第67章「知らない時間」
その日は、いつもより早く授業が終わる日だった。
夏が過ぎたとはいえ昼下がりはまだ暑く、駅前を行き交う人の服装も半袖から薄手の上着までまちまちだった。
ユキナは和人と並んで歩き、彼の家へ向かっていた。
きっかけは、ユキナが三脚を買おうか迷っていると相談したことだった。和人が使っていないものを持っているというので、一度見せてもらうことになったのだ。
部屋に入ると、和人はすぐにテレビをつけた。
「ごめん、見たい試合あって。テレビつけててもいい?」
「もちろん」
画面には、バスケットボールの試合中継が映し出されていた。背の高い海外選手たちが、目まぐるしくコートを駆け回っている。
和人は得点差を確認すると、僅かに表情を険しくした。それからクローゼットを開け、中から黒いケースを取り出す。
「これ。そんなに重くないから、ユキナでも普通に持ち歩けると思う。気に入ったらそのまま持って帰っていいよ。他に試したいと思えば、また一緒に選びに行ってもいいし」
「ありがとう。わあ……なんか本格的」
和人はケースから取り出した三脚を床へ置き、時折試合中継へ目をやりながら、三本の脚を開いていった。
「ここ緩めれば伸ばせるから。三本とも同じくらいに調節する感じ」
「わかった。同じくらいね」
「安定すれば、そんなに厳密じゃなくていいよ」
ユキナはその場に膝をつき、順番に脚を伸ばしていく。ところが一本だけ、留め具を外した途端、ストンと下へ伸びた。
「……わっ」
慌てて手を出すと、和人は笑いながら隣にしゃがみ、伸びすぎた脚を元へ戻した。
「で、カメラつけるときはこれ使う」
三脚の上部から小さな四角いプレートを取り外し、ユキナへ見せる。
「これをカメラに直接付けるの?」
「そう。底に穴あるだろ。そこにネジ合わせて回す」
ユキナはバッグからカメラを取り出し、教えられるままプレートを取りつけた。それを三脚へ固定すると、カチッと小さな音が鳴る。
「これ、ほんとに手離して大丈夫?」
「ちゃんと固定できてれば大丈夫」
和人が固定部分を確かめてから、カメラを軽く動かしてみせる。
「ほら」
「怖い。落ちたら泣くんだけど」
「大丈夫だって」
恐る恐る両手を離す。三脚の上で、カメラは微動だにしない。
「わあ」
「こっち緩めれば向きも変えられるよ」
今度は雲台の動かし方を教わり、ユキナはカメラをゆっくり左右へ振った。
「ふふ。なんかカメラマンっぽい」
楽しそうに三脚を動かすユキナを見て、和人は優しく微笑んだ。
「ケースに説明書入ってるから、好きにいじって使い勝手試してみたらいいよ」
「うん。ありがとう」
そのとき、テレビから大きな歓声が上がった。和人が反射的に画面へ顔を向ける。
「あ、入った」
和人は立ち上がると、ベッドへ腰を下ろした。
ユキナはそのまましばらく三脚を触り、脚の伸縮やカメラの取り外しを何度か試した。ひと通り扱い方がわかったところでカメラを外し、ベッド脇に置いたバッグへ戻す。
ふと、本棚へ目を向ける。
写真集やカメラ関係の本に混じって、端の方に厚みのある冊子が何冊か並んでいた。
背表紙の文字に目が留まり、そのうちの一冊を抜き取る。小学校の卒業アルバムだった。
「これ、見てもいい?」
返事を待ちながら振り返る。
和人はベッドに腰掛け、バスケットボールの中継を見ていた。
「ん? ああ、いいよ」
「ありがとう」
「他にもなんか見たければ、自由に見て大丈夫だよ」
そう答えると、和人の視線はすぐにテレビへ戻った。
ユキナは床に座り、膝の上で卒業アルバムを開いた。
最初に現れた集合写真を眺める。
「あ、いた」
列の中に、今よりずっと幼い和人が立っていた。
短い髪に、まだあどけなさの残る顔立ち。それでも目元は、今の彼へそのまま繋がる。
「あんま変わってないだろ」
和人が少し笑いながら声をかけた。
「うん。ミニ和人、可愛い」
ユキナは微笑みながら、ページをめくっていく。
運動会、遠足、校外学習。学校生活のさまざまな瞬間を切り取った写真が並んでいた。
友達と肩を組んでいる姿。運動会でバトンを手に駆ける姿。
今の和人の面影はしっかり残っているのに、幼い表情を見つけるたび、自然と頬が緩んだ。
