第7話 初出仕ですのに、封蝋印が足りませんわ
短編の加筆修正はここまで(第6話まで)です。
この第7話から~が新章になります。
引き続き、お読みいただけると嬉しいです!
あの婚約破棄の夜から、3日が過ぎていた。
王都の噂は、正式発表より早く広がっている。
国王陛下が寝間着で現れた。
王妃陛下はお茶会を途中ですっぽかした。
財務卿は猫ごと呼ばれ、そのまま仕事をさせられた。
宝飾商は金貨834枚と叫び、最後には契約書まで大広間に落ちてきた。
そんな噂が飛び交う中、王宮の廊下でも城下の茶店でも、同じ名が囁かれるようになっていた。
――呼び鈴の令嬢。
以前は笑い混じりだった名が、今は少しだけ違う響きを持っている。
レイベルナ・ファリスは、王宮監査室の前で紺色の外套を整えた。
淡い金の髪は耳の後ろで品よくまとめ、首元には小さな真珠の留め具だけを飾っている。
華美ではない。だが、すっきりとした装いは書類の山に向かう覚悟にはちょうどよかった。
もう、王子の婚約者ではない。
今日は、王宮監査室の臨時顧問としての初出仕だった。
「緊張されていますか」
背後から声がした。
振り向くと、セドリック・オルブライトが立っていた。
黒髪を後ろで束ね、近衛騎士の濃紺の制服を隙なく着ている。背は高く、灰色の瞳は静かで、右腕の袖口には包帯を隠すように手袋が重ねられていた。
「セドリック卿。お迎えに来てくださったのですか」
「はい。監査室まで」
「王宮内ですのに?」
「王宮内ですので」
真顔で返され、レイベルナは少しだけ言葉に詰まった。
今の王宮内こそ、危険だということだろう。
「まだ腕は治っていないのではありませんか?」
「動きます」
「動くことと、治ることは違います」
「今日は護衛任務ですので」
「同じ言葉で押し通すおつもりですね」
「私の任務です」
そういう真面目なところが、少し困る。
レイベルナが視線を落とす。
自分のスキル《呼び鈴》のせいで、護衛をつけなければならない事態になっているのは事実だった。
セドリックは何でもない顔で続けた。
「あなたの鈴が危険を呼ぶのではありません。責任から逃げている者が、危険を抱えているだけです」
「あ……ありがとうございます」
「事実です」
「そ、そういうところです」
「何がでしょうか」
「いいえ。何でもありません」
レイベルナは扉へ向き直った。
王宮監査室の扉は重い樫材でできている。上部には王家の紋章、その下には小さな銅板で王宮監査室と刻まれていた。
扉を開けると、紙の匂いがした。
大きな机には書類箱、帳簿、封筒、紐で束ねた証言書が山になっている。壁際には封印済みの小箱が積まれ、窓辺には王太子執務室から運ばれた記録棚が置かれていた。
そこには財務卿がいた。
本来、監査室の人間ではない。
今日は、王太子執務室から回収した印章箱と封蝋印の保管記録を引き渡すため、朝からここに詰めていたらしい。
中央の机には冷めかけた茶と、皿にのったかじりかけのパンが置かれていた。
財務卿の腕の中では、灰色の猫だけが満足そうに丸くなっている。
「来てくださいましたか、レイベルナ嬢」
「財務卿。おはようございます」
「おはようございます」
「朝食の途中でしたか」
「途中で止めました。封蝋印が1つ足りないことに気づいてしまいまして」
猫が「みゃ」と鳴いた。
「ちなみに、この子は先に食べ終わりました」
「猫はちゃんと食べられたようで何よりです」
「はい。猫に国庫の責任はありませんので」
「財務卿も、後で必ず召し上がってください」
「封蝋印が3つそろっていれば、そうしておりました」
その言い方に、レイベルナは表情を改めた。
財務卿は猫の背を一度だけ撫で、机の上の小箱へ視線を戻す。
「冗談で済めばよかったのですが」
セドリックが扉の横に控える。
財務卿は彼の右腕を見た。
「セドリック卿。その腕でレイベルナ嬢の……?」
「はい、護衛です」
「医務官には何と言われたのです?」
「無理をするなと」
「では、今なさっているのは無理では?」
「これは護衛なので」
「若い方は、同じ言葉で押し通すのが得意ですなぁ」
「財務卿も、いつも猫を理由にしておられます」
「⋯⋯猫は例外ですからなぁ」
猫が財務卿の袖に顔をこすりつけて鳴いた。
「ほら、本人もそう申しております」
「ただ鳴いただけでは?」
「その可能性はあります」
「認めるのですね」
「国庫と猫に関しては、私は誠実でありたいゆえ」
ほんの少しだけ空気が緩んだ。
だが、財務卿が小箱の蓋へ手を置くと、監査室の温度はすぐに戻った。
「では、本題に入りましょう」
その一言で、レイベルナは背筋を伸ばした。
財務卿はゆっくり小箱を開ける。
中には赤い蝋棒、控え番号、使用記録の帳面が収められていた。
「王太子執務室は、現在すべての権限を凍結しています」
「はい」
「その中で、最初に見つかった問題がこれです」
財務卿は小箱の空いた場所を指で示した。
「王太子執務室の封蝋印は、本来3つあります。公式通知用、支払い保証用、緊急命令用の3つです」
レイベルナは小箱の中を見つめた。
「では、足りないのは」
「財務に大きく関わるこの封蝋印です」
あの夜の記憶が一気に戻ってきた。
モーント子爵家への支払い保証。
王子の私的署名。
金貨834枚。
西棟結界修繕費。
すべての入口には、この封蝋印があった。
財務卿は朝食を止めたまま、そして猫を抱いたまま、真面目な顔で言った。
「レイベルナ嬢。王太子執務室の名で『支払い保証』を出せる封蝋印が、消えております」




