第58話 金貨十枚の夜会
「証拠品として保管いたします。ただしセドリック卿からは近くに置かないよう強い要望が出ております」
セドリックは無表情だったが、声だけははっきりしていた。
「保管場所からは外に出さないようお願いします」
副隊長と書かれた木製人形はただ壁にもたれかかっていた。
そこに立っているだけで存在感があった。
「では、王宮典礼局の倉庫はどうだ」
国王陛下の言葉に、ワーノルドの肩が跳ねた。
セドリックの声が少し低くなる。
「陛下」
「冗談だ。財務卿、適切な場所へ」
「承りました。近衛副隊長殿の心の平穏を守れる場所へ保管いたします」
そこで、白猫を抱いたヴィオラ夫人が静かに口を開いた。
「陛下。若葉会の今後については改めてご報告いたします」
「任せる」
ヴィオラ夫人は深く頭を下げると、今度はフィオナへ向き直った。
「フィオナ嬢。あなたは家へ戻ったらまず眠りなさい」
フィオナは涙で赤くなった目を上げた。
「眠る⋯⋯のですか」
「ええ。泣きながら考えたことは大抵良い結果を生みません。よく休んだ後、一度紙に書きなさい。今回、自分が何を望んでいたのか。何を怖がっていたのか。自分の言葉で書くのです」
フィオナは胸元の布を握った。
国王陛下から賜った言葉。支払った金貨十枚。
ありもしない一曲と笑われずに夜会へ出たいという願い。
それらが、彼女の中で少しずつ形を変えていくようだった。
「私は……」
小さな声だった。
それでも監査室にいた者たちは、誰も遮らなかった。
「私はただ笑われずに、夜会へ出たかったのだと思います」
その言葉にマルセラ夫人が顔を歪めた。
ワーノルドは膝をついたまま深く俯く。
ヴィオラ夫人は白猫を床に降ろした。
「そうでしょうね」
ヴィオラ夫人の声は厳しかった。
けれど、冷たくはなかった。
「だからこそ、そこに値札をつけてはいけなかったのです」
フィオナの目からまた涙がこぼれた。
今度の涙は先ほどまでとは少し違っていた。
「あなたに必要なのは買わされた期待ではありません。自分の足で夜会に立つための作法と勇気です」
「私……もう一度、学びたいです」
「そうしなさい。次は誰かに用意された一曲ではなく、あなた自身の力で夜会へ出るのです」
白猫がにゃあと鳴いた。
今度は誰も茶化さなかった。
近衛副隊長との一曲はもう金貨十枚で買える夢ではなくなった。
王宮の名を借りた若葉会もこのままではいられない。けれど、フィオナは夜会そのものを失ったわけではなかった。
間違えたことは消えない。
金貨を払ってしまったことも、ありもしない一曲を信じてしまったこともなかったことにはならない。
それでも、そこで終わりではなかった。
王宮定例夜会は人を試す場ではなく、人と出会う場だと国王陛下は言った。
フィオナはその言葉を抱えるように、深く頭を下げた。
レイベルナは銀の鈴をそっと見下ろした。
逃げた責任を呼び戻す。
押しつけられた責任をほどく。
見えなくなっていたものを、もう一度その場へ戻す。
この鈴はそうして鳴ってきた。
けれど、少しだけ分かったことがある。
鈴が鳴ることで救われる者もいる。
同じように、鈴が鳴らないことで守られる者もいる。
疑わしいだけの誰かを呼べば、それは責任を探すことではなくなる。
だからこそ、鳴らすことと同じくらい、鳴らさないことも重い。
国王陛下は今度こそゆっくりと立ち上がった。
「レイベルナ嬢。次に私を呼ぶ時はできれば腰に優しいときにせよ」
「陛下、恐れながらそれは私の方では選べません」
「そうであったな。では、せめて腰が無事なときにしてくれることを願う」
白猫がにゃあと鳴いた。
灰猫がみゃあと鳴いた。
「猫まで同意してくれたか」
国王陛下はそう言ってから、もう一度レイベルナを見た。
「一人で抱えるな。だが、見えたものから目を逸らすな」
レイベルナは深く一礼した。
