第50話 幕間 黒い箱
翌朝、保管箱は王宮北棟の封印室へ運ばれた。
そこは毒物、呪具、扱いを誤れば手がかりごと失われる品。そういったものを、正式な立会人のもとで確認するための部屋だった。
窓はなく、石の壁は厚い。中央の台の上にはリゼットの《保管箱》が置かれていた。
封じた瞬間は透明な光が白い手袋と革鞄を包み込んだ。
けれど、今そこにあるのは中の見えない黒い箱だけだった。
立ち会う者は王妃陛下、リディア侍女長、財務卿、文書院の鑑定官、宮廷魔術師、近衛のセドリック卿。
そして、保管者であるリゼットとレイベルナ。
財務卿の腕の中には猫もいた。
「恐れながら、財務卿閣下。猫殿は封印室の正式な立会人には含まれておりません」
リディア侍女長が丁寧に告げる。
「承知しております。ただ、猫殿は私の胃の非公式監査役です」
「その役職は王宮にはございません」
王妃陛下が扇を下ろす。
「リゼット。中を確認できますか」
王妃陛下が声を落とす。
リゼットは箱の前で膝を折った。
「はい、陛下。まずは状態を確認いたします。ただし、異変があれば、ただちに閉じさせていただきます」
「お願いします」
「かしこまりました」
リゼットが立ち上がる。
革鞄の中に何が残っているのか。
報酬の袋か、条件書きか、受け取り場所につながるものか。
それが分かれば、名のない仕事の入口へもう一歩近づけるかもしれない。
リゼットの指が保管箱に触れた。
蓋がほんのわずかにずれる。
隙間は指一本にも満たない。
中身は見えない。
けれど、その奥で何かが動いた気がした。
最後に見えた手袋と革鞄の黒い染みが、箱が開くと同時に、内側で続きを始めようとしているようだった。
「と、閉じてください!」
宮廷魔術師の声が飛ぶ。
その前にはすでにリゼットが動いていた。
黒い滲みがが箱の縁へ届く寸前で止まる。
焼けるような匂いだけが、細く漏れていた。
保管箱の蓋が完全に落ち、再び沈黙した。
誰もすぐには息をしなかった。
中は見えなかった。
革鞄の中身も、手袋の裏も、何が残っているのかも分からない。
分かったのは一つだけ。
黒い染みは保管箱の力で止まっていただけだった。
「……中身以前の問題ですな」
財務卿が、深く息を吐いた。
それに同意したように、宮廷魔術師が頷く。
「開けた瞬間でしたね。今の状態で無理に中身を取り出そうとすれば、手袋も鞄も形を保てなくなる恐れがあります」
「つまり、革鞄の中身を調べる段階ではない、ということですね」
文書院の鑑定官が言った。
「ええ。まず調べるべきは黒い染みです。呪いなのか、スキルなのか、道具に仕込まれたものなのか。そこから確認しなければ⋯⋯」
文書院の鑑定官は、黒い箱を見つめたまま眉を寄せた。
「では、その黒い染みを仕掛けた者を、レイベルナ様の《呼び鈴》で呼ぶことはできないのでしょうか」
当然の疑問だった。
黒い染みを仕掛けた者。
手袋と革鞄にこの侵食を残した者。
手がかりを消そうとした者。
その者に責任がないはずはない。
レイベルナは銀の鈴へ視線を落とした。
「できる可能性はありますわ。ですが、《呼び鈴》は、私の予想した相手を呼ぶ鈴ではありません。呼び文句で犯人を探すものでもありません。責任がどこに強く結ばれているか。そこへ音が届きます」
財務卿が頷いた。
「記録や名義、役割、立場。あるいは、物そのものに残った責任と言っていたやつですな」
レイベルナは黒い箱を見つめて頷いた。
「あの黒い染みが誰かのスキルなのか、道具に仕込まれたものなのか、手袋や鞄そのものに結ばれたものなのか、まだ分かりません」
「つまり、仕掛けた者が呼ばれるとは限らない」
宮廷魔術師が言った。
「はい。手袋を持っていた者かもしれません。革鞄を運んだ者かもしれません。今これを保管している者に責任として届く恐れもあります」
リゼットの表情が、わずかに引き締まった。
今これを保管している者。
つまり、リゼット自身も含まれる。
セドリックが低く言った。
「黒幕が呼ばれる可能性もあるのでしょう。危険では」
「はい。危険です。ですが、何も確かめないままでは、この黒い染みがどの責任に結ばれているのかも分かりません」
レイベルナは銀の鈴に指を添えた。
「今、この黒い染みに最も強く結ばれている責任がどこにあるのかを確かめます」
王妃陛下が静かに頷いた。
「わかりました。ただし、近衛を追加で入れなさい。何が呼ばれるか分からない以上、備えは必要です」
「かしこまりました」
セドリックが扉の外へ短く合図を送る。
すぐに、二人の近衛が封印室へ入った。
