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【連載版】婚約破棄? 責任者をお呼びしますわ 〜スキル《呼び鈴》で大変なことになりました〜  作者: 桜めんと
第1章「婚約破棄されましたので、責任者をお呼びしますわ」
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第4話 結界が落ちた夜


 冷たい夜風とともに、黒い影が飛び込んできた。


 狼に似ていた。

 だが、普通の狼ではない。


 背中から煙のような毛が立ち上り、赤い目が暗く燃えている。

 四肢が床に触れるたび、磨き抜かれた石がじゅうっと黒く焦げた。


「あれは、影狼だ!」

「なぜ王城に!」

「結界はどうした!」


 近衛騎士たちが一斉に前へ出る。


 セドリックはレイベルナの前に立った。


「下がってください」


「私は」


「議論は後です」


 彼は剣を抜いた。


 影狼が吠える。

 その声に、何人かの貴族がその場に崩れ落ちた。恐怖を直接胸に押し込まれたような音だった。


 エドガル王子はミレーヌの腕をつかんで後ずさる。


「れ、レイベルナだ! あの鈴だ! あれが人を呼ぶなら、魔物も呼んだに違いない!」


 視線が一瞬、レイベルナへ集まった。

 セドリックが即座に言った。


「違います。魔物の侵入は鈴より前に始まっています。西窓の外の結界光が、少し前に落ちました」


 レイベルナは彼の背中を見た。


 この混乱の中で、彼は見ていた。

 誰が叫んだかではなく、何が起きたかを。


「ありがとうございます」


「礼は後です。下がってください」


「いいえ。ここで下がると、殿下の発言が事実のようになります」


 セドリックが一瞬だけ振り返った。


「今、それを気にしますか」


「はい。大事ですので」


 彼はほんのわずかに目を細めた。

 呆れたのか、感心したのかは分からない。


 影狼が跳んだ。

 それをセドリックが正面から受ける。


 剣と爪がぶつかり、火花が散った。彼の靴底が床を削る。近衛騎士たちが左右から斬り込むが、影狼の体は煙のように刃を逃がした。


「実体が薄い!」


「契約された魔獣です!」


 騎士のひとりが叫んだ。


「誰かが城内へ呼び込んだ可能性があります!」


 国王の顔が変わる。


「西棟結界か」


 財務卿が猫を抱いたまま震えた。


「まさか、修繕費の流用で……」


 レイベルナは鈴を握った。


「では此度の魔物侵入に関する『責任者』をお呼びしましょう」


「こ、今度は何が出る!」


 王子が叫ぶ。


「責任者です」


「それが怖いんだ!」


 ――チリン。


 現れたのは、王城結界管理官だった。


 初老の男で、寝間着ではなく作業服姿。

 手には工具箱を持ち、顔には煤がついている。西棟へ走っていた途中だったのか、現れた勢いのまま床を二歩ほど滑った。


「わっ、どこですかここは!? 私は今、西棟の結界盤へ――」


 管理官は言いかけて、寝間着姿の国王を見た。


「陛下……ね、寝間着?」


 次に、深紫の夜会着に肩掛けをまとった王妃を見た。


「お、王妃陛下!?」


 最後に、砕けた窓と影狼を見た。

 管理官は工具箱をぎゅっと抱え直した。


「工具箱を持っていて正解でした。結界以外にも、直すところが多そうです」


 財務卿が猫を抱えたまま、力なく言った。


「まず王宮の財務から直していただきたい」


「財務卿」


 国王が低く呼ぶ。


「失礼いたしました」


 猫が「みゃ」と鳴いた。


 財務卿は小さくうなずいた。


「猫も同意しております」


「財務卿」


「申し訳ございません。報告を聞きましょう」


 そこで管理官の目が、すぐに真剣なものへ変わった。


「陛下。西棟結界が落ちました。修繕用の緋晶石が粗悪品に差し替えられております」


「粗悪品だと?」


 国王の声が低くなる。

 管理官は膝をついて言った。


「本日夕刻、王太子執務室から緊急納入の指示書が届きました。従来の納入業者ではなく、モーント子爵家推薦の商会から緋晶石を受け取るように、と。印章は本物でございました」


