第51話 買われた一曲
王宮の定例夜会はただの華やかな催しではない。
年に二度、王都の貴族の大半が顔を出す大きな社交の場だ。
若い令嬢や令息にとってはお披露目の場でもあり、縁談や後援の関係を周囲に見せる場でもあった。
誰と踊り、誰に声をかけられ、あるいは誰にも申し込まれなかったのか。
その一つひとつが夜会翌日には噂になり、下手をすれば次の夜会まで語られることもある。
そこには恋愛だけでなく、縁談や仕事上のつながり、そして家同士の貸し借りまでも絡んでいた。
つまり、そこで踊る一曲はただの一曲ではない。
面倒なことに。
そして、その面倒な一曲がなぜか売られていた。
「近衛副隊長セドリック卿との一曲について、確認したいという令嬢が来ております」
夜会担当から監査室へ報告が回ってきた時、レイベルナはしばらく言葉が頭に入ってこなかった。
「……近衛副隊長との⋯⋯一曲?」
レイベルナの頭に湧いた疑問が声となる。
財務卿の腕の中で、猫がみゃあと鳴いた。
近衛副隊長との一曲。
それはこちらが把握している夜会のプログラムには入っていない。
もちろん、近衛の警備配置に関する話でもない。
その当人であるセドリックは、監査室の扉のそばで静かに立っていた。
いつものように表情は変わらない。
ただ、ほんの少しだけ間があった。
「⋯⋯セドリック卿」
「はい」
「心当たりはありませんか?」
「ありません」
誰かが近衛副隊長との一曲を王宮へ確認しに来ている。
しかも、本人の知らないところで。
やがて監査室へ通されたのは、淡い水色のドレスで着飾った若い令嬢だった。
歳はレイベルナよりもやや下くらいだろう。
顔色は悪く、両手を胸の前できつく握っている。
「フ、フィオナ・ランセルと申します。突然のことで、お騒がせして申し訳ございません」
「顔を上げてくださいませ。確認したいことをお話しください」
フィオナはおそるおそる顔を上げた。
その視線が、扉のそばに控えていたセドリックで止まる。
「あ、あの……本当に、今日の夜会に、セ、セドリック卿がいらっしゃるのですね」
セドリックは黙って一礼した。
ただそれだけだったが、フィオナの頬にはほんのりと色が戻っていた。
さっきまで泣きそうだった目が、少しだけきらめている。
まるで、騎士物語の中の主人公でも見つけたような顔だ。
レイベルナは視線を落とした。
これは王宮夜会の秩序と責任の問題だった。
「⋯⋯フィオナ嬢。近衛副隊長との一曲とは⋯⋯いったいどういうお話なのですか?」
「若葉会で……今度の夜会では、近衛副隊長様と一曲踊れると聞きまして⋯⋯」
監査室の空気が止まった。
若葉会というのは、王都の若い令嬢たちが夜会前に舞踏や挨拶を練習するための小さな集まりだったはず。
王宮直属の会ではない。
本来は初めて大きな夜会へ出る令嬢たちの不安を支えるための場所である。
「わたくし、今回の王宮夜会で失敗したら、婚期を逃した令嬢だと笑われると……若葉会の方に言われて」
――婚期を逃した令嬢。
その言葉に、レイベルナの眉がほんの少し動いた。
フィオナに悪気はない。
だからこそ、まっすぐ刺さった。
気にしていない。
少なくともそういう顔はできる。
けれど、その言葉が胸のどこにも触れないほど、レイベルナは鈍くなかった。
「若葉会の世話役の方に、踊れる人数は限られているから、早く申し込んだ方がいいと言われまして……」
「申し込む、ですか?」
近衛副隊長との一曲は焼き菓子の予約ではない。
「はい。会費とは別に、かなりの額が必要だと」
「かなりの額とはどのくらいですの?」
「金貨十枚です」
財務卿のまぶたが、ぴくりと動いた。
「……一曲で、金貨十枚」
「猫殿の上等な白身魚なら、百皿分ですな」
猫がみゃあと鳴いた。
「猫殿も抗議しております」
「それは⋯⋯どなたにお支払いしましたの?」
「若葉会の世話役です。受付の机のところで支払いました。『若葉会の者として預かります』と、その方はおっしゃいました」
世話役とやらが、若葉会の者として受け取ったお金である。
これはすでに噂のレベルではない。
そこには説明すべき責任が結ばれているはずだった。
「もう一度、お聞きします。セドリック卿。フィオナ嬢と一曲踊る約束をされましたか?」
「しておりません」
「若葉会へ、そのような話を通しましたか」
「通しておりません」
「夜会の最中に、特定の令嬢と踊るお約束は⋯⋯」
「ありません」
迷いのない返答だった。
フィオナの目に涙が浮かぶ。
「で、では、わたくしは……」
「約束されていない一曲を、買わされたのですわ」
レイベルナは静かに言った。
責める言い方にはしなかった。
フィオナはようやくおかしいと気づいてここまで来た顔だった。
「わたくし、近衛副隊長様にご迷惑をおかけするつもりではありませんでした」
「分かっております」
セドリックが言った。
「あなたにその一曲を約束したのは、私ではありません。ですが、私の名を使って金を受け取った者がいる。それは許せないことだ」
落ち着いた声だった。
相手を責めず、必要なことだけを言っている。
正しい対応だった。
それなのに、フィオナがセドリックを見上げる目が、レイベルナは気になっていた。
もちろん、今気にするべきなのはそこではない。
近衛副隊長の一曲が勝手に売られていたことの方が、ずっと問題である。
――ずっと問題であるはずだった。
「近衛副隊長の一曲に値段がつくとは、夜会もずいぶん商売熱心になったものですな。もちろん、王宮はそのような商売をしておりませんが」
財務卿が深く息を吐く。
猫がみゃあと鳴いた。
「猫殿も同意見のようですぞ」
「それは私も驚いております」
セドリックは表情を変えずに言った。
本人が一番驚いてよい場面なのに、落ち着きすぎている。
近衛副隊長は自分が売り物にされても、いつもの姿勢を崩さなかった。
それはそれで、少し腹立たしいほど立派だった。
レイベルナは銀の鈴を手に取った。
「お呼びするのは、若葉会の名でフィオナ嬢からの代金を預かった責任です」
「無理はなさらないでください」
セドリックが一歩だけ近づく。
レイベルナは一瞬だけ返事が遅れた。
さきほどまでフィオナに向いていた声と同じ、落ち着いた声。
けれど、今は自分に向けられている。
「……大丈夫です」
レイベルナは姿勢を正した。
セドリックの名が勝手に売られている。
夜会の一曲が勝手に値踏みされている。
若い令嬢の不安がお金に換えられている。
「まずは、若葉会の名でその代金を預かった責任をお呼びします」
チリン、と澄んだ音が響いた。




