第11話 修正薬では消えないもの
――チリン。
銀の音が落ちた直後、監査室の中央にひとりの女性が現れた。
片手には小さな薬瓶。
もう片方の手には畳みかけの布。
頭には、どこで拾ったのか大きな綿埃が一つ載っている。
女性は悲鳴を上げなかった。
財務卿。
近衛騎士。
丸いパンを握った記録係見習い。
片頬だけ髭の残った文書院主任。
そして、銀の鈴を持つレイベルナ。
そこまで見て、女性の顔からゆっくり血の気が引いた。
「……修正薬の件ですね」
バルナードの片頬がぴくりと動いた。
「ミラ、余計なことを言うな」
「主任。その言い方は、すでに余計ですわ」
レイベルナが静かに言うと、バルナードは口を閉じた。
財務卿の腕の中で、猫が綿埃を見つめていた。
次の瞬間、猫はひらりと机へ飛び移り、ミラの足元に落ちた綿埃へ前脚を伸ばす。
「猫が証拠物に興味を」
「ただの綿埃ですわ」
「では、猫に任せましょう」
「任せる必要はありません」
猫は綿埃を一度だけ叩き、満足したように座った。
その小さな騒ぎは、それだけで終わった。
「お名前を」
「文書院の薬棚係、ミラ・オルセでございます」
ミラは布を胸に抱き、レイベルナへ頭を下げた。
「修正薬を最後に持ち出した責任者として、あなたが呼ばれました」
「はい。持ち出しました」
即答だった。
バルナードが息を呑む。
トマスは丸いパンを握ったまま目を見開いた。
「ミラさん。誰の指示ですか?」
ミラは一瞬だけバルナードを見た。
「文書院主任、バルナード・ケイル様です」
「ミラ!」
「主任、私は薬棚係です。薬の持ち出しを聞かれたら答えます」
財務卿が小さく頷いた。
「よい職務態度ですな」
「財務卿、今は褒めている場合ではありません」
「褒められるときに褒めておかないと、王宮は叱責ばかりになりますゆえ」
「それは少し困りますわ」
レイベルナは帳面を開き、返却確認欄の消えた場所を示した。
「この空白に、修正薬が使われています。あなたが出した薬ですか?」
ミラは紙の表面を見て、すぐに頷いた。
「間違いありません。文書院の修正薬です。市販品より紙を傷めにくいですが、急いで使うとこうなります」
「急いで?」
「薬を置いてから拭き取るまでが早すぎます。だから紙が毛羽立っています」
バルナードが声を荒げた。
「薬棚係ごときが、何を分かったように!」
「では、主任」
レイベルナは声を少しだけ落とした。
「あなたは、分かっていたのですね?」
バルナードの口が止まる。
「分からないなら、薬棚係の説明を否定できません。分かっていたなら、なぜ分かるのかを説明していただきます」
監査室が静まった。
セドリックが扉の前で姿勢を正す。
逃げ道をふさぐように、ただ立っている。
バルナードの喉が動いた。
「私は……帳面を整えただけです」
「整えた?」
レイベルナは返却確認欄を指した。
「返却済みの文字と確認印を消すことを、文書院では整えると呼ぶのですか?」
「違います!」
「では何と呼ぶのです?」
バルナードは答えられなかった。
ミラが小さく息を吸う。
「あの日、主任は『王太子執務室の指示で、古い記録を直す』と言いました。私はおかしいと思いました。正式な修正なら理由と署名を残す決まりですから」
「なぜ止めなかったのですか」
セドリックの声は低かった。
ミラの指が布を握る。
「私は薬棚係です。主任に命じられて、薬を出しました。ですが、気になって……持ち出し表の余白に、薬瓶の残量だけ書きました」
財務卿の目が鋭くなる。
「残量」
「はい。持ち出す前は瓶の肩までありました。戻った時は、かなり減っていました。帳面一行を消す量ではありません」
レイベルナの視線が、バルナードへ移った。
「帳面一行ではない」
「そ、それは……他の誤記も直したからで」
「では、その誤記の場所を教えてください」
バルナードは汗を浮かべた。
財務卿が猫を撫でながら、静かに言った。
「主任殿。帳面一行分ではない修正薬。消えた返却確認。戻らない封蝋印。どれも国庫に悪い話ですなぁ」
「私は盗んでいない!」
「まだ盗んだとは申し上げておりません」
レイベルナが告げる。
バルナードは自分で逃げ道を狭めたことに気づき、顔を強張らせた。
そのとき、ミラがぽつりと言った。
「主任は、布も返していません」
「布?」
「修正薬を拭き取る専用布です。使用後は薬棚に戻す決まりですが、その日の布だけ戻っていません」
レイベルナは右手を開いた。
銀の鈴が、指先に現れる。
バルナードが一歩下がった。
セドリックがすぐに言う。
「焦って逃げようとした場合は、床に押さえ込みます」
「わ、私は逃げておらん!」
レイベルナは鈴を持ち上げた。
「では、確かめましょう。この布を、今持っている方に聞けば分かりますわね」
「そんなものに責任者など――」
――チリン。




