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第56話 腰は王命を聞かぬ

 

「今は駄目だ。私の腰は――」


 澄んだ音の余韻に低い声が重なった。

 次の瞬間、監査室の中央に国王陛下が現れた。


 中腰だった。


 椅子から立ち上がりかけた姿勢のまま固まっている。

 片手は腰。

 もう片方の手は助けを求めるように伸びていた。

 王の声。

 王の眼差し。

 けれど、その姿勢だけはどう見ても腰をやった一人のおじ様だった。


「――国政より繊細だ」


 監査室が静まり返った。

 財務卿は目を閉じた。

 セドリックは跪くべきか支えるべきか一瞬だけ迷った。その一瞬の迷いだけでも、近衛副隊長としては十分に珍しい姿だった。


 白猫がにゃあと鳴いた。

 財務卿の灰猫がみゃあと鳴いた。

 国王陛下はその声でようやく周囲を見た。


 レイベルナ。

 財務卿。

 ヴィオラ侯爵夫人。

 フィオナ。

 マルセラ夫人。

 典礼官ワーノルド。

 セドリック。

 そして椅子の横に立てかけられた、副隊長と書かれた木製人形。


 国王陛下の目がそこで止まった。


「……セドリックよ。増えたのか」


「いえ、増えておりません」


 セドリックは即答した。

 財務卿が静かに補足する。


「陛下。あちらは木製の近衛副隊長殿でございます」


「なぜ木製になっている」


「その問いは私どもも少し前に通ったところでございます」


 国王陛下は中腰姿勢のまま木製人形を見た。


「背格好はかなり似ているな」


「陛下。今は比較の場ではございません」


「分かっているが似ているのは事実だ」


 セドリックは黙った。

 もちろん木製人形の横には並ばなかった。

 それを見て、財務卿が咳払いをした。


「陛下。まずはお座りください」


「座りたいのは山々だが、座るには一度動かねばならぬだろう」


 監査室の誰もすぐには答えられなかった。

 セドリックが一歩近づく。


「失礼いたします」


「待て、セドリック」


「はい」


「王は自力で座る」


「承知しました」


 セドリックは手を差し出したまま止まった。

 国王陛下は少しだけ動こうとした。

 が、やめた。


「……セドリックよ」


「はい」


「そこにいろ」


「承知しました」


 白猫と灰猫が揃えて短く鳴く。

 財務卿は天井を見上げた。


「恐れながら本日の光景はいろいろと忘れがたいものですな」


「財務卿。その記憶は消せ」


「努力いたします」


「努力では足りぬ」


「では王命として忘れます」


 国王陛下はようやくゆっくりと椅子へ腰を下ろした。

 セドリックの手には最後まで触れなかった。

 国王陛下は息を整え、レイベルナへ視線を向ける。


「⋯⋯さて。私を呼んだ理由を聞こう」


 声が変わった。

 先ほどまでの腰の人ではない。

 王の声だった。

 レイベルナはまず深く一礼し、ここまでの流れを簡潔に説明した。


「そのうえで、ここで問題になっておりますのは、若年令嬢初参加支援制度に王宮の名を与えた責任でございます」


 国王陛下の目が細くなる。


「制度の名が出たのか」


「はい」


 財務卿がワーノルドの持っていた控えを示した。


「こちらに、国王陛下の裁可を受けた制度の範囲に含めると記されております」


 国王陛下は控えを受け取らなかった。

 代わりにワーノルドを見た。


「説明せよ」


 ワーノルドは顔色をなくして膝を折った。


「陛下。若年令嬢初参加支援制度は、王宮定例夜会に初めて参加する令嬢方が礼法や会場の流れで不安を抱えぬよう設けられたものです。若葉会はその補助として典礼局から助言を受けることを認められておりました」


