「違いないね」と、マダムは鼻で笑った。
カルロッタは半分になった葉巻の灰を銀の携帯灰皿に落とす。。
「ファミリーの仕業でないとすれば、一体誰の仕業かしらねぇ」
ジュリアンが首をひねる。
「そこらのギャング風情じゃあ、指一本触れる前に、ジジイが灰にしちまうオチなんだよな」
「あんたはどう思うのさ?」
マダムが問うと、カルロッタは静かに煙を燻らせた。
「そうねぇ……犯人は貴族か軍閥による口封じと見るのが妥当でしょうね。たとえば――」
カルロッタは唇の端をわずかに吊り上げる。
「帝都に君臨する青き財閥ランスロット家と対立する、あの連中はどうですかねぇ?」
ピキリ――――ッッッ!!!
その言葉が落ちた瞬間、二台の車の隙間の空気が凍りついた。
ものの数秒で乾いたアスファルトの上に白い霜が走り、マダムの車のスモークガラスの縁に極低温の氷晶が音を立てて張り詰めていく。
息子が恐る恐る母親に振り返ると、膝の上に抱えた分厚い魔術書から絶対零度の冷気が湯気のように立ち上っていた。
「……陰謀論はほどほどにするもんよ、カルロッタ」
とても低く、殺意を押し殺した声だ。「あんたのファミリーごと凍らせるのは疲れるからねぇ」
敵意を向けられても、カルロッタは眉ひとつ動かさなかった。
「あらあら、図星かしら? ――くだらない脅しは棺桶の中だけにしてください」
「耳が悪い小娘だねぇ……老婆からのアドバイスさ」
「そのアドバイスをお返しするなら、そのルージュで安っぽい純文学でも書いたらどうです?
それとも、その甘ったるいバニラで警察署長でも口説いて賢者を探すのもいいですよね。
それか、東洋の禁術でも使ってボスに愛されるよう若返るとか?」
「なあああんっ、ダッテェェエッッ?!」
マダムの吊り上がった眉間から、ヒステリックな殺気と冷気が爆発した。
路肩の水たまりが一瞬で氷塊へと変わり、ギチギチと軋む音が路地に響き渡る。
「ヤベェ、ヤベェよぉッッ……!」
運転席のジュリアンは、《氷河の女帝》の殺気と、《吸血鬼の未亡人》の覇気の板挟みになった。
どうすることもできず、ガタガタと歯を鳴らした。極度のストレスから下腹部に走る熱い痛みに耐えかね、今にもズボンを濡らしそうになっている。
一方、カルロッタの運転席に座るブルーノは微動だにせず、コートの内ポケットに手をかけたまま前方の路地を凝視していた。
重なり合う眼光とむき出しの敵意、一触即発の凍てつく膠着状態――。
「う、ん……っるせぇな……誰だよ?!」
そのとき、側溝の近くで抱き合って寝ていた若い男女が、バンのアイドリング音と張り詰めた殺気にあてられ、ゆったりと身じろぎを始めた。
チッ……マダムとカルロッタが同時に舌打ちを交わす。
双方の窓が一斉に閉ざされた。
――ギュルルルルッ!
二台のパネルバンは、晴れやかな早朝を台無しにする強烈な排気ガスを撒き散らしながら、けたたましいタイヤの摩擦音を残して、それぞれ逆方向へと急発進していった。




