第22話 猫の下僕
――チリン。
銀の音が消えた次の瞬間、広間の中央に小柄な男が現れた。
両腕には金貨の入った小箱。
脇には二冊の会計記録。
男は周囲を見もせず、低い声で延々と数えていた。
「……37、……38、⋯⋯39、⋯⋯、……40、⋯⋯41、⋯⋯42」
小箱が傾き、金貨が数枚こぼれた。
それでも男は取り乱さなかった。
むしろ、床へ転がった金貨を一枚ずつ目で追い、落ちた順番まで確かめるように、静かに指を止める。
「……今のは、別に数えるべきでしょうか。混ぜると、最初からになりますね」
声は妙に落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、広間の空気が少しだけ怖くなるほどだった。
ラウルが干し肉をかじりながら、ぼそりと言った。
「俺より危ない人が来たっすね」
「干し肉を食べながら言うセリフではありませんわ」
「食べてないと、もっと余計なことを言いそうっす」
「少し自覚が出てきましたわね」
金貨ごと呼ばれた男を見て、マルヴィナの顔が青ざめた。
「ニコル! その帳簿を見せてはいけません!」
「帳簿は見せるものと実際のものに分けておりますので、見せる方なら問題ありません」
「帳簿を分けていいわけがありませんわ」
レイベルナの静かな声が落ちる。
ニコルの口が止まった。
金貨を数えていた時と同じように、目だけが静かに横へ動いた。
レイベルナは男が抱えていた会計記録へ視線を向ける。
「あなたが、この説明会の寄付申込書と金額表を管理している方ですね?」
「⋯⋯はい。会計係のニコル・ベルトンです。申込書は受付順にまとめ、金額の記録を管理しています」
ニコルは二冊の会計記録を、角をぴたりと揃えて差し出した。
手は震えていない。
震えていないことが、かえって怖かった。
「一冊は寄付者の皆様へ見せるものです。もう一冊は、実際の入金と支出を控えるものです」
広間がざわついた。
「ということは、見せるものと実際のものが違いますの?」
「⋯⋯? それは、どういう意味です?」
「私たちの寄付金は白百合慈善院へ行くのではありませんの?」
マルヴィナはすぐに笑みを戻そうとした。
「今は会計上、見やすく分けているだけですわ。寄付者の皆様に余計な細部を見せても、混乱を招くだけですもの、ほほほ」
「では、混乱しない方に見ていただきましょう」
レイベルナは右手を開いた。
銀の鈴が光る。
マルヴィナの顔から、さらに色が引いた。
「王妃基金の名があり、寄付金と支援物資の会計が交ざっています。これは後援会だけで済ませてよいものではありませんわ」
「ま、まさか――」
「王妃基金に関わる会計記録を管理する、王宮財務方の責任者をお呼びしますわ」
マルヴィナが止めるより早く、銀の音が広間へ落ちた。
――チリン。
次の瞬間、広間の中央に財務卿が現れた。
腕には灰色の猫。
ただし、財務卿はまだこちらに気づいていなかった。
「ミミちゃん、みゃんみゃん、よい子ですなぁ。はいはい、尊い、非常に尊いですなぁ。世界の国庫が少し傾いても、この寝顔だけは守らねば……」
広間が凍った。
財務卿は目を瞑ったまま、猫の額に頬を寄せてさらに続ける。
「みゃんみゃん、財務卿はもう少しだけ猫の下僕でいたいのですぞぉ……スリスリ」
レイベルナはそっと視線を逸らした。
「……財務卿」
セドリックが低い声で呼ぶ。
「みゃ……」
猫みたいな声を出していた財務卿の動きが止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
広間に集まる人々を一度見渡す。
すべてを見てから、財務卿は一度だけ咳払いした。
「……王国財務卿、アルフレッド・エルンスト・マクシミリアン・フォン・ローデンハイムですぞ」
「……財務卿、そんなに長いお名前でしたの?」
「これまで誰も聞いてくれませんでしたので」
「財務卿と呼ぶのがやはり一番合理的ですわね」
「私は存じておりました。格式あるお名前です」
セドリックが真面目に頷いて言った。
「セドリック卿、逆にそこは少し突っ込んでほしいところですな」
「失礼にあたりますので」
「⋯⋯さぁ、どなたでもよいのです。名前の長さについて、もっと驚いてくださってもよろしいのですぞ」
財務卿は現実から目を背けようとしていた。
猫が、みゃあと眠そうに鳴いて起きる。
ハッとした財務卿は、腕の中の猫を撫で直した。
「……先ほど何か聞こえたかもしれないですが⋯⋯」
「財務卿、猫の名前はもう聞こえてしまいましたわ」
「財務的には予算外の漏れというイレギュラーな事態ですな」
小さくあくびをした猫の視線が、ラウルの干し肉へ向いた。
ラウルは反射的に肉の束を隠す。
「これは俺のっす!」
猫が、みゃあと鳴いた。
ラウルは負けた。
一本差し出した。
「干し肉の流出が始まりましたわね」
「国庫ではなく干し肉ですので、私は止めませんぞ」
「財務卿、止める基準がそこなのですか」
「猫には利益があり、国庫に損はありませんゆえ」
財務卿は猫を撫でながら、ニコルが差し出した二冊の会計記録へ視線を落とした。
その目が変わる。
「……これは、よろしくありませんな」
広間の空気が一気に締まった。
「一冊目は寄付者向け。二冊目は実際の金の動き。こちらの実記録では、王妃基金の支援物資を後援会が一時保管したことにして、運搬手数料や管理費などを取る予定になっております」
「管理費?」
寄付者の一人が声を上げた。
「私たちは、白百合慈善院に届くと思って寄付するのですわよ」
財務卿は会計記録をさらに一枚めくる。
「もう一つ、気になる支出がありますな」
「気になる支出?」
レイベルナが聞き返す。
「白布追加費、花飾り費、舞台用小瓶薬代、香油代など。どれも会場設営費にまとめられております」
「会場を飾るなら、そこまで不思議ではないのでは?」
「はい、普通ですな。ただし、慈善事業より飾りつけの足が速いことを除けば」
ラウルが干し肉をかじりながら、感心したようにうなずいた。
「それは嫌な速さっすねえ」
「ずいぶん外側から見ていますが、あなたはどちら側の方ですの?」
「俺は……言われた箱を運んだら、いつの間にか関係者になっていた側っす」
財務卿は記録の端を指で押さえた。
「しかも、この確認欄には副会長の名がありますな。セリーヌ・モラン」
マルヴィナの唇がわずかに動いた。
「……それは、副会長がこの度の会場設営の担当だったからですわ」
「支援物資より先に会場設営費が動くような慈善事業⋯⋯ということですな?」
財務卿は猫の背を撫でながら、表情だけを冷たくした。
レイベルナは確認欄に記された名前を見た。
「では、支援物資より先に動いた会場設営費に責任を持つ方を、お呼びしますわ」
銀の音が広間へ落ちた。
――チリン。




