第52話 公爵夫人と白猫さん
チリン、と澄んだ音が響いた。
「――違いますわ。白猫さん、侯爵家の猫なら撫でられる前に礼を返しなさい」
監査室の中央にヴィオラ侯爵夫人が現れた。
ただし、立ってはいなかった。
深い藍色の室内着。
きっちり結われかけた銀まじりの髪。
そして目の前には、ふわふわした高貴な白猫。
ヴィオラ夫人は片膝をつき、その白猫の前足を両手でそろえていた。
高位の貴婦人が猫にお辞儀を教えている最中だった。
「――まず相手を見る。それからにゃあと鳴くのですわ」
言い終えてから、ヴィオラ夫人はゆっくり周囲を見た。
夫人の白猫がにゃあと鳴いた。
財務卿の猫がみゃあと鳴いた。
「いつの間にか猫同士の会合になっておりますな」
財務卿が低く言った。
ヴィオラ夫人は何事もなかったように白猫を抱き上げ、立ち上がった。
室内着の裾を整える所作まで、無駄に整っている。
レイベルナは一瞬だけ返事を忘れていた。
代金を受け取った責任を呼んだはずである。
その受付係か世話役あたりが来ると思っていた。
ところが来たのは、白猫にお辞儀を教えていた高位の貴婦人だった。
「……ヴィオラ・グランディ侯爵夫人」
財務卿が名を呼んだ。
フィオナが息を呑む。
若葉会の受付係ではない。
王都でも礼儀作法に厳しいことで知られる侯爵夫人である。
それも厳しいだけではない。
何を着るか、誰にどう礼をするか、どの家へどの程度の品を包むかまで、礼法として語れる人だった。
ヴィオラ夫人は財務卿を見た。
「ローデンハイム卿」
財務卿の瞼がほんの少しだけ動いた。
名を呼ばれただけで、礼儀の圧がある。
「ヴィオラ・グランディ侯爵夫人。ご無沙汰しております」
「ええ。まさかこのように突然、お招きいただくとは思いませんでしたけれど」
ヴィオラ夫人の視線がレイベルナへ移る。
その目に、初対面の令嬢を見る軽さはなかった。
夫人は白猫を抱いたまま、礼の角度を整えた。
「レイベルナ様。もちろん存じ上げておりますわ」
その声は先ほどより少しだけ改まっていた。
「かつて第一王子殿下の婚約者でいらした方を、ただの噂の令嬢として扱うほど、私は礼法を忘れておりません」
「……恐れ入ります」
レイベルナは静かに頭を下げた。
「突然お呼び立ていたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
レイベルナは背筋を伸ばした。
「それで……私が呼ばれた理由は何ですの」
「若葉会について、少し確認したいことがございます」
「若葉会?」
ヴィオラ夫人の目が鋭くなった。
「私は名誉後見として名を貸しております。若い令嬢が夜会前に落ち着いて礼法を学べるように、という趣旨で」
「その若葉会で近衛副隊長との一曲が売られておりました」
「……何ですって?」
声は静かだった。
それでも監査室の空気が一段冷えた。
それを聞いていたフィオナは小さく震えている。
フィオナが若葉会で「近衛副隊長との一曲」を申し込めると聞いたこと。
受付では「若葉会の者として預かります」と言われたこと。
そのお金が若葉会の特別な申し込み金として扱われていたこと。
そして、その値段が金貨十枚であること。
レイベルナは一から丁寧に説明した。
ヴィオラ夫人は最後まで黙って聞いた後、呟くように言った。
「金貨……十枚ですって?」
白猫を抱く腕が、ほんの少し強くなった。
「そのようなお金の払い方をすること自体、そもそも間違っておりますわ」
「……はい」
フィオナは小さく頷いた。
「本来、そのようなものは、きちんと礼儀と礼節をもって相手の家へ筋を通すものです。家同士の話として整え、必要なら正式に包む。最低でも金貨百枚からですわね」
レイベルナは頷きかけた首を止めた。
不正な一曲を買ってはいけない、という話ではなくなっていた。
侯爵夫人は別の縁談費用の話へ足を踏み入れていた。
「そうですわ!」
ヴィオラ夫人がふと思いついたように顔を上げた。
「レイベルナ様。あなたのことも放っておくわけにはまいりませんわね」
「……私、でございますか?」
「当然です。公爵家の令嬢であり、かつて第一王子殿下の婚約者でいらした方ですもの。次のお立場を整えないまま社交界に立たせるなど許されませんわ」
「⋯⋯お心遣い、ありがたく存じます。ですが――」
「――心遣いではありません。社交界の秩序の問題です」
レイベルナは言葉を失った。
「私があなたにふさわしいお相手を紹介いたします。穏やかな方、誠実な方、王家に近すぎない方。どのような方を望まれますか?」
レイベルナは一瞬考えたが、首を振った。
セドリックは真顔で前を向いている。
姿勢は少しも崩れていない。
財務卿が小さく咳払いをした。
「ヴィオラ侯爵夫人。まずはこちらの近衛副隊長が商品棚に置かれかけた件へ戻ってもよろしいでしょうかな」
「置かれておりません」
「それはそうですわね。ですが、レイベルナ様の件は後で改めて伺います」
呼び出した相手は若葉会の責任者のはずだった。
けれど今、なぜか自分の縁談まで話が及んでいた。
「そもそも、金貨十枚で近衛副隊長の一曲を買おうなど、礼儀がなっておりませんわ」
「侯爵夫人。問題は値段ではございません」
「分かっております。ですが、安すぎます。こちらの白猫さんの朝食なら一週間分ですわ」
白猫が当然のように、にゃあと鳴いた。
財務卿の猫が、みゃみゃっと短く鳴いた。
「猫殿。お気持ちは分かりますが、よその食卓に口を出してはいけません」
いつの間にか、近衛副隊長との一曲が安すぎるという方向で叱られている。
ヴィオラ夫人はフィオナへ視線を戻した。
「あなたが不安だったことは分かります。ただ、不安に値段をつけた者はもっとよろしくありません」
フィオナが小さく顔を上げる。
「⋯⋯ただし、お金を払えば特別な一曲が得られると思ったあなたの軽率さは反省すべきですわ」
「はい……」
「よろしい。今、若葉会の実務を動かしているのは⋯⋯マルセラ・ロアン子爵夫人でしたわね」
その名が出た瞬間、フィオナの肩が小さく震えた。
「は、はい。その方が近衛副隊長様との一曲は、人数が限られていると……三名だけと」
ヴィオラ夫人の手が白猫の背で止まった。
「三名」
その声には礼法以前の怒りがあった。
「それで、誰が王宮の定例夜会の名を使いましたの」
レイベルナは銀の鈴へ視線を落とした。
すでに若葉会の一番上に位置している責任者の一人がこの場に呼ばれている。
けれど、まだ何も終わっていなかった。
金貨十枚で買えると言われたものは、ただの一曲ではなかった。
王宮定例夜会。
近衛副隊長。
王宮で踊れる一曲。
その三つを並べた瞬間、責任の糸は若葉会はもちろんどんどん広がってきている。
レイベルナは銀の鈴を持ち上げた。
チリン、と澄んだ音が部屋に響いた。