一人は王妃陛下のそばに立ち、もう一人は黒い保管箱と出入口の間に位置を取る。
セドリックはレイベルナの斜め前に立った。
剣には手をかけていない。
けれど、何かが現れた瞬間に動ける位置だった。
リゼットは黒い保管箱から一歩も離れない。
宮廷魔術師も銀の針のような道具を構え直した。
王妃陛下がレイベルナを見る。
「始めなさい」
レイベルナは息を吸った。
「この黒い染みによって、手がかりを失わせようとした件について、今この場で最も強く説明責任を負う者をお呼びします」
チリン、と銀の鈴が鳴った。
封印室の空気が、薄く揺れる。
現れたのは黒幕でも、宮廷魔術師が想像した術者でもなかった。
近衛に拘束され、両手を縛られているリュシアだった。
リュシアは封印室の中央に立ち、青ざめた顔で周囲を見回した。
「……また、私ですか」
レイベルナは、唇を引き結んだ。
リュシアが呼ばれた。
けれど、それだけでは分からない。
彼女が黒い染みを仕掛けたから呼ばれたのか。手袋と革鞄を持っていたからなのか。
それとも、黒い染みが動き出す条件そのものが、彼女に結ばれていたのか。
「リュシアさん。あなたが、この黒い染みを仕掛けたのですか」
「違います」
答えは早かった。
「この染みについて、知っていましたか」
「もちろん、知りませんでした」
リュシアの声は震えていた。
「手袋も鞄も、受け取り場所にあったものです。使えと書かれていたから、使っただけです」
「革鞄の中身は見ましたか」
「見ていません」
「なぜです」
「報酬を受け取りに行った時、そこにありました。残りの報酬と、次の仕事の包みが一緒に置かれていて……その革鞄も、そこにありました。でも、中身を見る前に呼ばれました。だから、鞄の中に何が入っているのかは知らないのです」
「⋯⋯手袋を外そうとした時、何か感じましたか」
リュシアの顔色が、さらに悪くなる。
「捕まったと思った瞬間、手袋が熱くなりました。外そうとしたら、黒いものが広がって……鞄まで」
「持ち主の危機反応か、手袋を外そうとした動作に反応した可能性がありますね」
宮廷魔術師が、低く呟いた。
「なるほど。黒い染みを仕込んだ責任はまだ奥にある。ですが、今この場で最も強く結ばれていたのは、持ち込んだ者、あるいは発動条件を満たした者の責任だった可能性があるわけですな」
レイベルナは銀の鈴を握りしめた。
「責任がないのではありません。けれど、黒い染みを仕掛けた者への糸は、まだ見えていませんわね」
「わかりました。リュシアを近衛へ戻しなさい」
王妃陛下が扇を閉じた。
近衛が一礼し、リュシアを再び連れていく。
扉が閉まる。
王妃陛下の声が、封印室に静かに落ちた。
「まず調べるべきはこの黒い染みですね。何に反応し、何で止まり、どうすれば広がらずに保てるのか。それを最優先で調査しなさい」
「かしこまりました」
「文書院は箱を開けずに記録できる方法を魔術院と協力して探しなさい。近衛は保管場所の警護を継続して。リゼットは《保管箱》を管理すること」
「かしこまりました」
リゼットが深く頭を下げた。
「責任を持って保管いたします」
レイベルナの胸の重さは消えない。
黒い紙側の入口には触れた。
だが、その先に進もうとすれば、黒い染みが動く。
手がかりを残さない。残ったものさえ、触れれば壊れる。
それが今回見えたものだった。
「レイベルナ嬢」
セドリックの声が横から落ちた。
「箱は今は開けられなくなりました」
レイベルナは少しだけ息を止めた。
銀の鈴に触れたわけではない。けれど、気持ちだけが前へ出そうになっていたのを見抜かれたのだろう。
「……分かっていますわ」
「ならば、今は調査を待ちましょう」
セドリックは静かに言った。
「追うために待つ必要もあります」
責める声ではなかった。
焦りの前に立って、行き過ぎないよう止める声だった。
レイベルナは、黒い保管箱を見つめる。
「はい。わかりました。待ちますわ」
王妃陛下がリディア侍女長へ視線を向けた。
「この件は引き続き監査室、近衛、文書院、魔術師で進めます。ですが、黒い箱にかかりきりになって、王宮のほかの動きを見落としてはなりません」
リディア侍女長は、一通の白い封筒を差し出した。
黒い紙ではない。
王宮の正式な封蝋が押されている封筒。
「午後より、王宮で開催される定例夜会の準備と確認に入ります」
財務卿の腕の中で、猫がみゃあと鳴いた。
財務卿は封筒を見つめ、ゆっくりと猫を抱え直す。
「どうやら次の胃痛ですな」
黒い保管箱はまだ開かない。
けれど、王宮の別の扉はもう開き始めていた。




