第5話 契約の責任
――チリン。
鈴の音が、影狼の咆哮を裂いた。
大広間の中央に、太った男が転がり出てくる。
豪奢な上着の前をはだけ、片手に酒瓶を持ち、もう片方の手には黒い封筒を握っていた。
床に尻もちをついた男は、何が起きたのか分からない顔で周囲を見回す。
「な、何だ! ここはどこだ!」
ミレーヌが叫んだ。
「お、お父様!」
モーント子爵だった。
子爵は戸惑う娘を見た。
慌てるエドガル王子を見た。
寝間着姿の国王を見た。
深紫の夜会着の王妃を見た。
最後に、赤く目を燃やす影狼を見た。
一瞬で顔が土色になった。
「なぜ、あれがここに」
その一言で、広間の空気が止まった。
レイベルナは静かに言った。
「ご説明いただけますか」
「わ、私は何も」
モーント子爵は反射的に首を振った。
「何もしておらん! 私はただ、殿下のために、娘のために」
「影狼をご存じなのですね」
「知らん!」
「今、あれ、とおっしゃいました」
「見れば分かるだろう! 魔物だ!」
子爵の声は大きい。
だが、大きいだけだった。
国王の目が細くなる。
「モーント子爵。王城に契約魔獣が入った理由を知らぬと申すか」
「もちろんでございます、陛下! 私はこのような恐ろしいことなど」
影狼が床を蹴った。
再度、セドリックが前に出る。
剣と爪がぶつかり、黒い火花が散った。
近衛騎士たちが横から牽制するが、影狼の動きはさらに荒くなっている。首元の契約輪が赤く明滅し、ひびの入った金属が嫌な音を立てていた。
結界管理官が叫ぶ。
「契約が暴れています! このままでは命令を無視して、近くの人間から襲います!」
レイベルナは鈴を握り直した。
指先に重さが残っている。
だが、止めるわけにはいかない。
「では、契約魔獣を実際に手配した責任者をお呼びします」
「やめろ!」
モーント子爵が叫んだ。
エドガル王子も同時に叫ぶ。
「呼ぶな!」
財務卿が猫を抱いたまま、ぼそりと言った。
「止める声が増える時ほど、鳴らした方がよい時ですな」
猫が「みゃ」と鳴いた。
レイベルナは鳴らした。
――チリン。
今度現れたのは、黒い外套の男だった。
片目に傷があり、腰には短剣を差している。現れた瞬間に逃げようとしたが、セドリックが影狼を弾きながら投げた短剣が、男の外套を床に縫い止めた。
「動くな」
短い声だった。
黒外套の男は喉を鳴らして固まる。
モーント子爵が顔を引きつらせた。
「知らん。私はそいつを知らん」
黒外套の男が怒鳴った。
「ふざけるな! 緋晶石を粗悪品に替えろと言ったのはあんただろうが!」
広間にどよめきが走った。
「王子の婚約破棄で会場が混乱したところへ契約魔獣を暴れさせる。そこで王子がミレーヌ嬢を守れば、美談になる。そういう話だった!」
「黙れ!」
モーント子爵の声が裏返る。
黒外套の男は床に縫い止められた外套を引っ張った。
「黙るものか! 支払いもまだだ! 粗悪な結界石の手配、契約魔獣の誘導、黒札の準備。全部やらせておいて、失敗したら知らん顔か!」
ミレーヌが父を見た。
「お父様……?」
「違う。違うのだ、ミレーヌ。私は、お前を王子妃にするために」
「人を、襲わせようとしたのですか」
ミレーヌの声は細かった。
だが、広間にはっきり届いた。
モーント子爵は答えられなかった。
エドガル王子が首を振る。
「私は知らなかった。魔物を入れるなど、本当に」
老学者が低く言う。
「殿下。知らなかったことを増やしても、署名した責任はなくなりません」
「先生!」
財務卿が頷いた。
「金も同じですぞ」
猫もなぜか頷いたように見えた。
その時、影狼の契約輪が強く光った。
黒外套の男の顔色が変わる。
「まずい。契約不履行だ」
セドリックが影狼を睨んだまま問う。
「何が起きる」
「報酬が払われず、命令も破綻した。契約魔獣が契約を食い破ろうとしている。輪が完全に割れたら、あれは誰の命令も聞かない!」
影狼の背中から立ち上る黒い毛が膨れた。
煙のようだった体が濃くなり、床を踏む足音が重くなる。
赤い目は人を見ていない。近くにある熱と血だけを探しているようだった。
セドリックが騎士たちへ叫ぶ。
「陛下と王妃陛下を壁際へ! 魔術師は動きを止めろ! 実体が濃くなった今なら当たる!」
近衛騎士たちが動く。
氷の魔術が床を走り、影狼の前脚に絡む。槍が左右から突き出され、剣士が背後へ回った。
だが、影狼は止まらない。
氷を砕き、槍を弾き、黒い爪で床を削る。
レイベルナは黒い外套の男を見る。
「契約を止める方法は」
男は唇を噛んだ。
「言えば、俺が」
セドリックが剣を構えたまま言う。