 ミレーヌの顔から血の気が引いた。


「お父様の……商会?」


 王子は言葉を失っている。

 レイベルナは静かに尋ねた。


「殿下。西棟結界の修繕費を、別用途へ流用なさいましたか」


「し、していない」


「では、緋晶石の納入変更指示は」


「知らない、知らない!」


「王太子執務室の印章は」


「知らないと言っている!」


 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


 王子付きの侍従が現れた。

 まだ若い男で、現れた瞬間から膝が震えていた。手には封筒の束を抱えている。

 それを見た王子は、絶望したような顔をした。


「お前……」


 侍従は泣きそうになりながら頭を下げた。


「陛下、お許しください。私は、殿下に頼まれて印章を押しただけでございます。モーント子爵から、緋晶石の業者を替えれば余剰金でミレーヌ様の支払いを整理できると聞き、殿下も、それなら一時的にと」


「黙れ!」


「一時的では済みませんでした!」


 侍従の声が裏返る。


「今夜の祝宴で婚約破棄が成立すれば、公爵家からの支援金を別名目で動かせると、モーント子爵が」


「黙れと言っている!」


 影狼が再び吠えた。


 セドリックが押し返される。

 彼の腕に爪がかすり、袖が裂けた。赤い血が白い布の内側に広がる。


 レイベルナは一歩踏み出しかけた。

 セドリックが見ずに言う。


「来ないでください」


「……ですが」


「あなたが倒れると、誰が責任者を呼ぶのですか」


「それは、責任が重すぎますね」


「ならば、そこに」


 こんな時にまで真面目な返答をする。

 レイベルナは震えかけた指を握り直した。


 影狼の首元には、黒い金属の輪があった。


 契約輪。


 野生の魔物ではない。

 誰かが金で雇い、結界の穴から王城へ入れた魔獣だ。

 管理官が青ざめる。


「契約魔獣です。結界が落ちたところへ偶然入り込んだのではありません。誰かが王城へ招き入れています」


 国王の目が細くなった。


「モーント子爵家の商会。王太子執務室の印章。契約魔獣……」


 財務卿が猫を抱き直した。


「点と点が、嫌な形につながってまいりましたな」


 猫が「みゃ」と鳴いた。


 王子は首を振る。


「私は知らない。本当に、魔獣など、知らない」


 レイベルナは王子を見た。


「殿下」


「何だ」


「先ほどから、知らないことが多すぎます」


 老学者が小さく頷いた。


「知ろうとしなかったことも、責任の一部です」


「せ、先生まで!」


 王妃の声が静かに落ちた。


「エドガル。今は黙っていなさい」


 王子は口を閉じた。

 だが、影狼は待ってくれない。

 赤い目がぎらりと光り、黒い爪が床に深く食い込んだ。セドリックが剣を構え直し、近衛騎士たちが左右へ散る。


「契約魔獣と契約した責任者をお呼びします」


 結界管理官が顔を上げた。


「レイベルナ様、危険です! 契約魔獣の場合、呼ばれる相手が犯罪者である可能性が」


「存じております」


 レイベルナは鈴を持ち上げた。

 胸の奥に細い疲労がたまっている。


 何度も鳴らしたせいだ。

 呼ぶ責任が重いほど、鈴を持つ手も重くなる。


 だが、ここで止めれば、責任は曖昧なまま散る。


 王子は知らなかったと言う。

 ミレーヌは泣いて済ませる。

 侍従は命令されただけと言う。

 モーント子爵はどこかでこの騒ぎから逃げる。


 そして王城の結界に穴を開けた者が、また別の穴を開ける。

 レイベルナは鈴を鳴らした。


 ――チリン。


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