第23話 片目だけの感情
――チリン。
銀の音が消えた次の瞬間、広間の中央に年配の女性が現れた。
その女性の顔は、半分だけ泣いていた。
左目には白いハンカチを当て、その目元だけが涙で濡れていた。
だが、右目は完全に乾き切っていた。
左目は洪水、右目は砂漠。
「……ここで少し斜めを向いて、はい、感動――」
女性はそこまで言ったところで、ようやく周囲に気づいた。
会場の寄付者たち。
マルヴィナ会長。
王宮の財務卿。
レイベルナたち。
濡れていない方の目が、大きく開く。
「あ……あら? も、もう本番ですの?」
「片目だけが、本番に入っておられますな」
「財務卿。そこは見たまま言わなくてもよろしいですわ」
「左右で感情が合っていなかったゆえ」
ラウルが干し肉をかじりながら、小さく頷いた。
「片方だけ泣いてるって、かなり器用っすね」
マルヴィナが低い声で言う。
「セリーヌ!」
女性はびくりと肩を揺らした。
「マ、マルヴィナ会長。これは、その、寄付者の皆様に温かな気持ちになっていただくための準備でして……」
「温かな気持ちを、片目だけで作っていましたの?」
レイベルナが静かに問う。
セリーヌは慌てて左目のハンカチを下ろした。
だが、その拍子に袖口から小さな透明の瓶が転がり落ちた。
ラウルが干し肉をくわえたまま、床を見下ろす。
「……今度は小瓶っす」
レイベルナは床に転がった小瓶と、セリーヌの左目を見比べた。
小瓶の口には、透明な液が少し残っている。
セリーヌが持つハンカチの端だけが不自然に濡れていた。
「これは何の小瓶ですか?」
「た、ただの目元を整える水ですわ。寄付者の皆様に、清らかな印象を持っていただくための……」
「左目だけに?」
セリーヌは言葉を詰まらせた。
「……少しだけです。少しだけ、感動しているように見えるように……」
広間が静まり返った。
「な、泣きすぎると重くなりますし、泣かなすぎると冷たく見えますでしょう? ですから、左目だけ少し……」
財務卿は会計記録をめくり、セリーヌへ視線を戻した。
「セリーヌ・モラン副会長。こちらに、白布追加費、花飾り費、舞台用の小瓶代の確認欄があります。あなたの名ですな」
「会場設営の確認です。寄付者の皆様をお迎えするには、きちんとした空間が必要ですから、そういったものを準備しております」
「会場を整えることを咎めているわけではありません。問題は、支援物資を届けるより先に、この会場の見せ方の準備が優先されてしまっていたことですな」
セリーヌは濡れていない方の目で、マルヴィナを見た。
「わ、私は会長に言われた通りに準備しただけです。寄付者の皆様に、温かい気持ちで支援していただけるように、と……」
「その準備の中に、届いていない薬箱も含まれていましたの?」
レイベルナが問うと、セリーヌは唇を震わせた。
「私は、会場の確認をしただけで、薬が届いているかどうかまでは……」
「白百合慈善院には、まだ届いていません」
エリナ院長の声は静かだった。
その静けさが、セリーヌの言い訳を止めた。
ラウルが干し肉を小さくかじる。
「やっぱり俺が受け取ったとき、そのまま運べばよかったっすね」
マルヴィナが振り返る。
「ラウル!」
「今のは、たぶん言ってもいいやつっすよね? 見せる前に、届ける方が先っすよ」
「その通りです」
セドリックが真面目に頷いた。
財務卿は会計記録の一枚を指で押さえた。
「さて。会場設営費の使い方は見苦しいですが、まだこれは分かりやすい支出です。問題は、その下ですな」
「その下、ですか?」
レイベルナが聞き返す。
「こちらの記録には、物資をどこへ移し、誰が受け取り、説明会のあとどこへ運ぶ予定だったのかも書かれております。運搬係、荷受け係、会場確認、副会長確認、会長確認。そこまでは名前があります。ですが、最後に全体を確認した者の欄だけが『空白』ですな」
広間のざわめきが、さらに大きくなった。
レイベルナは会計記録を覗き込んだ。
運搬係。
荷受け係。
会場確認。
副会長確認。
会長確認。
そこまでは確かに名前がある。
だが、その下にある最終確認者の欄だけ、何も書いていなかった。
「誰が、この流れを決めたのですか」
セリーヌは顔をこわばらせた。
「そ、それは……」
マルヴィナがすぐに口を挟む。
「後援会で相談して決めたことですわ」
「後援会内の相談だけで動かしたにしては、形が整いすぎていますな」
財務卿は猫の背を撫でながら言った。
「現場の者は動いている。会計も動いている。会場も整っている。……にもかかわらず、最後に責任を負う名だけがない。これは、とても気持ちの悪い『空白』ですぞ」
ラウルが干し肉を食べるのを止めた。
「……俺、そこまでは知らなかったっす」
いつもなら余計なことを言う男が、初めて言えなかった。
それだけでも広間の空気が変わった。
「本当ですか?」
レイベルナが問う。
「はいっす。いつもなら、いらないことまで言ってしまうんすけど、これは本当に知らないやつっす」
レイベルナは会計記録の空白欄へ視線を戻した。
「ニコルさん。この会計記録にある最終確認者欄を作ったのは、あなたですか?」
金貨の小箱を抱え直したニコルは、静かに首を横に振った。
「私は全体の寄付金と入金の整理です。こういう責任者欄の形を作ったのは、保管所の書類係だったかと思います。……名前までは覚えていません」
レイベルナは右手を開いた。
銀の鈴が現れる。
「わかりました。この会計記録にある最終確認者欄を、空白のまま作成した方をお呼びしますわ」
マルヴィナの顔が強ばった。
何か言い返すより早く、銀の音が広間に落ちた。
――チリン。




