第55話 踊れるとは申しておりません
「ですから、踊れるとは申しておりません。私は一言も、近衛副隊長殿と踊れるなどとは――」
澄んだ音の余韻に男の声が重なった。
監査室の中央に王宮典礼局の上着を着た細身の男が現れた。
片手には羽根ペン。
もう片方の手には数枚の紙束。
紙束の一番上にはやけに大きな字でこう書かれていた。
――若葉会への助言に関する説明案。
「準備のよい説明書類ですな」
財務卿が目を細める。
男はゆっくり顔を上げた。
灰猫を抱いた財務卿。
白猫を抱いたヴィオラ侯爵夫人。
フィオナ。
マルセラ夫人。
近衛副隊長セドリック。
そしてレイベルナ。
壁際には副隊長と書かれた木製人形が立てかけられていた。
男の視線がそこで止まった。
「……近衛副隊長殿が、お二人!?」
「あちらは私ではありません」
セドリックは静かに言った。
男は羽根ペンを落としかけ、慌てて握り直した。
「失礼いたしました。王宮典礼局で典礼官をしておりますワーノルドと申します」
「ちょうどよいところへお越しですな」
「ちょうどという言葉が、これほど不穏に聞こえる場面も珍しいですが」
ワーノルドは書類を胸元へ寄せた。
レイベルナはその書類へ目を向ける。
「ワーノルド殿。あなたは若葉会へ王宮典礼局の覚え書きを渡しましたね」
「はい。渡しました。ですが、あれは若葉会が令嬢方へ礼法の助言をしてよいと認めるだけの書類です」
ワーノルドは早口になった。
「若葉会は初めて王宮定例夜会に出る令嬢方へ、夜会で困らないための助言をします。王宮典礼局はその中身を確認し、必要なことを教える。そういう覚え書きでございます」
「必要なこととは何ですか」
「会場での動き方、入退場の作法、挨拶の順、控えの場の使い方などです。古い礼法書の話ではなく、現在の王宮定例夜会で失礼に当たらない形を教えるものです」
「では、その覚え書きには近衛副隊長との一曲について書かれておりましたか」
「⋯⋯いいえ」
ワーノルドはすぐに答えた。
そこだけは早かった。
「書いておりません。踊れるとは申しておりません」
「では、なぜ私の名が出た」
セドリックが一歩進んだ。
「セ、セドリック卿は当日の会場警備を担当される近衛のお一人です。初参加の令嬢が迷った場合、近衛に申し出てもよいと説明する中でお名前を挙げました」
「私は会場警備の者です。踊る相手ではありません」
「はい。ですから、私は踊れるとは――」
「踊れるとは言っていない。それは分かりました」
レイベルナが言葉を引き取った。
「ですが若葉会には、王宮典礼局が認めた支援だと伝わりました。そこに王宮定例夜会の名とセドリック卿の名が添えられたのですわ」
ワーノルドは答えなかった。
フィオナが小さく言った。
「王宮の方が認めている会だと聞きました。近衛副隊長様のお名前も出ました。だから、ただの私的な話ではないと思っておりました」
「若葉会が初参加令嬢を支援する集まりとして、典礼局から今の夜会作法について助言を受けることは事実です」
「事実を並べれば、相手がどう受け取ってもよいのですか」
ヴィオラ夫人の声は穏やかだった。
穏やかなぶん逃げ場がない。
「若い令嬢にとって王宮典礼局という名は重いのです。そこへ近衛副隊長の名まで添えれば、ただの社交案内ではないと思うのは当然ですわ」
白猫がにゃあと鳴いた。
財務卿の猫がみゃっと鳴く。
「猫殿。両名とも厳しいご意見のようですな」
財務卿は静かに言った。
ワーノルドは紙束を握りしめる。
「ですが私は、若葉会が金貨を受け取っているとは知りませんでした」
「知ろうとはしましたか」
財務卿の一言でワーノルドは黙った。
沈黙が答えになった。
マルセラ夫人が慌てて言う。
「典礼官殿は若葉会の趣旨を認めてくださっただけですわ。わたくしはそれをもとに令嬢方へ安心を――」
「安心ではなく期待でした」
レイベルナは言った。
「近衛副隊長と踊れるかもしれないという期待です」
マルセラ夫人は口を閉じた。
横で木製の副隊長がまた傾きかける。
セドリックが無言で肩を押さえた。
ワーノルドの視線が木製人形と本物のセドリックを行き来する。
「その人形は……」
「今はそこではございません」
財務卿が止めた。
「私も気になっておりますが、今はそこではございません」
「財務卿」
セドリックが静かに言った。
「失礼いたしました。記録には残さぬ方向で進めましょうぞ」
「絶対に残さなくて結構です」
レイベルナはワーノルドへ向き直った。
「王宮典礼局の覚え書きは誰の判断で若葉会へ渡されたのですか」
「典礼局としての判断です。私個人の思いつきではありません」
「その証拠はあるのですか?」
ワーノルドは手元の紙束を見た。
二枚目の紙が少しだけずれていた。そこには覚え書きの控えがあった。
本人が手に持っていたものだ。
財務卿が紙面を確認する。
「読み上げますぞ」
監査室が静かになった。
「王宮定例夜会に初めて参加する若年令嬢への礼法支援について、若葉会への助言を認める」
そこまではまだよかった。
財務卿の声が少し沈む。
「当該支援は国王陛下の裁可を受けた若年令嬢初参加支援の制度の範囲に含めるものとする」
空気が冷えた。
マルセラ夫人が小さく息をのむ。
「ですから、正式な支援だと申し上げたのです」
「正式な支援であることと近衛副隊長の名を商品にすることは別です」
セドリックは即座に言った。
ワーノルドも慌てて頷く。
「その通りです。典礼局も近衛副隊長殿との一曲を認めたわけではございません」
「ですが」
レイベルナは言った。
「王宮典礼局の名は外へ出ました。近衛副隊長の名も出ました。若葉会はそれを使い、フィオナ嬢たちへ金貨十枚を払わせています」
ワーノルドの顔色が悪くなる。
「私は⋯⋯そこまでされるとは……」
「そこまでされるかどうかを確かめずに、王宮の名を渡したのですね」
ワーノルドは何も言えなかった。
財務卿の表情が硬くなる。
「これは困りましたなぁ⋯⋯」
白猫がにゃあと鳴いた。
財務卿の猫がみゃあと返す。
レイベルナは自身の銀の鈴を見る。
もう鳴らすしかなかった。
室内にチリンと澄んだ音が響いた。




