第57話 王宮の奥まで届く鈴
「そこで一つ頼みがある」
国王陛下の言葉に、監査室から笑いの気配が消えた。
フィオナは涙を拭く手を止め、マルセラ夫人は青い顔のまま俯いている。ワーノルドは膝をついたまま動けなかった。
レイベルナは背筋を伸ばした。
「それは私にできることでしょうか」
「そなた一人に背負わせる話ではない。これは王国の仕事だ」
国王陛下は静かに言った。
「例の紙の件はまだ終わっておらぬ」
監査室の空気が少し沈んだ。
例の紙。
差出人も命じた者も見えにくくしてきた、あの黒い紙から始まった一連の事件のことだとすぐに分かった。
「文書院と宮廷魔術師には引き続き調べさせる。詳しい話はここではせぬ」
国王陛下はそう言って、フィオナへ一度だけ視線を向けた。
「だが今回の件でよく分かった。人は同じように動かされることがな」
国王陛下の声が重くなった。
「王宮が認めたと言われれば人は信じる。位の高い家の名が添えられれば安心する。礼儀や支援という言葉があれば断りにくくなる」
ヴィオラ夫人が扇を下ろさないまま目を伏せた。
フィオナは涙の残る目で国王陛下を見ている。
「支援は本来、人を助けるためのものだ。だが使い方を誤れば払わなくてよい金を払わせ、断れるはずの話を断れなくする」
国王陛下はそこで一度言葉を切った。
「私が裁可したのは、初めて夜会へ出る令嬢を助ける仕組みだった。それが王宮典礼局の覚え書きとなり、若葉会へ渡り、最後には近衛副隊長との一曲を期待させる言葉へと変わった」
セドリックの眉がわずかに動いた。
木製人形は壁際で黙っている。
「王国は調べる。裁くべき者がいれば裁く。直すべき仕組みがあれば直す」
国王陛下はレイベルナを見た。
「そのうえで、そなたには見てほしい。本当に呼ぶべき者は誰か。ただ疑われているだけの者は誰か。その違いをだ」
「身に余るお言葉にございます。私に見える責任であれば、慎んで見極めさせていただきます」
国王陛下は小さく頷いた。
「助かる。ならば、そなたが動きやすいようにしておく」
レイベルナは黙って聞いていた。
「王宮の中で話が止まるなら、財務卿を通して私へ上げよ。必要なら近衛にも話を通す」
監査室の空気がわずかに揺れた。
「そなた一人で追う必要はない。だが、本当に呼ぶべき責任が見えたときは迷わず示せ」
監査室が静まり返った。
それはただの依頼ではなかった。
王宮の内側にも目を向けてよいという、国王陛下自身の許可だった。
「外であれ、王宮の中であれ、逃げた責任があるなら呼び戻すのだ」
「陛下、私の鈴は疑わしいだけでは呼べません」
「だからこそだ。そなたの鈴だけを借りたいのではない。鳴らさぬ判断も含めて、そなたの力を借りたいのだ」
国王陛下は椅子の背に片手を置いた。
腰のせいか少しだけ動きが慎重だった。
財務卿が小さく息を吐いた。
「重いお話でございますな」
「重い。だからこそ、レイベルナ嬢一人に背負わせてはならぬ」
国王陛下は一度監査室を見渡してから、レイベルナへ視線を戻した。
「レイベルナ嬢よ。そなたの鈴は危うい力だ。便利に使おうとする者も出るだろう。恐れて遠ざけようとする者も出るだろう」
「はい」
「だが今日私はここに呼ばれた。王宮の中で起きたことまでそなた一人に探させるわけにはいかぬ」
国王陛下はまっすぐに言った。
「文書院や宮廷魔術師、財務卿、近衛を通し、調べられる範囲を広げる」
フィオナは息を呑んだ。
ワーノルドはさらに深く頭を下げる。
マルセラ夫人は震えたまま何も言えない。
誰もすぐには答えなかった。
それでもその沈黙は逃げではなかった。
国王の言葉を受け止めるための沈黙だった。
レイベルナは深く一礼した。
「承知いたしました」
国王陛下はそこで少しだけ目を細めた。
「うむ」
白猫がにゃあと鳴いた。
灰猫がみゃあと鳴いた。
財務卿が咳払いをした。
「……猫殿方も」
「財務卿」
「はい」
「今はよい」
「承知しました」
重かった監査室の空気がほんの少しだけ緩んだ。
そのときだった。
国王陛下の視線が椅子の横へ動いた。
そこにはまだ副隊長と書かれた木製人形が立てかけられている。
セドリックの表情がわずかに固まった。
「ところで、そのセドリックはまだここに置いておくのか」
「……陛下」
本物の近衛副隊長の声がいつもより少しだけ低かった。




