第68章「空き教室で」
「昨日の委員会で特進のやつに聞いたけど、美佳ずっと体調悪かったのか」
放課後、生徒たちの足音でざわつく昇降口の前で、偶然見かけた美佳に和人は声をかけた。
美佳は三年七組で、特進コースに所属している。
昨日の委員会で同じ七組の生徒と話していた際、彼女がしばらく学校を休んでいることを聞いたのだ。
「うん……。まあ」
美佳は曖昧に笑い、視線を落とした。
笑ったはずなのに、その表情に明るさはない。
頬はやつれ、目の下には薄く影が落ちている。明らかに、いつもの美佳とは違っていた。
「顔色悪いけど、まだ体調悪いのか」
「ううん……」
「本当か? 大丈夫じゃなさそうだけど」
和人が尋ねると、美佳は俯いたまま黙り込んだ。
昇降口を行き交う生徒たちの声が、二人の間を通り過ぎていく。
靴箱の扉が閉まる音。誰かを呼ぶ声。外から吹き込む風に混じった、乾いた土の匂い。
その中で、美佳だけがひどく静かだった。
「和人……」
しばらくして、美佳が顔を上げた。
「ん?」
「今、部活行くとこ?」
その表情には、戸惑いの色が浮かんでいた。
「そうだけど――どうした?」
「ちょっとだけ、そこの空き教室で話せる?」
「わかった」
和人はスクールバッグを肩に掛け直し、廊下の端にある空き教室の扉を開けた。
美佳を先に入れ、その後に続く。
その様子を、少し離れた廊下から紗江が偶然目にしていた。
ユキナが紗江からその話を聞く、前日のことだった。
教室に入ると、閉じられたカーテン越しに外の光が透けていた。
扉を閉めた途端、さっきまでの喧騒が遠のく。
使われていない机と椅子が整然と並ぶ教室に、二人の足音が小さく響いた。
美佳は教卓まで歩くと、その端に手をついてため息をついた。
何かを話そうとしているようだったが、なかなか言葉が出てこない。
和人は急かさず、その場で待った。
「彼氏がね」
「ああ」
「癌なの」
「え?」
「ついこの間わかったの。もって、あと数ヶ月なんだって」
一瞬、その言葉だけが意味を持たずに耳へ入ってきた。
「……どこの癌?」
「胃癌……。かなり進行してて、膵臓にも広がってるみたいなの……」
膵臓、という言葉は、今でも何の抵抗もなく聞き流すことができなかった。
「そうか……」
それ以上、すぐには言葉が続かなかった。
窓の向こうを誰かが通ったのか、カーテン越しの光が一瞬だけ陰り、また元に戻った。
「彼、体調崩して病院に行って……先週、検査結果が出て、癌だってわかったの。それですぐ入院することになった。北海道から彼のご家族も来てて、私もずっとそばにいたんだけど……みんな私のこと心配して、とりあえず学校に行きなさいって。それで今日は来たんだけど……何も手につかなくて」
美佳は途切れ途切れに話した。頭の中に溜め込んでいたものを、ひとつずつ取り出して並べるようだった。
「彼は諦めてなんかいないし、私も彼が死ぬなんて思えない。でも……でも……」
言葉が途切れ、美佳の肩が小刻みに揺れた。
「もし彼がいなくなったらどうしようって、そればっかり考えてしまって……私、怖くて……」
最後の言葉は、ほとんど息のようにこぼれた。
和人は美佳の前へ歩み寄り、震える肩を両手で掴んだ。
「美佳、落ち着け」
手のひらに伝わる震えは、なかなか止まらなかった。
しばらくして、美佳が顔を上げた。
「和人……ひとつ、聞いてもいい?」
「うん」
美佳は躊躇うように視線を落とした。
「抗がん剤って……やっぱり、すごく辛い治療なのかな」
和人はその言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。
「ああ。親父も抗がん剤で治療してた」
「……そっか」
美佳は唇を結んだ。
「ごめん。こんなこと聞いて」
「別にかまわないよ」
「彼も抗がん剤治療をすることになったって、ご両親が教えてくれたの。私、何もわからなくて……」
「これから、彼氏も美佳も、辛い場面に直面するかもしれない」
美佳はその言葉を聞くと、両手で顔を覆った。
和人は何も言わず、その姿を見ていた。
大丈夫だとか、きっと良くなるだとか、励ます言葉ならいくらでも思いつく。
けれど、そう言い切ることだけはできなかった。
「親父は、余命宣告よりもかなり早い時期に亡くなったけど、治療して何年も生きる人もいる。同じ病院に、そんな人もたくさんいた」
和人は一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「何を信じたらいいかわかんなくなると思うけど、こればっかりは……彼氏の生命力を信じるしかない」
「私……私、信じたい……」
美佳の声が、両手の隙間からくぐもって聞こえた。
和人はその姿を見ながら、かつて自分も同じように、先の見えない時間の中にいたことを思い出していた。
明日のことすらわからないのに、何ヶ月先の話をされる。
数字で区切られた時間が、本当にその人に残された時間なのかもわからない。
期待すれば怖くなり、覚悟しようとすれば、裏切っているような罪悪感に襲われた。
どちらを向いても、正解などわからなかった。
「美佳の家族は、彼氏の病気のこと、知ってるのか?」
「実は、留学中付き合ったこと話してなくて、帰国してから彼がうちに来て、二人で交際の報告したの。それまでは、家族みんな、私は和人とまだ付き合ってると思ってて……。留学中に彼が私をたぶらかしたとか言って、ママもパパも彼をあまりよく思ってないの」
美佳は教卓に置いた両手の指を強く組んだ。
「だからこのことも、まだ伝えられてなくて。先週は、学校来るふりして、ずっと彼の病院通ってた。学校には、お姉ちゃんが保護者として連絡してくれてたんだ。体調不良で欠席するって」
「ちゃんと伝えた方がいいよ。美佳の両親は厳しいけど、そういうのは、しっかり話せばわかってくれるだろ」
「うん……」
「どうしても辛かったら、俺も話を聞くくらいは出来る。絶対、一人で背負い込むな」
「和人、ありがとう。ちょっと落ち着いた」
美佳は真ん中で分けた長い前髪を耳にかけた。
「彼氏の前では、どうしても笑っていたかったから。吐き出せる場所がなくて――急にごめん。こんな話されたら、辛いこと、思い出しちゃうよね」
顔を上げた美佳の目は赤くなっていた。
それでも、さっきまで張りつめていた表情は、ほんの少し緩んでいた。
「彼氏には、無理せずいつも通り接するのが一番だと思う。もし泣きたくなったら、隠れないで彼の前で泣いていいと思う。俺なら、彼女を一人で泣かせたくない」
「うん……。ありがとう」
美佳は小さく息を吐いた。
閉め切られた教室の中で、その呼吸だけが妙にはっきりと聞こえた。
「これから病院行くのか?」
「今日は、検査とか色々あってバタバタするみたいだから、ゆっくり休みなさいって、彼の家族が言ってくれたの」
「そうした方がいい。寝られてないんだろ?」
「うん。帰って少し寝ようかな。なんか今なら眠れそう。和人に話して良かった。本当にありがとう」
「なんかあったら連絡して――あ、そういや俺らって今メッセ繋がってるんだっけ」
「あ、ううん。繋がってない」
「じゃあ入れといて」
和人はスマホを取り出し、連絡先のQRコードを表示して美佳へ差し出した。
「ありがと」
美佳は小さく頷き、自分のスマホでそれを読み取った。




