第9話 朝食中の見習い
――チリン。
澄んだ音が監査室に落ちた直後、机の横に若い男が現れた。
片手には丸いパン。
口は、今まさにかじろうとしていた形で止まっている。
「――んむっ!?」
若い男は目をむいた。
「ど、どこですかここは!? 財務卿!? 近衛騎士!?」
「落ち着きなさい。ここは王宮監査室です」
財務卿が静かに告げると、若い男はさらに青ざめた。
「監査室!? 一番落ち着けない場所です!」
「それが正しい反応ですわ」
若い男はそこで、ようやくレイベルナを見た。
銀の鈴。
淡い金髪の公爵令嬢。
そして王都中で噂になっている、呼び鈴の令嬢。
顔色が一気に変わる。
「よ、呼び鈴の令嬢……」
「――レイベルナ・ファリスでございます」
「お、王宮文書院、記録係見習いのトマス・リードでございます!」
トマスは丸いパンを握ったまま、勢いよく頭を下げた。
「僕は朝食を食べようとしていただけで、国庫にも封蝋印にも何もしておりません」
「まだ何も聞いておりませんが」
財務卿の一言で、トマスは固まった。
「ですが、かなり慌てていることは分かりましたわ」
「慌てます! いきなり監査室に呼ばれたのですから」
財務卿は机の端に置かれた自分のかじりかけのパンを見た。
「仲間が増えましたな」
「財務卿、そこではありません」
レイベルナは手のひらから鈴を消し、トマスへ向き直った。
「トマスさん。あなたを犯人としてお呼びしたわけではありません。支払い保証用封蝋印の返却記録について、お話を伺いたいのです」
トマスの表情が変わった。
驚きではない。
何か心当たりのあるような顔だった。
「……封蝋印の記録、ですか」
「はい。この帳面に、あなたのお名前が残っています」
レイベルナは記録帳を開いた。
最後の行には、細い字でトマス・リードと署名がある。
だが、その右隣にある返却確認欄は空白だった。
「この署名は、あなたが封蝋印を使ったという意味ではありませんね?」
「はい。僕は使っておりません。返却確認に立ち会っただけです」
「立ち会った?」
「王太子執務室から封蝋印が戻された時、箱に入っているかを記録係が確認します。僕は見習いですが、その日の補助担当でした」
トマスは丸いパンを握り締めたまま、必死に続ける。
そのパンに向かって財務卿の猫が「みゃあ」と鳴いた。
「本来なら、ここに『返却済み』と書いて、その横に僕が署名して、最後に上役の確認印が入ります。僕の名前だけが残るなんて、おかしいんです」
「つまり、本来はこうですわね」
レイベルナは帳面の空白を指先で示した。
「返却済みの文字。トマスさんの署名。上役の確認印」
「はい!」
「その日は、いつでしたか?」
トマスは少し考えたあと、はっと顔を上げた。
「あれは……そうです。レイベルナ嬢が婚約破棄された、あの祝宴の前日です!」
レイベルナは一度だけ瞬きをした。
「その言い方は、王宮内で広まっているのですか?」
「す、すみません! 文書院でも、その言い方が一番通じておりまして……」
「通じてしまっているのがひどいですわ」
財務卿が小さく咳払いした。
「正式には、春の祝宴の前日ですな」
「今後は正式な方でお願いします」
「承知しました。口頭ではつい通じやすさを優先してしまいました!」
「その方向がかなり不名誉ですわ」
トマスは慌てて話を戻した。
「と、とにかく、その日の夕刻です。支払い保証用封蝋印は戻っていましたし、返却済みにもなっておりました」
「ですが、いまこの帳面では、その返却済みの文字と確認印だけが消えています」
「……だから、おかしいのです」
トマスは丸いパンを握ったまま、青ざめた顔で帳面を見下ろした。
「僕が見た時には、確かにありました。返却済みの文字も、上役の確認印も。僕はそのあとに補助確認として署名しただけです。なのに、いま残っているのは僕の名前だけで……これでは、僕が最後に触って戻さなかったみたいに見えます」
財務卿の顔から、わずかな軽さが消えた。
「見習いの署名だけを残した、ということですな」
「そう見えますわね」
レイベルナは帳面に目を落とした。
最後の行には、トマス・リードの署名だけが残っている。
その右隣にあるはずの返却済みの文字と、上役の確認印はない。
セドリックが静かに言った。
「弱い立場の者だけが、最後に触れたように見える」
「僕、やっぱり犯人にされるんですか!?」
「まだ断定しておりません」
「その言い方がもう怖いです」
財務卿が帳面を覗き込んだ。
「紙を見ましょう。人は嘘をつきますが、紙は意外と雑に傷を残します」
「財務卿、今それを言われると王宮中の書類が怖くなってきましたわ」
「書類はもともと怖いものですゆえ」
「僕、もう一生書類を触りたくありません!」
「それは文書院の記録係見習いとして、かなり大きな問題ですわ」
レイベルナは帳面の空白部分へ視線を落とした。
財務卿が指先で、返却確認欄の端をそっと示す。
「ここです。本来なら返却済みと書かれる場所ですな」
紙の表面に触れると、そこだけわずかに荒れていた。
消し跡のように薄く毛羽立ち、インクの黒がほんの少しだけ残っている。
「……消されてますわね」
「ええ。消したつもりだったのでしょうな。ですが、紙はそこまで都合よく忘れてくれません」
トマスが息を呑んだ。
「やっぱり……僕が見た記録は、あったんですね」
「ええ」
レイベルナは帳面を閉じた。
「では、次に確かめるべきことは一つです」
「この返却済みの文字と、上役の確認印を消した責任者をお呼びします」
トマスの肩が跳ねた。
「そ、それって……犯人を呼ぶんですか?」
「犯人かどうかは、呼んでから確かめますわ」
財務卿が猫を抱え直した。
「それが一番早いですな」
「財務卿、少し嬉しそうです」
「朝食が止まっておりますので、せめて話だけでも進んでほしいのです」
「正直ですね」
「国庫を預かる身ですので」
「急に財務卿らしいですわ」
「たまにはそういうことを言わないと、ただの猫を抱いたおじさんだと思われますゆえ」
「先ほどまではかなり近かったです」
「否定しきれないのがつらいところですなぁ」
セドリックが扉の前へ一歩出た。
「呼ばれた者が焦るようなら、拘束します」
「セドリック卿、突然こちらに呼ばれた方はだいたい焦りますわ」
「では、焦って逃げようとした場合は、床に押さえ込みます」
「より重くなりましたわ」
「護衛ですので」
レイベルナは銀の鈴を持ち上げた。
「では、封蝋印の返却記録を消した責任がある者を、お呼びしますわ」
トマスは丸いパンを握りしめたまま、息を止めた。
――チリン。