「そこまではよい」


 国王陛下の声は静かだった。


「私が裁可したのは若い令嬢たちが安心して夜会に出られるための支援だ」


 国王陛下はマルセラ夫人へ視線を向けた。


「近衛副隊長との一曲を売るための札ではない」


 その一言で監査室の空気が締まった。

 セドリックは黙って一礼した。

 フィオナは唇を噛んでいる。

 マルセラ夫人は何も言えなかった。

 ヴィオラ夫人が扇を口元に当てて静かに言う。


「陛下。若葉会は私の名を名誉後見として使っておりました。私にも名を貸した責任がございます」


「知っておる」


 国王陛下は短く答えた。


「だからこそ、知らなかっただけでは済まぬ。だが、知らされた今どう動くかで名誉は戻せる」


 そこでヴィオラ夫人は深く頭を下げた。


「……若葉会は私の監督下で立て直します。令嬢方から受け取った金貨はすべて返させます。そのうえで、謝罪と相応の償いもさせます」


「それでよい」


 国王陛下は次にマルセラ夫人を見た。


「マルセラ・ロアン子爵夫人」


「は、はい……」


「若い令嬢の夢に道筋をつけたと?」


 マルセラ夫人は答えられなかった。


「そなたがつけたのは道筋ではない。ただ値札をつけただけだ」


 白猫がにゃあと鳴いた。

 国王陛下は一度だけ白猫を見た。


「猫もそう言っておる」


 財務卿の灰猫がみゃっと鳴いた。


「もう一匹も同様だ」


 財務卿は満足そうに無言で頷いた。

 国王陛下は続ける。


「マルセラ夫人。そなたは若葉会の実務から外れろ。受け取った金貨はそなたが責任を持って回収し、返還せよ。さらに今後、王宮の催事に関わる手続きから一切引くことを約束せよ」


 マルセラ夫人の顔が青ざめた。


「陛下、私は……」


「言い訳は典礼官の紙束に十分あるようだ」


 ワーノルドの肩が跳ねた。

 国王陛下はワーノルドを見る。


「王宮典礼局」


「は、はい」


「そなたは制度と王宮の名を軽く扱った。近衛の配置や会場管理の情報を外部の会へ出し、その使われ方を確かめなかった」


「申し開きもございません」


「典礼局長へは財務卿から伝える」


 財務卿が一礼した。


「承りました」


「若葉会への典礼局の助言は一時停止。再開するなら誰が何をどこまで伝えるか文書で定め直す。近衛の名は外部の社交案内に使わせぬ」


 セドリックが深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言うな。そなたの名は王宮を守るためのものだ。令嬢の不安に値段をつける飾りではない」


 その言葉にフィオナが小さく顔を上げた。

 国王陛下は彼女を見る。


「そして、フィオナだったか」


「は、はい」


「そなたも軽率ではあった。金貨を払えば特別な道が用意されると思ったなら、それは褒められぬ」


 フィオナの肩が震えた。


「はい……」


「だが、初めての夜会を恐れる心まで責めるつもりはない」


 フィオナが息を止める。


「夜会は人を試す場ではない。人と出会う場だ。支援制度はそのために作ったものだ。そなたが夜会へ出る勇気まで、誰かに売り渡す必要はない」


 フィオナの目から涙が落ちた。


「……ありがとうございます」


 ヴィオラ夫人が白猫を抱いたまま、ゆっくり頷いた。


「フィオナ嬢。若葉会は立て直します。あなたがもう一度学ぶ場は私が用意いたします。ただし金貨十枚ではなく、礼と作法を持っていらっしゃい」


「……はい。承知しました……」


 白猫がにゃあと鳴いた。

 財務卿の灰猫がみゃあと返した。

 国王陛下は木製の副隊長へ視線を向けた。


「それは没収か?」


 セドリックの表情がわずかに固まった。

 財務卿がすぐに答える。


「証拠品として保管が妥当かと」


「そうか。ただしセドリックの近くには置くな」


「強く同意します」


 セドリックの返答は早かった。

 白猫がにゃあと鳴いた。

 灰猫もみゃあと鳴いた。

 国王陛下は二匹を見た。


「猫まで同意してくれるとはな」


 その視線は猫でも、木製人形でも、セドリックでも、腰でもなかった。

 レイベルナへ向いていた。


「レイベルナ嬢。よく呼んだ。タイミングはいささかよくなかったが、今回は必要なものだった」


 レイベルナは静かに目を伏せた。


「突然の無礼をお許しいただけるなら幸いです」


 財務卿が咳払いをした。

 国王陛下は構わず続ける。


「やはりそなたの鈴は王宮の外にある責任だけでなく、王宮の内側にある責任にも確かに届くのだな」


 国王陛下は改めてレイベルナを見た。


「そこで一つ頼みがある」

 

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― 新着の感想 ―
……腰が逝く手前でしたか。家のおじいちゃんも良く叫んでいたな~。 で、その後の優秀な迅速処理!お猫様達の合いの鳴き声も冴えわたってますね♪ お人形の行き先が気になります。何処に保管されるのでしょうか…
えっ?なんで国王陛下は、支援制度の説明を受けただけで、副隊長との踊りの一曲が売られているって理解してるの?説明飛んでない?
仕事がまた増えたレイベルナは可哀想。 呼び鈴の性能が破格なせいだが。  
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