第49話 銀の鈴が鳴る前に
リュシアの身柄は、近衛へ引き渡された。
白い手袋とくすんだ革鞄。
それらは、リゼットの《保管箱》に封じられている。
手がかりは失われずに済んだ。
少なくとも、今は。
黒い染みは手袋を侵し、革鞄の留め具へ食い込んだところで、リゼットのスキルにより状態ごと止められているだけだ。
リゼットは、封じられた《保管箱》から目を離さないまま言った。
「開封は王妃陛下をはじめ、近衛、文書院、魔術師などの立ち会いのもとで行います。侵食の状態によりますが、中身を確かめる際、手がかりごと失う恐れは残ります」
財務卿が猫を抱え直し、深く頷いた。
「私の胃には大変悪い報告ですな」
リュシアは捕まった。
この後、正式な取り調べへ進むだろう。
王宮外門受付所への不正な持ち込み。
確認済みに見せかけた文例の流通。
依頼人の名を知らない仕事であっても、彼女がその書類を選び、持ち込み、棚へ入るようにした責任は大きい。
レイベルナは封じられた《保管箱》を見つめた。
最初は、封蝋印の返却記録の空白からだった。
その後、白百合慈善院の責任者名がない書類へとつながった。
王妃陛下のお茶会では、空欄の指示が人を動かした。
そして今回は、名も署名も印もない仕事がリュシアを動かしていた。
姿は違う。
けれど、根の部分は同じだった。
責任を残さず、人だけを動かす。
「黒い紙そのものを探せば済む話では、もうありませんわね」
レイベルナは静かに言った。
財務卿が猫の背を撫でる手をゆっくり動かす。
「黒い紙は入口の一つにすぎなかったということですな」
「本当に追うべきなのは、紙ではありません。責任を残さず人を動かすこの仕組みです」
監査室が静かになった。
黒い紙は消えたのではない。
形を変えていった。
紙から、空欄へ。空欄から、名のない条件書きへ。
そのせいで、今はまだ呼べる形になっていない。
だが、全く進んでいないわけではなかった。
名のない仕事を置く場所がある。
報酬を用意する者がいる。
その場所を使わせている者がいる。
「受け取る場所や報酬があるなら……そこ……から……」
声が思ったより細くなった。
「レイベルナ嬢!」
セドリックの声が、すぐ近くで落ちた。
それでも、レイベルナは銀の鈴に触れた。
名のない仕事を置いた者。
リュシアに書類を運ばせた者。
手がかりを消そうとした者。
そこへ届く糸が、どこかにあるはずだった。
銀の鈴が、ひどく重くなる。
音は、鳴らなかった。
鳴る前に、視界が傾いていた。
「レイベルナ嬢――!」
倒れるより早く、セドリックの腕が支えた。
銀の鈴が彼女の手の中で冷たく沈む。
「今は……止めてください」
「でも……誰かにつながっているなら……」
「つながっていても、まだ呼べる形になっていませんぞ。今見えているのは受け取る場所と報酬が用意されていたという事実だけですな」
財務卿が低い声で続けた。
「誰がその場所を使わせ、誰の金で報酬を置き、誰が次の指示を残したのか。記録、名義、役割、立場、そのどこに責任が結ばれているのか、まだはっきり見えておりませんぞ」
レイベルナは支えられたまま息を整えた。
悔しかった。
届きかけている。
けれど、まだ足りない。
今鳴らせば、銀の鈴は闇雲に音を放つだけになる。
場所を管理しているだけの者、使い走りとして利用された者などにも届くかもしれない。
それでは責任の糸を散らすだけだ。
レイベルナはリゼットが封じた《保管箱》へ視線を向けた。
「⋯⋯無事、中身を確かめられたら良いのですが」
「侵食は途中で止まっています。⋯⋯ただ、どこまで入られているか。それにまだ今は開けられません」
リゼットの声は揺れなかった。
財務卿が頷く。
「黒い染みは、何でも消せるものではないでしょうな。手袋や鞄に仕込まれていた、あるいはそこを媒介にしていたからこそ、この場で動いたと見るべきでしょう。遠くから記録や証言まで消せるものなら、これまでの痕跡も残っておりますまい」
レイベルナはゆっくり頷いた。
今は呼べない。
だが、呼べないままではない。
一つずつほどけば、どこかで黒い紙側の誰かの手に結ばれるはずだ。
そこを追うしかない。
レイベルナはようやく、銀の鈴から指を離した。
監査室の空気が、静かに変わっていった。
「外門受付所の文例は回収します。白鳩屋と外門前の店には、差し替えの通知を出します。セヴィルさんの講座で配られた写しも、受講者へ差し替えをお願いします」
セヴィルが深く頭を下げた。
「私からも説明いたします。便利な文例だと見て、危うさを見落としておりました」
