第12話 鳴ったはずの鈴
――チリン。
鈴の音が落ちた。
だが、今回は新しく現れる者はいなかった。
その結果に、監査室にいた全員が一瞬だけ固まった。
トマスは丸いパンを握ったまま目を丸くし、ミラは薬瓶を抱え直した。財務卿は口を開けたまま固まり、その腕の中の猫だけが退屈そうに尾を揺らしている。
その中で、バルナードだけが笑みを浮かべた。
「……ほら、ご覧なさい。布に責任者などいるわけがないでしょう!」
そのとき、セドリックの視線が動いた。
バルナードの上着のポケット。
そこから、白い布の端がわずかにのぞいている。
「新しく呼ばれた人はいないようです」
「すでにこの場にいたバルナード主任が、もう一度呼ばれたということですね」
レイベルナが小さく頷いた。
バルナードが目を見開いて間抜けな声をあげた。
「そ、そんな馬鹿なことが!?」
「え、主任! 二度目ですか!?」
「主任殿は人気ですなぁ」
「人気で呼ばれたわけではないと思います……」
最後にミラがぼそりと呟く。
バルナードの顔がみるみる青くなっていく。
「ち、違う! この布はただの私物のハンカチだ!」
「では、机の上に出してください」
セドリックが一歩前へ出る。
バルナードは動かなかった。
「出せない理由が?」
「……っ」
震える手で、バルナードはポケットから白い布を引き抜いた。
机の上に置かれた布は、くしゃくしゃに丸まっている。
端には青い糸が縫い込まれていた。
「――文書院の薬棚係として申し上げます」
ミラが一歩前に出る。
「その布は、修正薬用の拭き取り布です。端に青い糸が縫い込んであります。文書院の薬棚に置いてあるものに間違いありません」
バルナードの顔の半分に残った髭が、ぴくりと動いた。
「似た布なんぞ、いくらでもあるだろう!」
「青い糸まで同じ布は、文書院の薬棚にしかありません」
「た、たまたまだ!」
「たまたま修正薬用の布を持ち出し、たまたま返却せず、たまたまポケットに入れていたのですか?」
レイベルナの声は穏やかだった。
「かなり忙しい偶然ですな」
財務卿の言葉に、トマスがうなずいた。
「偶然って、そんなに働くんですか!?」
「トマス殿、先ほどからグイグイいきますなぁ」
「す、すみません。でも、今日は黙っていたら僕のせいにされそうなので」
トマスは慌てて頭を下げた。まだ丸パンを握っている。汗で表面が少しへこんでいた。
財務卿は腕の中の猫とトマスを見比べて、しみじみとうなずく。
「丸パンを守りながら濡れ衣まで押し返すとは。私の部下なら、今日はこの猫と同じくらい休ませますな」
「財務卿、猫を休暇の基準にしないでください」
「よく寝ますので、参考になります」
腕のなかの猫が満足そうに「みゃ」と鳴いた。
レイベルナは机の上の布へ視線を落とす。
グシャグシャの皺に紛れて、薄い黒ずみが残っている。
修正薬で浮いたインクを拭き取ったような跡だろうか。
さらに、布の折り目の内側に、小さな赤い粒がついていた。
「これは何でしょうか?」
財務卿の目が細くなる。
彼は猫を近くの椅子にそっと下ろし、布の赤い粒をを覗き込んだ。
猫は不満そうに鳴いたが、財務卿は今度ばかりは見ないふりをした。
「これは赤蝋ですな。しかも、王太子執務室で使う蝋と色が近いです」
「そこまで分かるのですか?」
レイベルナが聞くと、財務卿は布から目を離さずに答えた。
「細かい違いには、少し気づきやすいのです。先ほど、修正薬で荒れた紙面に気づいたのも同じ理由ですな」
「財務卿のスキルですか?」
「はい。帳面や書面、用品などにある違和感が、少し目につきやすくなるだけですが」
「かなり財務向きですわね」
「便利ではあります。国庫に悪いものほどよく目に入るので、かなり胃に来ますゆえ」
「財務卿、国庫と同じくらい胃も守ってくださいませ」
バルナードが声を荒げた。
「これはただの汚れだ!」
レイベルナは机に置かれた布を見た。
「順番に確認しますわ。まず、帳面の『返却済み』の文字が消された場所には、修正薬を使った跡があります」
バルナードの喉が鳴った。
「次に、その修正薬を拭き取るための布が、薬棚に戻されていませんでした」
レイベルナは机の上の白い布へ視線を落とす。
「そして、その戻されていないはずの布が、今あなたのポケットから出てきました」
「わ、私は知らん!」
「まだ終わっておりませんわ」
レイベルナは布の折り目を指した。
「最後に、この布には王太子執務室の赤蝋らしき欠片まで残っています。つまりこの布は、返却記録を消すためだけでなく、封蝋印にも触れていた可能性があります」
「まだ何も結論は出しておりませんぞ」
財務卿が静かに続けた。
「主任殿は、聞かれる前に否定なさいますな」
バルナードは机の上の剃刀へ視線を逃がした。
セドリックが一歩出る。
「手は動かさないでください」
「私は何もしておらん!」
「では、そのままで」
レイベルナは布を見たまま、問いを戻した。
「バルナード様。この布を戻さなかった理由は?」
「……汚れたからだ」
「何で汚れたのですか?」
「それは……」
「修正薬で浮いたインクを拭いたからではありませんか?」
「違う!」
「では、なぜ赤蝋の欠片が残っているのです?」
バルナードの呼吸が止まった。
それは、ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬で十分だった。
財務卿の目つきが変わる。
トマスが息を呑む。
ミラが口元を押さえる。
セドリックだけが無言で扉の前に立っていた。
「主任殿」
財務卿の声は低い。
「今の反応は、国庫にとって大変悪い反応ですな」
「ち、違う。私は……私は、命じられただけだ」
バルナードは言ってから、自分の口を押さえた。
遅かった。
レイベルナは目を伏せる。
「誰に、ですか?」
「……」
「答えられませんか?」
バルナードは黙った。
先ほどのトマスとは違う沈黙だった。
怯えではない。
誰かを守ろうとしている沈黙だ。
レイベルナは右手を開いた。
銀の鈴が、また現れる。
「レイベルナ嬢」
セドリックが短く呼んだ。
振り向くと、彼は静かにこちらを見ていた。
止める目ではない。
次に来る相手が危険でも、自分が扉の前に立つという目だった。
レイベルナの胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
「大丈夫です」
「はい」
セドリックはそれだけ答えて、扉の前に立ち直った。
財務卿が猫を椅子から抱き上げる。
「次は、かなり大物かもしれませんな……」
財務卿の声から、いつもの軽さが消えていた。
セドリックは扉の前から動かなかった。
剣には触れていない。
だが、その位置だけで、誰が呼ばれても逃がさないと分かった。
レイベルナはバルナードを見た。
「もう、あなたに命じた方の名を、無理に言わせるつもりはありません」
バルナードの顔が引きつった。
「まさか」
「はい」
レイベルナは鈴を鳴らした。
――チリン。




