第53話 木製の副隊長
「――違いますわ。そこで手を取ってはなりません。副隊長様の頬のすれすれで止めるのです。触れそうで触れないことで、お相手をじらすのですわ」
澄んだ音の余韻に女の声が重なった。
監査室の中央に、マルセラ・ロアン子爵夫人が現れた。
胸の前には舞踏練習用らしい等身大の人型マネキン。
マルセラ夫人はそのマネキンに両腕を添え、ほとんど抱きかかえるようにしていた。
マネキンの頭には紙が巻かれている。
そこに大きく『副隊長』と書かれていた。
肩には近衛服と同じ青い布。腰には剣の模型。
胸元には銀色の飾り紐まで結ばれている。
どう見ても、近衛副隊長役の木製人形だった。
「大切なのは距離ですわ。選ばれたとは言わない。けれど、選ばれるかもしれないと思わせる。その一寸が礼法なのです」
そこでようやく、彼女は周囲に気づいた。
財務卿。
白猫を抱いたヴィオラ侯爵夫人。
レイベルナ。
フィオナ。
そして本物のセドリック。
白猫がにゃあと鳴いた。
財務卿の猫がみゃあと鳴いた。
本物のセドリックは真顔でそのマネキンを見ていた。
マルセラ夫人の腕の中で、副隊長と書かれたマネキンがかくんと傾く。
腰に差した剣の模型が、こつん、と椅子の脚に当たった。
財務卿が胃のあたりを押さえた。
「近衛副隊長殿が木製になっておりますな」
「あれは私ではありません」
セドリックは即座に言った。
声はいつも通り静かだった。
財務卿はマネキンとセドリックを見比べた。
「しかし、背格好や体格、そして佇まいまでよく似ておりますな」
「財務卿」
「いえ、責めているわけではございません。むしろ、どうやってこの木製人形を作ったのかが気になりますぞ」
セドリックの目が少しだけ細くなった。
財務卿は真面目な顔のまま続ける。
「セドリック卿。念のため、少し横に並んでいただけますかな」
監査室の空気が止まった。
セドリックは動かなかった。
「セドリック卿」
「動く理由がありません」
「比較のためでございます」
「比較される理由もありません」
白猫がにゃあ、と鳴いた。
財務卿の猫がみゃっと鳴いた。
「今のは正しい拒否でございますわ」
セドリックは真顔で木製の自分を見ている。
マルセラ夫人は慌ててマネキンから手を離そうとした。
だが、離すと倒れる。
倒れないように支えると、抱いているように見える。
マルセラ夫人はその腕を慌てて下ろそうとした。
今度は剣の模型が引っかかった。
青い布がずれた。
副隊長と書かれた紙が少し斜めになった。
財務卿の猫が、みゃ、と短く鳴いた。
「猫殿。おそらく、驚いておられるだけですな。笑ってはおりませんぞ」
マルセラ夫人は副隊長と書かれたマネキンを抱えたまま、もうどうしようもないと諦めた顔でこちらを振り向いた。
その先にいたのは、名誉後見の姿だった。
「ヴィ、ヴィオラ侯爵夫人……!」
「マルセラ夫人。まずは礼をなさい」
「は、はい!」
「その方ではありません」
マルセラ夫人はようやくマネキンを椅子の横に立てかけ、深く膝を折った。
「た、大変失礼いたしました」
「失礼なのはそれだけではありませんわ」
ヴィオラ夫人の声は穏やかだった。
穏やかなぶん、冷たい。
「若葉会で近衛副隊長との一曲が売られていたそうですわね」
「う、売ってなどおりません!」
マルセラ夫人は真剣な声で叫ぶ。
さきほどまで練習していた大きな声がそのまま出た。
「わたくしは売ったのではございません。若い令嬢の夢に、道筋をつけただけです」
財務卿が小さく息を吐いた。
「整った言い換えでございますが、中身は一緒ですぞ」
フィオナは真っ白な顔で、副隊長と書かれたマネキンを見ていた。少し頬を赤らめている。
レイベルナは静かに問いかけた。
「フィオナ嬢。あなたは、夢に道筋をつけるという説明を受けましたか」
「いいえ……。近衛副隊長様との一曲は、三名だけだと聞きました」
「そ、それは言い方の問題ですわ! 夜会で誰もが望む相手と踊れるわけではありませんし、近衛の方々にも配置や役目がございます。ですから、こちらで順を整えれば――」
「私と踊る順を整えたということか⋯⋯」
セドリックが呟く。
静かな声だった。
それだけで、マルセラ夫人の言葉が止まった。
「私はその一曲を約束しておりません。若葉会に名を貸した覚えもありません」
「ですが、セドリック卿のお名前は……」
マルセラ夫人は言いかけて、口を閉じた。
その閉じ方が遅かった。
財務卿が胃のあたりを押さえたまま言った。
「今、途中でお止めになりましたな」
レイベルナは副隊長と書かれたマネキンを見た。
近衛兵に似せた青い布。
剣の模型や銀色の飾り紐。
ここまで用意して練習していたとすれば、それはただの思いつきではない。
「セドリック卿のお名前はどこにあったのですか?」
「それは……」
「若葉会の内側で作った話ではなかったということですか」
マルセラ夫人の指が扇の骨を握りしめる。
「わたくしは、王宮の名を勝手に使ったわけではございません」
マルセラ夫人は顔を伏せたまま続ける。
「若葉会は王宮定例夜会に不慣れなご令嬢を支える集まりです。その趣旨は王宮典礼局にも認められております」
財務卿の声がひどく静かになった。
「王宮典礼局の名が出ましたなぁ」




