第6話 あなたの鈴の音が嫌いではありません
セドリックが近づいてくる。
剣を収め、レイベルナの前で足を止めた。
「お怪我は」
「ございません。セドリック卿こそ、腕を」
「浅い傷です」
「浅い傷は、袖を赤く染めません」
「では、浅くない傷です」
「認め方が雑です」
セドリックは真顔だった。
レイベルナはこんな状況なのに、少し笑ってしまった。
国王が大広間の中央へ戻る。
その顔は、父親ではなく王のものだった。
「エドガル」
王子は震えた。
「父上、私は、そこまでのことになるとは」
「署名したのか」
「それは」
「したのか?」
王子は黙った。
沈黙は、肯定だった。
国王は目を閉じた。
王妃が王子から視線を外す。
それが何より重かった。
「エドガル第一王子の王位継承権を当面停止する。王太子執務室の権限も凍結。詳細は明朝、枢密会議にかける」
「父上!」
「黙れ!」
国王の一言で、王子は口を閉じた。
「モーント子爵は王城結界破壊、契約魔獣持ち込み、王家資金詐取の疑いで拘束する。黒外套の男も同様だ。侍従は証言保護下に置く。財務卿」
「はい」
「猫も一緒でよい。記録を取れ」
財務卿は猫を抱いたまま、目に見えて安堵した。
「陛下、猫も記録係に?」
「猫は寝かせておけ。お前がしっかりと取れ」
「承知いたしました」
腕の中の猫が「みゃあ」と、不満そうに鳴いた。
「猫は異議を申し立てておりますが」
「却下だ」
「はい。国庫のため、猫の異議を退けます」
張り詰めた広間の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
王妃がミレーヌを見る。
ミレーヌは床に座り込んだまま、涙で顔を濡らしていた。
「ミレーヌ・モーント」
「は、はい」
「あなたは今夜、自分の父が何をしたかを見ましたね」
「……はい」
「あなた自身がどこまで知っていたかは、後で調べます。ただ、ひとつ覚えておきなさい。知らなかったことは、時に罪を軽くします。だが、何も知ろうとしなかったことまでは消してくれません」
ミレーヌは声を上げて泣いた。
ミレーヌは今初めて、自分が寄りかかっていた甘い言葉の下に、何が埋まっていたのかを知ったのだろう。
王子はまだ何か言いたげだった。
だが、近衛騎士に両側を固められ、力なく膝をついた。
その姿を見ても、レイベルナの胸は痛まなかった。
たぶん、もっと前に痛み終えていたのだ。
国王がレイベルナへ向き直る。
「レイベルナ嬢」
「はい」
「今夜のこと、王家として深く詫びる。婚約破棄については、王家側の重大な瑕疵として扱う。ファリス公爵家には正式に謝罪と補償を行う」
レイベルナは膝を折った。
「承りました」
「そして、君のスキルについてだが」
大広間の視線が再び銀の鈴へ集まった。
小さな鈴。
ただ鳴るだけだと笑われたもの。
今夜、その音で国王も王妃も財務卿も商人も黒幕も契約書も呼ばれた。
誰かが小さくつぶやく。
「恐ろしい鈴だ」
レイベルナは聞こえないふりをした。
国王は少しだけ口元を動かす。
「恐ろしいのは鈴ではない。責任を見ない者たちだ!」
広間が静かになった。
「レイベルナ嬢。君は、ただ人を呼んだのではない。誰が何に責任を負うべきかを正しく見極めた。これは王宮に必要な力だ」
「もったいないお言葉です」
「婚約は解消される。だが、君さえ望むなら、王宮監査室に席を用意したい。もちろん、公爵家と相談のうえだ」
レイベルナは少し驚いた。
王妃が静かにうなずく。
「あなたほど、逃げる責任者を捕まえられる方は貴重ですもの。書類を見る目もありますし」
財務卿が猫の毛を上着から払いながら言った。
「できれば財務に来ていただきたいですな。金の流れで怪しいところを見つけるたびに、私が猫ごと呼ばれるのは困りますゆえ」
腕の中の猫が、同意するように「みゃ」と鳴いた。
「財務卿自身ではなく、猫のためですか」
「もちろん国庫のためです。そして猫の安眠はその次でございます」
「順番が逆に聞こえます」
レイベルナがそう言うと、財務卿は真面目な顔で猫を抱き直した。
「正直に申し上げますと、半分は猫のためです」
「財務卿」
国王が低く呼ぶ。
財務卿は深々と頭を下げた。
「国庫のために、記録へ戻ります」
レイベルナは今日初めてふふっと声を出して笑った。
ほんの少しだけ。
だが、その笑いで、胸の奥に残っていた硬いものがほどけた気がした。
「考えさせていただきます」
国王は少し安心したように頷いた。
そのとき、王子がかすれた声で言った。
「レイベルナ……」
彼女は振り向いた。
王子は床に膝をついたまま、顔を歪めている。
「私は、ただ……君がいつも正しくて、息が詰まったんだ。ミレーヌは、私を責めなかった。私を王子として見てくれた」
レイベルナはしばらく黙っていた。
それから静かに答えた。
「殿下」
「何だ」
「私は、あなたを王子として見ておりました」
王子の目が揺れた。
「だからこそ、間違えば止めようとしました。署名の重さを知ってほしかった。国庫の金が民の税であることを忘れないでほしかった。あなたが王になるかもしれない方だったからです」
王子は何も言えなかった。
「責めなかった方が、優しかったのではありません。責任から目を逸らさせる言葉は、時にとても甘いだけです」
レイベルナは鈴を消した。
右手が軽くなる。
