第179話:数字は最高、だが現場は静かに悲鳴を上げ始めていた
平成元年。
秋。
朝。
少し冷えた風。
窓を開けると、夏の熱気がようやく消え始めていた。
空は高い。
雲も薄い。
商店街には人がいる。
車も多い。
景気は良い。
誰が見ても。
間違いなく。
良い。
テレビでは朝のニュース。
「日経平均株価は史上最高値圏を維持――」
「地価上昇率も過去最高水準――」
「日本経済は世界を牽引――」
(数字だけ見ればな)
恒一は新聞を畳む。
昭和五十年。
あの日から十四年。
未来を知る少年は。
今では誰よりも日本を見ている。
数字も。
人も。
街も。
全部。
だから分かる。
数字は最高だ。
だが。
現場は違う。
母が言う。
「最近本当に景気悪い話聞かないわね」
父も笑う。
「会社なんか求人出しても人来ないぞ」
(そこなんだよな)
求人が来ない。
技術者が来ない。
職人が来ない。
現場が回らない。
だが。
誰も問題だと思わない。
なぜなら。
株価は上がっている。
地価も上がっている。
だから。
皆安心している。
机へ向かう。
大学ノート。
第一都市。
第二都市。
第三都市。
第四工場都市。
第五物流都市。
第六観光都市。
第七産業都市。
そして。
新しい項目。
人材流動調査。
恒一は最近。
そこばかり見ていた。
土地ではない。
株でもない。
人。
どこに人が流れているか。
そこを。
ノートを開く。
・工場人員不足
・建設人員不足
・物流人員不足
・サービス業不足
(全部か)
未来でも同じだった。
バブル後期。
お金は増える。
だが。
人が足りなくなる。
学校。
昼休み。
男子達が騒いでいる。
「兄貴、就職しないらしい」
「なんで?」
「不動産屋やるって」
笑い声。
別の男子も言う。
「うちの従兄弟も」
「株だけで食うとか言ってる」
(未来だな)
何度も見た。
皆。
同じ方向へ向かう。
だから危ない。
放課後。
今日は第五物流都市へ向かった。
駅を降りる。
倉庫。
貨物駅。
トラック。
コンテナ。
巨大な物流基地。
昭和五十年代後半から。
恒一が重点的に投資した場所の一つ。
未来を知っていた。
物流は消えない。
人が生きる限り。
物は動く。
だから。
ここは強い。
だが。
今日は違った。
空気が重い。
会館。
物流会社。
運送会社。
銀行。
商工会。
皆。
少し疲れている。
会長が言う。
「人が足りん」
(やっぱりか)
運送会社社長も頷く。
「本当に足りん」
倉庫会社社長も言う。
「求人出しても来ない」
さらに。
「来ても続かない」
静かになる。
未来でもそうだった。
物流。
建設。
工場。
皆。
人が消えた。
その時。
銀行員が苦笑する。
「景気良いですからね」
(違う)
恒一は思う。
それだけじゃない。
もっと根が深い。
若い人間が。
現場を軽視し始めている。
それが問題だ。
運送会社の社長が言った。
「最近の若い奴はな」
「汗かく仕事嫌がる」
誰も否定しない。
現実だから。
その時。
会長が恒一を見る。
「どう思う?」
恒一は窓の外を見る。
大型トラック。
フォークリフト。
作業員。
全部動いている。
だから物流が回る。
だから日本が回る。
そして言った。
「目立たないから」
静かになる。
「誰も見ない」
さらに。
「でも止まったら困る」
沈黙。
物流会社の社長が頷いた。
「その通りだ」
誰も反論しない。
できない。
本当だから。
夕方。
物流基地を歩く。
トラック。
荷物。
コンテナ。
フォークリフト。
全部動いている。
(ここは残る)
未来を知っている。
だから分かる。
どれだけバブルが崩れても。
物流は必要だ。
工場も必要だ。
食料も必要だ。
生活も必要だ。
だから。
最後まで残る。
その時。
若い作業員達の会話が聞こえた。
「高校の同級生さ」
「証券会社行ったんだよ」
「すげーな」
「給料倍らしい」
笑い声。
羨望。
憧れ。
(そうなる)
未来でも。
皆。
そっちへ流れた。
だから現場が空になる。
夜。
東京。
銀座。
新宿。
テレビで流れる映像。
ブランド。
高級車。
投資。
不動産。
資産家。
誰もが華やかな世界を見る。
だが。
物流基地は映らない。
工場も映らない。
港も映らない。
だから。
人が来ない。
帰宅。
机へ向かう。
大学ノート。
新しいページ。
・平成元年秋
・物流人材不足深刻化
・現場離れ加速
・華やかさ偏重社会
さらに下。
・数字は最高、だが現場は静かに悲鳴を上げ始めていた
書き込む。
数字。
それは結果だ。
だが。
結果だけ見れば失敗する。
未来で見た。
何度も。
本当に大事なのは。
数字を作る側。
人間だ。
職人。
運転手。
技術者。
工員。
港湾作業員。
その人達がいるから。
経済が回る。
その人達が減っている。
誰も見ていない。
誰も気付かない。
だから危険だ。
布団へ入る。
目を閉じる。
全国地方再生ネットワーク。
成功している。
本当に。
だが。
その裏で。
静かに。
確実に。
別の数字が悪化している。
人。
技術。
現場。
本当に必要なもの。
未来を知る恒一だけが。
その危険を見ていた。
そして知っている。
社会が本当に危険になるのは。
株価が下がった時じゃない。
地価が下がった時でもない。
本当に価値を生む人間が減り始めた時だということを。