「承知いたしました」
そのとき、セドリックが静かに口を開いた。
「近衛もおります」
国王陛下も財務卿もそちらを見る。
セドリックは少しだけ言葉を選ぶようにしてから、レイベルナへ視線を向けた。
「王宮の中で動きづらいときは、私にもお声がけください」
「⋯⋯セドリック卿」
「鈴を怖がる者も出るでしょう。便利に使おうとする者も出るでしょう。ですが、あなたが一人でその役目を受ける必要はありません」
それは近衛副隊長としての言葉だった。
けれど、レイベルナを見る目はただ職務だけのものではなかった。
レイベルナはほんの少しだけ目を伏せる。
「⋯⋯ありがとうございます」
木製の副隊長は証拠品として運ばれていくことになった。
本物の近衛副隊長はその行き先を見届けるように、しばらく無言で立っていた。
そうして監査室での長い一日は終わった。
若葉会は立て直され、金貨十枚は返される。
若葉会への王宮典礼局の助言は止まり、近衛の名を外部の案内に使うことも禁じられる。
王宮の名で売られた一曲はようやく値札を外された。
この件はそれで終わるはずだった。
けれど、終わらなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、王宮の廊下には少し前と同じ呼び名が静かに広がっていた。
「呼び鈴令嬢」
誰かがそう呼んだ。
響きはもう以前と同じではない。
笑い半分に呼ぶ者は減っていた。
代わりに、自分の手元の書類を見直す者がいた。受け取っただけの伝言が誰へ渡るものだったのか確かめる者がいた。上役の印があるから大丈夫だと片づけていた紙をもう一度確認する者がいた。
鈴が怖いのではない。
自分が何を抱えているのか分からないことが怖いのだ。
その噂は王宮の奥にも届いていた。
王族の居住区の一室。
若い王子が報告書から顔を上げた。
「呼び鈴令嬢⋯⋯か」
その一言で、周囲の侍従たちが姿勢を正す。
第三王子殿下。
王位継承の列では兄たちの後ろにいる。
だが、王宮で交わされる言葉の軽さと重さを聞き分ける耳は持っていた。
第三王子は報告書へ視線を戻した。
そこに、レイベルナの名があった。
「兄上の元婚約者か」
部屋の空気が少しだけ変わった。
「婚約破棄の場で鈴を鳴らして父上を呼んだ令嬢。凄まじい力だ」
第三王子は報告書を閉じた。
「兄上は惜しいことをしたのではないか」
「殿下」
「冗談だ」
そう言ってから第三王子は少しだけ笑った。
「いや、半分は冗談ではないな」
侍従たちは黙っている。
第三王子は窓の外へ視線を向けた。
言葉だけでも人は安心し、断れなくなり、誰かの名を信じる。
「父上は王宮の中で起きたことまで彼女一人に探させるわけにはいかぬと言ったそうだな」
「そのように聞いております」
「父上が呼ばれたのは王であったからではない。責任がそこにあったからだ」
侍従は答えられなかった。
「ならば、私も同じだな」
「殿下」
「私が何かを預かり、誰かに押しつけ、知らぬ顔をすれば」
第三王子は報告書を指先で軽く叩いた。
「あの鈴は私でも簡単に呼ぶのだろう」
第三王子は楽しそうに、けれど軽くはない顔で笑った。
「会ってみたい。鈴ではなく、正式にな」
王宮の名で売られた一曲の話は終わった。
けれど、王宮の中にも届く鈴の話はまだ終わらない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第6章はこれで一区切りです。
次章からは「呼び鈴令嬢」という呼び名が、また少し違う意味を持ち始めて王宮の中を渡っていきます。
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こちらの更新ペースが遅くて申し訳ないです。
まだ書きたい内容がたくさんあるので、引き続きまったり楽しんでいただけると嬉しいです。




