第48話 黒い染み
最初は、針で突いたほどの黒い点だった。
けれど、次の瞬間、その黒は白い手袋の縫い目を走った。
指先を染め、布の内側からにじみ出ていく。
リュシアの顔色が変わった。
彼女は反射的に手袋を外そうとしたが、黒い染みは指先に絡みつくように広がり、外そうとする動きに合わせてむしろ早く伸びていった。
「レイベルナ嬢!」
セドリックが動いた。
声と同時に、剣の鞘がリュシアの腕とレイベルナの間へ入る。
ただ、リュシアは逃げようとしたのではない。
黒く染まり始めた自分の手元を見て、初めて取り乱していた。
手袋を振りほどこうとする。
革鞄を遠ざけようとする。
その拍子に、革鞄が床へ落ちた。
鈍い音がして、くすんだ革鞄が床を滑る。
リュシアは歯を食いしばり、黒く染まりかけた白い手袋を、ようやく指先から引き剥がした。
白い手袋が床に落ちる。
だが、黒い染みの侵食はそこで止まらなかった。
床に落ちた手袋の縫い目を走り、細い根のように革鞄へ伸びていく。
「鞄に向かって伸びています!」
リゼットの声が鋭く落ちた。
「このままでは……! 手がかりを消そうとしているのかもしれません」
黒い染みが、光の中で一度だけ大きく脈打つ。
その留め具の奥まで届いたのか。
それとも、届く寸前で止まったのか。
誰にも、まだ分からなかった。
リュシアの喉が、ひゅっと鳴った。
人を狙ったものなのか。
それとも、手袋に触れていたものを巻き込み、さらに鞄へ移ろうとしているだけなのか。
今は分からない。
けれど、このまま進めば、手袋も鞄も失われる。
革鞄の中に何が残っているのか、確かめる前に消えてしまう。
黒の紙側の尻尾まで、掴みかけていた。
だからこそ、消そうとしているのだろうか。
「リゼット殿、箱を!」
セドリックが短く命じた。
「はい! 《保管箱》」
リゼットの声と同時に、淡い光が床から立ち上がった。
黒く滲んだ手袋。
くすんだ革鞄の留め具を半ばまで侵した黒い影。
そのすべてを、透明の光が包み込む。
それでも黒い染みはまだ動こうとしていた。
光の内側で細い根のように震え、革鞄の合わせ目をこじ開けるように奥へ入り込んでいく。
「もう少しです!」
リゼットの声は低かった。
「今、状態を固定しています」
監査室の誰も動かなかった。
猫でさえ鳴かなかった。
黒い染みが、光の中で一度だけ大きく脈打つ。
革鞄の留め具は半ば黒く染まり、合わせ目の端にも黒い筋が食い込んでいた。
中まで届いたのか。
それとも、届く寸前で止まったのか。
誰にも、まだ分からなかった。
監査室には焼けるような匂いだけが、細く残っていた。
「……止まりました」
リゼットは息を大きく吐いた。
光は収束した後には、黒い保管箱が目の前にあった。
「染みを消したわけではありません。侵食しかけた状態のまま保管しました」
財務卿の猫を抱く腕に力が入っている。
「今ここで、何なのかを決めつけるのは危険ですな」
財務卿の声は低かった。
「ただ、少なくとも、何でも遠くから消せるようなものではなさそうですな。手袋や鞄を媒介にしていたからこそ、この場で動いた。遠くから記録や証言まで消せるなら、ここまで痕跡は残っておりますまい」
リゼットは封じた光から目を離さずに言う。
「開けた瞬間、侵食が再開する可能性があります。今ここで急げば、中身を確かめる前に手がかりごと失う恐れがあります」
「では、ここで開けるのは愚策ですな」
「立ち会いが揃ってからです。外側から順に確認しなければなりません」
リュシアは呆然と保管箱を見つめていた。
先ほどまでの無表情の顔は、そこにはなかった。
「……最初から、信用されていなかったのですね」
その声はとても小さかった。
リュシアは危ない仕事だと分かって、それでも受けていた。
名を聞かない。
顔を見ない。
命令書も、契約書も、受領書もない。
そういう仕事だと、知っていた。
けれど、自分に持たされた手袋や鞄にまで、こんなものが仕込まれていたとは知らなかったのだろう。
レイベルナは、封じられた革鞄から視線を戻した。
「リュシアさん」
リュシアは何も答えない。
「あなたは本当の黒幕ではないのでしょう。ですが、無関係ではありません」
レイベルナは静かに言った。
「わかっていて危険な書類を選び、それを王宮へ持ち込みました。そして、正式な処理を通さず書類棚へ入るようにした責任は、あなたにあります」
セドリックがリュシアの前に立つ。
「あなたを、王宮外門受付所への不正持ち込み、および王宮文書を装った文例の流通疑いで拘束します。正式な身元は近衛で確認します」
「私は……ただ紙を運んだだけです」
「では、正式な説明の場でそう述べてください」
リュシアは答えなかった。
黒い紙側は、手がかりを消そうとした。
リュシアは捕まった。
そして、名のない仕事の入口が初めて見えた。




