第10話 髭剃り中の主任
――チリン。
澄んだ音が監査室に落ちた直後、机の横にやや年配の男が現れた。
片手には小さな剃刀。
もう片方の手には白い泡のついたタオル。
左頬だけがきれいに剃られ、右頬にはまだ泡が残っている。
「……は?」
男は数秒、動かなかった。
ゆっくりと周囲を見渡す。
こちらを見る財務卿。
扉の前に立つ近衛騎士。
丸いパンを握り締めた若者。
みゃ、と鳴く猫。
そして、銀の鈴を持つレイベルナ。
男の顔から血の気が引いた。
「こ、ここは、どこですかな?」
「王宮監査室です。最悪のタイミングで呼ばれましたなぁ。お顔が半分だけとは」
財務卿が静かに言う。
男は慌ててタオルで片頬の泡を拭った。
片側の髭だけが綺麗に残っているが、今はそれどころではなかった。
「初めまして。本日より王宮監査室の臨時顧問として参りました、レイベルナ・ファリスと申しますわ」
「ぶ、文書院主任、バルナード・ケイルでございます。あの、これは、髭を整えていただけでして」
「そのようですわね」
「では、な、なぜ私は髭剃り中にここへ呼ばれたのでしょうか?」
セドリックが一歩前に出た。
「まずは剃刀を机に置いてください」
「いえ、これはただの道具ですぞ」
「いえ、剣です」
「近衛騎士の分類は厳しいですからなぁ」
「護衛ですので」
バルナードは顔を引きつらせながら、齧りかけのパンの横に自分の剃刀とタオルを置いた。
トマスは持っていた丸いパンを両手で握り締めていたことに気付き、慌てたように少し下がる。
「お前、トマスか! なぜここにいる!?」
「ぼ、僕も呼ばれました」
「いったい何をしたんだ?」
「僕は朝食を食べようとしていただけです!」
「それは罪ではありませんな。私も同じく途中ですゆえ」
財務卿は机の上に置かれたかじりかけのパンとその横の剃刀も眺めた。
「財務卿、今はそこではありません」
「承知しております」
レイベルナは記録帳を開いた。
「主任。こちらの返却確認欄をご覧ください」
バルナードの目が帳面へ落ちる。
最後の行。
トマスの署名。
そして、その周りの空白。
バルナードはすぐに顔を上げた。
「これは、見習いの見間違いでは?」
「まだ何も聞いておりませんが」
財務卿が言うと、バルナードは一瞬だけ口を閉じた。
トマスが小さく震える。
「僕は、この目で確認しました! そのときに上役の確認印もいただきました」
「勘違いだ!」
「ずいぶん早い否定ですわね」
レイベルナは空白部分を指先で示した。
「ここに、修正薬の跡があります」
修正薬。
王宮の帳面で、誤記のインクだけを浮かせて消すための薬である。
ただし、正式な帳面に使う場合は、消した箇所の横に修正者名と理由を残す決まりだった。
今回、その修正者の名がない。
「修正薬を使ってまでして、返却済みの文字と確認印だけを消した。違いますか?」
「わ、私は存じません」
財務卿が帳面を覗き込む。
「この消え方は、文書院の修正薬ですな。市販のものなら紙がもっと白く荒れます」
「財務卿、分かるのですか」
「国庫の帳面の修正では、何度も胃を痛めておりますゆえ」
「急に説得力が出てきましたわ」
「たまには私も役に立ってみせますぞ」
レイベルナはバルナードへ視線を戻した。
「バルナード様。文書院の修正薬は、誰でも自由に使えるものですか?」
「いえ。文具庫の管理棚から出すには、主任か副主任、または薬棚係の記録と確認が必要です」
「では、記録を見れば分かりますね」
バルナードの喉が小さく動いた。
「その必要はございません。あとで私が確認して――」
「あとでは遅いですわ」
レイベルナは右手を開いた。
銀の鈴が現れる。
バルナードが一歩下がろうとした瞬間、セドリックが前に出た。
「焦って逃げようとした場合は、床に押さえ込みます」
「まだ逃げておりません!」
「では、そのままで」
「セドリック卿、さすがです」
「護衛ですので」
財務卿が猫を抱え直した。
「次はどなたを?」
「この帳面に使われた修正薬に関わった者です」
バルナードの顔が明らかに変わった。
「お、お待ちください。それは文書院の内部確認で――」
「内部で済ませた結果が、この空白ですわ」
レイベルナは鈴を持ち上げた。
バルナードが一歩下がる。
「お待ちください、それは――」
――チリン。




