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【連載版】婚約破棄? 責任者をお呼びしますわ 〜スキル《呼び鈴》で大変なことになりました〜  作者: 桜めんと
第2章「封蝋印が消えましたので、責任者をお呼びしますわ」
8/25

第8話 猫の下にもありませんでしたわ


 その一言で、監査室の空気が変わった。

 レイベルナは机の上の小箱を見る。


 赤い蝋棒。

 控え番号のリスト。

 使用記録の帳面。


 だが、王太子執務室の紋を押すための小さな印だけがない。


 封蝋印――正式には印璽いんじと呼ばれる、蝋に押すための印である。

 これが押されれば、その書類は王太子執務室を通った正式文書として扱われる。


 支払い保証も、命令書も、契約控えも。

 ただの紙では済まなくなる。


「最後に封蝋印を確認されたのは、いつですか?」


「レイベルナ嬢が婚約破棄された日の前日です」


 レイベルナは一度だけ瞬きをした。


「財務卿。それは日付の呼び方として適切なのでしょうか」


「王宮内では、今のところ一番通じます」


「通じてしまうのが困ります」


 扉の横に立つセドリックが、静かに口を開いた。


「正式には、春の祝宴の前日です」


「そうでしたな。公文書にはそちらで残します」


「最初からそうしてください」


「口頭ですので、分かりやすさを優先しました」


「分かりやすさの方向が少し嫌ですわ」


 財務卿は咳払いし、記録帳を開いた。


「春の祝宴の前日、支払い保証用の封蝋印は一度使われています。⋯⋯問題はその後です」


「返却記録がないのですね?」


「ええ。戻った記録がありません。しかも、印そのものも、ないのです」


「かなり悪い状況ですわ」


「はい。私の朝食が止まる程度には」


 机の端には冷めかけた茶と、かじりかけのパンが置かれている。


「それは朝食よりも優先ですわね」


「もちろんです。私にとっては国庫、朝食、猫の順です」


 財務卿の腕の中で、灰色の猫が不満そうに「みゃ」と鳴いた。


「猫が抗議していますわ」


「仕方ありませんな」


「あとで謝ってくださいませ」


「本当は逆だと伝えましょう」


「それだと国庫が最後になりますが?」


「では、表向きは国庫が先だと伝えましょう」


「表向きでは困ります」


「猫には本音を、陛下には建前を」


「財務卿」


「失礼しました。国庫を守った後で、干し魚を渡します」


「それは経費ではありませんね?」


「私費です。経費にすると、今度は私が呼ばれますゆえ」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、レイベルナが記録帳へ視線を落とすと、その緩みはすぐ消える。


 最後の行には、細い文字で署名が残っていた。

 だが、名前以外の部分がぽっかりと空いている。


「この署名は?」


「王宮文書院、記録係見習いのトマス・リードです。まだ若い男ですな」


「見習い?」


 セドリックが記録帳を見た。


「押しつけやすい立場です」


「ええ。見習いの署名だけ残り、返却確認だけ空白。都合がよすぎますな」


「どこまで探しましたか?」


「王太子執務室の棚を15か所、引き出しを27か所、侍従室を4部屋、書類箱を12箱」


「かなり探されましたね」


 財務卿は少しだけ目をそらした。


「念のため、猫の寝床を2つ」


「猫の寝床もですか」


「大事なものは、なぜか猫の下から出てくることがありますゆえ」


「それは王宮の常識ですか?」


「我が家の常識です。ですが、今回は違いました。猫は無罪でした」


 猫が得意げに鳴いた。


「誇るところではありませんね」


「今のは無罪の者だけが出せる鳴き声ですな」


「それで結局見つからなかった、と?」


「はい、今のところ何も見つかっておりません。猫にも、棚にも、引き出しにも、書類箱にも印はありませんでした」


「つまり、誰かが持ち出した可能性が高いということですね」


「そう見ております」


 レイベルナは記録帳を閉じた。


 鈴は近道になる。

 だが、呼び方を間違えれば責任の糸が絡まる。


 犯人を呼ぶには、まだ早い。

 まずは、この空白に関わった者からだ。


「財務卿」


「はい」


「この署名をしたトマスさんは、今どちらに?」


「文書院の控室か食堂でしょうな。朝のこの時間ですゆえ」


「では、朝食中かもしれませんね」


 財務卿は自分のパンを見た。


「……少しだけ、仲間が増える気がします」


「財務卿」


「失礼しました。ただ、もし食事中でしたら、パンは持ったまま来ていただけるとよいですな」


「なぜですか?」


「私だけが食べかけのパンを机に置いていると、少し恥ずかしいゆえ」


 レイベルナはそれをスルーして右手を開いた。

 銀の鈴が、手のひらに現れる。


 財務卿の表情が改まった。

 セドリックが扉の前で姿勢を正す。


 レイベルナは記録帳に手を添えた。


「支払い保証用封蝋印の返却記録に、最後に名を残された方をお呼びしますわ」


 澄んだ銀の音が、監査室に落ちた。


 ――チリン。



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― 新着の感想 ―
今回も面白かった。 1章の契約の責任で契約書呼べたので、「印璽そのもの」「印璽盗難の責任者」呼ぶこともできそう。 例えば「召喚はできるけど送還はできないので証拠保全には不利」とか「呼ばない理由」の明示…
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