第69章「確かに、ここにいた」
和人の父親が死んだのは、昼過ぎだった。
二時間目の数学を終え、次の授業の移動教室へ向かう途中、病院にいた母親から、父の容体が急変したと電話があった。一緒にいたクラスメイトに言付け、和人は急いで学校を後にした。
父の病院は、学校と自宅の最寄り駅から二駅のところにあった。和人は大通りに出て、タクシーを捕まえようと走った。
「和人、乗れ!」
その声に振り向くと、見慣れた黒のセダンから顔を出した兄の真人がいた。
和人が助手席に乗るや否や、車は走り出した。
そこからの出来事は、和人の記憶の中では無音だった。
車内で真人と何か言葉を交わしたはずだし、病院に着き、息を引き取る直前の父を家族で取り囲んで、みんなが何かを呼びかけていたこともはっきり覚えている。
それなのに、誰が何を言ったのかを覚えていないどころか、記憶の中の出来事は全て無声映画のようだった。
家族とは日常的な会話を交わし、学校も一週間程度欠席しただけで、その後は通常通りに登校して、普通に生活していた。
しかし、辿る記憶のすべてに音がないのだ。
父の死後、母は気丈に振る舞い、やるべきことを一つひとつこなしていた。そんな母を、真人と和人の二人で支えた。
通夜、葬儀、火葬。その他、役所への手続きや焼香に訪れる来客への対応にも追われ、目まぐるしく日々が過ぎていく――たった一人の人間が死んだあとに、これほど多くのことをしなければならないとは知らなかった。
悲しみに暮れる暇さえないように、うまくできている。そんなことを、記憶のどこかでぼんやりと思っていた。
初七日を終えた日の夜、自室で過ごしていると、スマホに着信があった。
カナダにいる美佳からだった。
十三時間の時差に加え、父のことで家が慌ただしく、しばらく連絡を取っていなかった。数日前に彼女から届いたメールにも、まだ返信できずにいた。
ずっと気にはなっていた。
美佳は父とも面識があり、情に厚い性格だ。父のことを知れば、遠く離れた留学先で余計な心配をさせると思い、彼女に知らせようとした美佳の両親を止めた。
それは自分で決めたことだった。
それなのに、連絡を取ることもできずにいる。何も知らない美佳を相手に、いつも通り振る舞える気がしなかった。
もう少し落ち着いてから連絡すれば、いつものように笑って許してくれる。
心のどこかで、そう思っていた。
どんなふうに電話に出て、美佳がどう話し出したのかは思い出せない。
ただ、とにかく別れることになった。
美佳に現地で好きな人ができたのか、彼氏ができたのか。とにかく、そのようなことを言っていたのだと思う。
わかった、とだけ言ったような気がする。
美佳を責める気持ちは全くなかった。
曖昧にせず、きちんと伝えてくれたことは、美佳らしいとも思った。彼女のことだから、たくさん考えた末のことだということも、相手に対して本気だということも、ちゃんとわかる。
身勝手なのは自分のほうだった。
美佳は強いから大丈夫だと勝手に決めつけていた。連絡を返さなくても、きっと分かってくれる。向こうでしっかりやっているだろう――そんなふうに彼女の強さに頼って、寂しい思いをしているかもしれないことを、考えないようにしていた。
そのときのとてつもなく空虚な気持ちと、寝転んだベッドから見つめていた天井だけが、記憶に残っている。
それから数日が過ぎたある日、父の部屋で遺品整理をしていた母が声をかけてきた。
棚を動かしたいから手伝ってほしい。そんなことを言われたはずだ。
手伝うために入った父の部屋。その机の上に、一台の古いカメラが置かれていた。
当時、カメラについて何も知らなかった和人は、見慣れない古びたカメラに興味を覚えた。
「あれ、父さんの?」
カメラを指差して、多分そんなふうに尋ねた。
結婚する前に父が使っていたもので、長いこと仕舞い込んだままになっていたらしい。
長い間手入れもしていなかったため、使えるかどうかも分からず、取っておくか迷っている様子だった。
なんとなく――本当に何気ない気持ちで、和人はそれを譲り受けることにした。
それからインターネットでカメラのボディに刻まれている機種名や型番を検索した。
フィルムの巻き上げ方や取り出し方、新しいフィルムの装填方法。パーツや各部の名称から操作方法まで、分からないことを一つずつ調べていった。
最初は何ひとつ分からなかった。けれど、調べたことを一つ覚えるたび、父が使っていたカメラが、少しずつ自分にも扱えるものになっていく。
知識として眺めているだけだったものが、自分の手で確かめ、自分の手で動かせる現実のものになっていく。
そして、それは同時に、もう会うことのできない父が残した時間を、自分の手でひとつずつ辿っていくようでもあった。
父はこのカメラを、どんなふうに使っていたのだろう。
ファインダーを覗き、何を見ていたのだろう。
そんなことを考えながらカメラに触れている時間だけは、父がもういないという事実を、ただ突きつけられているだけではなかった。
上面にあるフィルムカウンターは「24」を示していた。
中にフィルムが残っている。
その意味に気づいたとき、和人はしばらくカメラを手にしたまま動けなかった。
父が何を撮ったのか、知りたいと思った。
調べた手順どおりにフィルムを巻き戻す。巻き戻しクランクを回す指先に、かすかな抵抗が伝わってくる。
やがて抵抗が抜けた。
底蓋を外して取り出したのは、三十六枚撮りのフィルムだった。
和人はそれを現像するため、近くの写真店へ出向いた。
現像された写真には、母との新婚旅行や、幼い真人と和人が父の田舎で楽しそうに虫取りをしている姿が写っていた。
写真の中に父はいない。
けれど、どの写真にも、確かに父はいた。
母を見つめ、真人を見つめ、自分を見つめていた父の視線が、そのまま残っていた。
和人は一枚ずつ、時間をかけて見た。
長年カメラの中に残されていたフィルムは劣化していたらしく、現像された写真は全体に色がくすみ、ところどころ色合いも変わっていた。
父がいなくなってから、何を考えても最後には「もういない」というところへ戻っていた。
けれど、このカメラを手にしてからは違った。
何を思い、何を撮ったのか。
どんなふうにカメラを使い、どこで撮ったのか。
一つ知るたび、その先にまた父がいた。
和人は父の田舎へ行き、祖母に写真を見せた。
真人と和人が虫取りをしていた場所はどこなのかと尋ねると、祖母がその場所まで連れていってくれた。
ファインダー越しに見たその景色を、和人は生涯忘れないだろうと思った。
どこまでも続く緑の田園と、その先に広がる抜けるような青空。
――カシャ。
和人の記憶には、そこから音が蘇っている。
この写真の、この真っ青な空に、確かに父がいた。