「言わなければ、今この場で全員が危ない」
男は影狼を見た。
契約輪がまたきしむ。
赤いひびが広がっていく。
「契約書だ」
「契約書?」
「支払い主の血印がある。そこを破棄すれば輪が緩む。だが、契約書は俺の隠し部屋に」
レイベルナは鈴を持ち上げた。
男が顔を歪める。
「まさか」
「契約魔獣を縛っている契約書をお呼びします」
「物まで呼ぶのかよ!」
王子が叫ぶ。財務卿が猫を撫でながら言った。
「契約書が責任の中心になる場合もありますからなぁ」
「そんな理屈があるか!」
レイベルナは鳴らした。
――チリン。
大広間の床に、古い羊皮紙が一枚落ちた。
人ではなかった。
レイベルナ自身も、一瞬だけ息を止めた。
鈴は、人だけを呼ぶのではない。
責任を負うべき者だけではなく、その責任の中心にある物まで呼ぶ。今この瞬間、レイベルナはそれを初めて知った。
床に滑り落ちた羊皮紙には、血のような赤い文字で契約文が書かれていた。端には黒い獣の紋があり、中央にはモーント子爵の血印、黒外套の男の印、そしてエドガル王子の私的署名が並んでいる。
王子の顔から血の気が消えた。
「なぜ、私の名が」
黒外套の男が吐き捨てる。
「支払いの信用が必要だったんだよ。王子の名があれば、契約魔獣を扱う連中も動く」
「私は、こんな契約書に署名した覚えは」
モーント子爵が視線を逸らした。
財務卿が低く言う。
「殿下。白紙に署名なさいましたか」
王子は黙った。
王子の沈黙が毎回答えだった。
老学者が胸を押さえる。
「白紙署名は、契約の授業で最初に禁じたはずです」
「先生、今は」
「今だからこそです」
王妃の声が冷たく響いた。
「エドガル。あなたは何も知らなかったのではありません。知ろうとしなかったのですね」
王子は言い返せなかった。
影狼が吠える。
契約書が呼ばれたことで、契約輪のひびはさらに広がった。
報酬を受け取れない魔獣が、契約そのものを食い破ろうとしている。
セドリックが叫ぶ。
「解除方法は!」
黒外套の男が震えながら答えた。
「第三節だ! 支払い主の血印を破棄すれば輪が緩む! だが契約当事者か、現場責任者の刃でしか切れない!」
レイベルナは羊皮紙を拾った。
第三節。
そこには、モーント子爵の血印がある。
指で破ろうとしても、薄い膜に弾かれた。力を込めても、紙は少しも裂けない。
「現場責任者の刃……」
レイベルナは顔を上げた。
セドリックと目が合う。
彼は影狼の爪を受けながら、わずかに頷いた。
「投げてください」
「届きますか」
「届かせます」
短い返答だった。
だが、不思議と迷いは消えた。
レイベルナは契約書を両手で持つ。
影狼がセドリックへ食らいつこうとする。騎士たちが横から牽制するが、暴走した魔獣はほとんど止まらない。
「セドリック卿!」
契約書を投げた。
薄い羊皮紙が空中でひらりと舞う。
影狼がそれを追うように首を向けた。
セドリックが瞬時に踏み込む。
銀の剣が光を引いた。
爪の内側へ入り、牙の下を抜け、落ちてくる羊皮紙だけを捉える。
刃が、血印を斬った。
赤黒い印が裂けると同時に、影狼の首輪が砕けた。
魔獣が吠えた。
だが、その声は先ほどまでと違っていた。
怒りではなく、解放に近い声。
煙の毛がほどけ、赤い目の光が薄れていく。影狼は最後にモーント子爵を睨み、黒外套の男を睨み、それからセドリックを見た。
セドリックは剣を構えたまま動かない。
影狼は床を焦がす足跡を残し、砕けた窓から夜へ跳び出した。
広間に静寂が戻った。
誰もすぐには声を出せなかった。
レイベルナはゆっくり息を吐く。
その右手が震えていた。
怖くなかったわけではない。
ただ、怖がる順番が後になっただけだ。
セドリックが剣を下ろす。
袖が裂れ、腕から血が流れていた。
それを見た瞬間、レイベルナの胸が強く鳴った。
「セドリック卿、腕が」
「浅い傷です」
「浅い傷は、床に血を落としません」
「では、浅くない傷です」
「認め方が雑です」
こんな時なのに、彼は真顔だった。
レイベルナはほんの少しだけ笑いかけて、すぐに表情を引き締めた。
まだ終わっていない。
大広間の中央には、モーント子爵が座り込んでいる。
床には契約書の切れ端。
黒外套の男は外套を縫い止められたまま動けず、侍従は震えている。
エドガル王子は、何か言いたげに口を開いたまま、声を出せないでいた。
国王が大広間の中央へ歩み出る。
寝間着の上に羽織ったガウンが揺れた。
その姿は滑稽なはずなのに、誰も笑わなかった。
国王は王子を見た。
「エドガル」
王子の肩が震える。
低い声が、大広間に落ちた。
「ここからは、王として聞く」