「私はもう、あなたの婚約者ではございません。ですので、これ以上は申し上げません」
王子はうつむいた。
近衛騎士たちに連れられ、大広間を出ていく。
ミレーヌも侍女たちに支えられ、泣きながら連れていかれた。モーント子爵と黒外套の男は縄をかけられ、侍従は震えながら証言のため別室へ向かう。
大広間には、壊れた窓と焦げた床と、妙に現実感のない空気が残った。
祝宴は当然、中止になった。
貴族たちは控室へ移され、王宮の使用人たちは慌ただしく動き回る。結界管理官は工具箱を抱えて西棟へ走り、財務卿は猫を抱えたまま記録係のもとへ戻っていった。
レイベルナは広間の端に立ち、深く息を吐いた。
疲れた。
とても疲れた。
婚約破棄されたことより、人を何人も呼んだことより、最後の魔獣騒ぎが体に響いている。
右手にはまだ、鈴の感触が残っていた。
「座りますか」
声をかけられ、振り向く。
セドリックが立っていた。
腕には白い布が巻かれている。応急処置だけ済ませたらしい。
「セドリック卿こそ、医務室へ」
「あとで行きます」
「それは医務官に怒られる返答です」
「承知しております」
「承知しているなら、今行くべきでは?」
「あなたが倒れないのを確認してから行きます」
真顔で言われ、レイベルナは言葉に詰まった。
セドリックは近くの椅子を引く。
彼女は少し迷ったが、素直に座った。膝が思ったより頼りなかったからだ。
「助かりました」
セドリックが言った。
レイベルナは首を横に振る。
「助けていただいたのはこちらです」
「いいえ。あなたが契約書を呼ばなければ、影狼は止められませんでした」
「セドリック卿が斬ってくださらなければ、契約書はただの紙でした」
「紙ではありません。証拠です」
「騎士の方がそうおっしゃると、少し重く聞こえますね」
「実際、重いものです」
セドリックは壊れた窓の方を見る。
「署名も、印も、証言も。剣で斬れるものより、重い時があります」
レイベルナは彼の横顔を見た。
この人は、分かっている。責任がどこから生まれ、どこへ向かうのか。
それを正しく怖がれる人だ。
「セドリック卿」
「はい」
「私の鈴は、うるさかったでしょうか」
彼は少し考えた。
そして、真面目な顔のまま答えた。
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
彼の声は、広間の騒ぎの後だからこそ、よく通った。
「私はあなたの鈴の音が嫌いではありません」
レイベルナは一瞬、返事に困った。
自分の胸の奥が、鈴より小さく鳴った気がした。
――チリン、と。
「それは、褒め言葉として受け取っても?」
「そのつもりでした」
「セドリック卿は、褒め言葉が少し硬いのですね」
「よく言われます」
彼はまったく照れずに答えた。
だが、少しだけ視線を外した。本当に少しだけ。
そのわずかな変化が、今夜のどんな賛辞よりも不思議と心に残った。
「医務室へ行ってください」
レイベルナが言うと、セドリックは静かに頷いた。
「では、あなたも控室へ。ひとりで歩けますか」
「歩けます」
そう答えた直後、立ち上がろうとした膝が少しだけ震えた。
セドリックは何も言わず、手を差し出した。
大げさに支えるわけではない。
ただ、必要なら掴める位置に置かれた手だった。
レイベルナは少し迷い、その手に指を重ねた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
「セドリック卿が礼を言うところではないと思います」
「言いたかったので」
真面目な顔で返されて、レイベルナはまた言葉に困った。
広間の中央では、まだ国王たちが厳しい声で指示を出している。
砕けた窓から入る夜風は冷たく、床には影狼の焦げ跡が残っていた。
それでも、レイベルナの胸の奥だけは、さっきより少し温かかった。
「私の鈴は、責任者を呼ぶ音なのだと思っていました」
「違うのですか」
「今は、少しだけ違う気がします」
レイベルナは右手の中に、銀の鈴を呼び出した。
小さく、軽く、何年も笑われてきた鈴。
だが、もう恥ずかしくはなかった。
「必要な人や物を、必要な時に呼び戻す音なのかもしれません」
セドリックはその鈴を見てから、レイベルナを見た。
「では、私が必要な時は呼んでください」
「責任者として?」
「それでも構いません」
少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「できれば、別の理由でも参ります」
レイベルナの指先が止まった。
胸の奥で、また小さく音が鳴る。
今度は聞こえないふりができなかった。
「……では、いつか」
「はい」
「お茶にお誘いしても?」
セドリックは一瞬だけ目を見開いた。
それから、今夜初めて分かるほど柔らかく笑った。
「喜んで」
レイベルナは鈴を揺らした。
――チリン。
その音は、国王も王妃も財務卿も呼ばなかった。
ただ、目の前の騎士が一歩だけ近づいた。
かつて役立たずと笑われた鈴は、今も銀色の小さな鈴のままだ。
剣にもならない。
炎も出ない。
人を癒やす花も咲かせない。
だが、その音は逃げた責任を呼び戻し、必要なものを光の下へ出し、必要な人をそばへ呼ぶ。
レイベルナは銀の鈴を胸の前でそっと握った。
婚約破棄された夜。
彼女の未来は、終わったのではない。
小さな鈴の音とともに、ようやく始まったのだ。