「見落としたのは、あなただけではありませんわ」
レイベルナは静かに言った。
「何にでも使えそうな言葉ほど、何を引き受けているのかが見えなくなる。今回分かったのは、そこです」
財務卿が重々しく頷く。
「帳簿でも同じですな。何にでも使えそうな費用項目ほど、後で私の胃を痛めますゆえ」
猫がみゃあと鳴いた。
その横で、ミレイユはまだ桃色の便箋を胸に抱えていた。
ミレイユにとっては、問題はまだ場に残っている。
セヴィルは受講者名簿を胸元へ戻し、少しだけ咳払いをした。
「あの、ミレイユさん。先ほどの私的文書ですが――」
「――わ、忘れてください!」
「いえ。忘れる以前に、まだきちんと受け取っておりませんので」
ミレイユは便箋を抱えたまま、固まった。
「え……う、受け取るんですか」
「内容を読まずに判断するのは、失礼かと」
セヴィルは少し困ったように笑う。
今度こそ、ミレイユは声を失った。
桃色の便箋より、顔の方が濃い色になっていた。
重かった監査室の空気に、ようやく小さな隙間ができた。
誰かが息を吐き、猫が短く鳴いた。
けれど、レイベルナの体に残る重さは消えていない。
セドリックの腕が、まだ彼女を支えている。
「……申し訳ありません。もう立てますわ」
そのとき、後ろからラウルが身を乗り出した。
「レイベルナさん、大丈夫っすか。顔、真っ白っすよ」
続いて、文書受理室の見習いトマスもおずおずと近づく。
「あの……お水、持ってきます。あと、椅子も」
レイベルナは二人を見て、少しだけ力の抜けた笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お二人とも」
「いえ、あの、呼ばれてばかりで何もできてませんので」
「俺は干し肉ならあります」
「今、干し肉はいりませんわ」
財務卿の腕の中で、ずっと抱えられていた猫が、なぜか前足をちょいちょいと動かした。
まるで、自分も何か差し出したつもりらしい。
財務卿が真顔で頷く。
「猫殿からは励ましが出ましたな」
「それは……ありがたく受け取りますわ」
レイベルナがそう言うと、猫は短くみゃあと鳴いた。
ほんの少しだけ、監査室の空気が緩む。
けれど、セドリックの手は離れなかった。
「お気遣いに感謝します。ですが、今は私が支えますので」
ラウルは口を閉じ、トマスは水を取りに行こうとして止まった。
レイベルナはなぜか少しだけ頬が熱くなる。
「セドリック卿、そこまでしていただかなくても……」
「私はするべきことをしています。次は限界が来る前に、私を呼んでください」
レイベルナは目を大きく広げる。
「……呼び鈴で、ですか?」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
セドリックは真面目な顔のまま首を横に振った。
「いいえ。あなたの声で、私の名を呼んでください」
それは甘い言葉ではなく、護衛として当然のことを告げる声だった。
それでも、レイベルナはなぜか、少しだけ安心した気持ちになっていた。
「……では、次に本当に危なくなったときは」
「はい」
「お呼びします、わ」
「はい」
セドリックはわずかに目を細めた。
「必ず、伺います」
それだけだった。
それだけなのに、レイベルナの胸の奥に残っていた冷たい重さが、少しだけほどけた。
銀の鈴は鳴らなかった。
けれど、声をかければ応えてくれる人がすぐそばにいた。
セドリックに支えられたまま、レイベルナは小さく息を吐く。
冷えきっていた指先に、誰かの温度がそっと触れている。強張っていた手から、ほんの少しだけ力が抜けていくのがわかった。
鳴らなかった銀の鈴の代わりに、その静かな温度だけが手元に残っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第5章は2章の黒い紙から始まった「責任を空欄にする」という流れの、ひとつの区切りとして書かせていただきました。
書類、空欄、名のない仕事……と少し入り組んだ内容になりましたが、最後まで追いかけてくださって本当にありがとうございます。
次からはまた少し違う形で王宮が動いていく予定です。
この後は幕間的な?エピローグ的な? 1話があり、次章へ繋がります。
構想としては色々とやりたいことがあるため、今後も無理のないペースで、レイベルナたちの物語を続けていけたらと思っています。
引き続き、見守っていただけますと嬉しいです。
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