第25話 呼び鈴の力
薄い黒い紙が、机の上に落ちた。
白い花飾り、寄付申込書、王妃基金の紋章が入った木箱、金貨の小箱、煮豆の入った木椀。
財務卿が猫を抱えたまま、目を細める。
「この黒い紙だけ、ずいぶん場違いですな」
「煮豆もなかなかですわ」
レイベルナはすぐに黒い紙へ視線を戻した。
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・会計記録書式
最終確認者欄を空欄で作成
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「……たったこれだけですか?」
エドウィンが小さく頷いた。
「はい。これだけです。でも、書式を作る係なら、何をすればいいか分かってしまいます」
「最終確認者の欄を空けた会計記録の書式を作って、それを回す」
「はい……」
エドウィンは青ざめた顔で、黒い紙を見つめた。
「僕は、通常の書式を作る依頼を受けていました。そこにこの黒い紙が挟まっていて……その、指示だと思ってその通りにしました」
マルヴィナが顔色を変える。
「確かに、会計記録の書式を作らせたのは私ですわ。普段使うものもそうですが、今回の寄付者説明会に必要でしたから。けれど、最終確認者欄を空欄で設けろなどとは命じておりません!」
レイベルナはマルヴィナに向き直る。
「ただ、あなたが作成を指示した書式に、この紙が紛れ込んだ。そして、会長確認済みの書類へ回された。その事実だけは残りますわ」
財務卿が静かに頷いた。
「正式な指示書ではない。署名もない。だからこそ、実にいやらしいですなぁ。誰の命令か分からぬまま、会長確認済みという顔だけして書類が歩いているゆえ」
ニコルが金貨の小箱を抱え直した。
「私は、会長確認済みの書式なら気にせず使います。変だとは思いましたが、確認を通ってきた形にはなっていたので」
「寄付者に見せる用と中で使う用に、二冊に分けたことは?」
「そこは、私の責任です」
ニコルは淡々と答えた。
怯えているというより、もう自分の終わり方を計算している顔だった。
レイベルナは会計記録の空白欄へ指を添える。
「受け取って作成した人の名は残っています。会計を整えた人の名も残っています。けれど、最終確認の名だけがあえて書かれていない……」
レイベルナは黒い紙を見つめる。
財務卿が寄付者たちへ向き直った。
「皆様、ここから先は王宮監査の確認になります。少しだけ、奥の卓で待っていてください。寄付と物資の扱いは、私が責任をもって後ほど説明いたしますゆえ」
寄付者たちは顔を見合わせたが、相手は財務卿とレイベルナだ。誰も逆らわなかった。
王妃基金の紋章が入った木箱と寄付金の入った小箱を不安そうに見ながら、少し離れた席へ移っていく。
広間に残ったのは、関係者だけになった。
ラウルが黒い紙を見下ろして、気付いたように言った。
「じゃあ、この黒い紙を書いた人を呼べばいいんじゃないっすか?」
その言葉に、誰も答えなかった。
セドリックがレイベルナを見る。
「できるのですか?」
レイベルナは銀の鈴を手のひらに出した。
「この鈴は、文字を書いた手を探す道具ではありません。書類や記録に結ばれた責任を、呼び戻すものです」
レイベルナは黒い紙を指す。
「契約書や保証書、受領書、帳簿、会計記録。そこに名前や役目、受け取った跡があれば、責任の道を辿ることができます。けれど、この黒い紙には署名も役職もありません。誰が受け取ったかの記録もありません」
「本当にただのメモ、に見えてしまっておりますな」
「……はい。ただし、ただのメモなのに、人を動かし、書式を変え、会計記録に空白を作っております」
財務卿の声が一層低くなる。
「紙には責任がないのに、結果だけは残っている。厄介ですな」
「はい、そこが問題ですわ」
レイベルナは鈴を持ち上げる。
「だから、呼ぶとすればこの紙を書いた人ではありません。この紙によって、最終確認者欄を空白のまま処理させた――この責任を負う者です」
マルヴィナの喉が、小さく鳴った。
ニコルは金貨の小箱を抱えたまま、じっと鈴を見ている。
エドウィンは机の端の煮豆のことも忘れたように固まっていた。
セドリックが一歩だけ近づく。
「何が起きても、護衛します」
「ありがとうございます」
レイベルナは小さく息を吸った。
「この紙の、最終確認者欄を空白のまま処理させた責任を負う者をお呼びしますわ」
銀の音が、広間へ落ちた。
――チリン。
澄んだ音だった。
誰もが身構えた。
誰かが現れると思った。
あるいは、以前のように、すでにこの場にいる誰かの責任が明らかになるかもしれない。
そう思った者たちは、思わず互いの顔を見た。
しかし、誰の前にも銀の音は集まらなかった。
人は来ない。
紙も来ない。
物も動かない。
広間に静けさだけが残った。
「……来ませんわ」
ラウルが干し肉を握ったまま、ぽつりと言う。
「初めて、干し肉の味がしないっす」
「それはかなり深刻ですわね」
「俺としては相当っす」
ほんの少しだけ空気が揺れた。
だが、すぐにまた重くなる。
財務卿の顔からも、いつもの軽さが消えていた。
「これは……呼べなかったのですな?」
「ええ、そのようです」
レイベルナは銀の鈴を見下ろした。
「責任者がいないのではありません。この黒い紙には、責任が結ばれていないのです」
「では……誰もこの件の責任を取らないということですの?」
マルヴィナの声が震えた。
「違います」
レイベルナは顔を上げる。
「だからこそ、これからそれを探すのです。誰がこの紙を作り、どうやって会長確認済みの書類束へ紛れ込ませたのか。紙に名前がないのなら、紙が通った道を見つけます」
セドリックが静かに頷いた。
「責任の通り道を探す、ということですね」
「はい」
レイベルナは黒い紙を机へ戻した。
「私の呼び鈴は、私の推測を正解にする道具ではありません。書類や記録に結ばれた責任を呼び戻すものです。だから、責任が結ばれていないなら、まず結ばれる場所を見つけなければなりません」
財務卿が深く頷く。
「正しい判断ですな。雑に鳴らせば、また書類係や会計係のような途中の者を呼ぶだけになりかねませんゆえ」
エドウィンとニコルが同時に顔を上げた。
「それは本当に困ります」
「私も困ります」
財務卿が黒い紙へ視線を落とした。
「王妃基金の物資や寄付金は、ただちに白百合慈善院へ届けます。寄付申込書、会計記録、作業表、原稿、そしてこの黒い紙は、すべて王宮で証拠品として保全します。寄付者の皆様には、私から説明しておきましょう」
「財務卿、ありがとうございます。お願いします」
レイベルナは頷いた。
マルヴィナは青ざめた顔で立ち尽くしている。
「私は……本当に、そこまでは……」
マルヴィナは言葉を失っていた。
財務卿が猫を抱え直す。
「知っていたところまでは、あとで丁寧に伺いましょう。知らなかったところも、会長として知らずに済むかどうかは別ですな」
マルヴィナは何も言えなかった。
レイベルナは黒い紙を財務卿へ渡す。
「これは、必ず保全してください」
「承知しました。猫より丁重に扱います」
「それは最高位の保管という意味でよろしいのですか?」
「もちろんですぞ」
猫が、みゃ、と鳴いた。
物資は見つかった。
白百合慈善院へ届く道も取り戻せる。
けれど、銀の鈴を黙らせる方法を知っている者がいる。
レイベルナは銀の鈴を胸の前で握った。
責任が結ばれていないなら、結ばれる場所を探す。
名が残っていないなら、名が残る道をたどる。
銀の鈴を黙らせるつもりなら、その前に責任の通り道を見つける。
そう心に決めたとき、財務卿の手に渡った黒い紙だけが、広間の灯りの下で沈むように見えた。