次のページをめくったところで、ユキナの指が止まる。
和人の隣に、美佳がいた。
凛とした顔立ちは今と変わらず、すぐにわかった。
何人かのクラスメイトと並び、揃ってカメラへ笑顔を向けている。
ユキナはその写真から目を離せずにいたが、しばらくしてページをめくった。
また、美佳が和人と同じ写真に収まっているのを見つける。
いつも隣にいるわけではない。二人きりで写っているわけでもない。
それでも、和人を目で追っていると、その近くに美佳の姿を見つけることが多かった。
テレビから大きな歓声が上がる。
「うわ。今の入るのかよ」
背後から聞こえた和人の声に、ユキナは振り返った。
和人はテレビを見たまま、試合の行方に夢中になっている。
ユキナは何も言わず、アルバムへ視線を戻した。
「バスケットボールクラブ」と書かれた写真には、クラブのメンバーが何列かに並んでいて、和人と、やはり美佳の姿がある。
上段と下段に分かれてはいたが、どちらも左手にボールを抱え、右手で作った拳を顔の横に掲げ、二人だけ同じポーズで写っていた。
もし和人から聞いた以前付き合っていた彼女が美佳なのだとしたら、二人が付き合い始めたのは中学二年生。
けれど、それよりずっと前から、二人はいつも同じ思い出の中にいたのだ。
ユキナは小さく息を吐き、アルバムを閉じた。
本棚へ戻そうとして、隣に並ぶ別の冊子に目が留まる。
清森学園中等部の文集のようだった。
それも取り出し、再び床へ座る。
「これも見せてもらうね」
「ああ、なんでもどうぞ」
和人はテレビから目を逸らさずに答えた。試合は終盤に入ったらしく、先ほどよりも画面へ意識を向けている様子だった。
文集を開き、目次に並ぶ名前を追った。
和人の名前を見つけ、そのページを開く。
そこに綴られていたのは、高等部へ進級したら、バスケでインターハイに出場したい、その先もずっとバスケをしていたいという内容だった。
文章からも、この頃の和人がどれほどバスケットボールに打ち込んでいたのかが伝わってくる。
――その僅か一年後に怪我で引退するなんて、この頃は思ってもいなかったんだろうな……。
ユキナは文集から顔を上げ、和人へ目を向けた。
彼は今、テレビに映る試合を楽しそうに観ている。
その横顔を見ているうちに、ふと、カメラを構えているときの彼を思い出した。
ファインダーの向こうを射抜くような鋭い眼差し。被写体を捉えた瞬間迷いなくシャッターを切る姿。
写真も同じくらい本気なのだ。
夢中だったバスケットボールを続けられなくなった彼が、今また本気になれるものを持っている。
彼がカメラに出会えて、本当によかった。
ユキナは、心の底からそう思った。
彼の文を読み終えて、何気なくパラパラとページをめくると、ある名前が目に入る。
【中等部三年六組 度会美佳】
少しだけ迷ってから、そのページを開いた。
将来について書かれた文章だった。
知らない世界を自分の目で見てみたい。異なる文化や価値観に触れ、自分の視野を広げたい。失敗を恐れて何もしないより、自分で選び、挑戦できる人でありたい。
ユキナは黙ったまま読み進めた。
中学生の頃から、自分の進みたい方向をきちんと見据えていたことが窺えた。
そして今、美佳は実際に二年間の留学を終えて帰国し、この頃に書いたことを現実のものにしている。
並んだ文字も、一文字ずつ丁寧に整っていた。
――字まで綺麗なんだなあ。
部室で会った美佳の姿が浮かぶ。
明るくて、気さくで、とても美人だった。
ちょうどそのとき、テレビから試合終了を告げるブザーが鳴った。
「よし!」
和人は小さく拳を握った。
「応援してるチーム、勝った?」
「なんとか。かなり危なかった」
和人がリモコンを手に取り、テレビの音量を少し下げた。
「三脚どう? 今度他のも見に行ってみる?」
「ううん。これ、軽くて安定してるからすごく良かった」
「お、ならそれ使いなよ。あげる」
「ありがとう。嬉しい」
ユキナは立ち上がり、そのままベッドへ腰を下ろした。
しばらくぼんやりとテレビを眺めていたが、隣にいる和人へ何か言いかけて、口を閉じた。
聞きたいことがあるはずなのに、聞きたくなかった。何をどう言えば、美佳のことを自然に話せるのかもわからない。
画面では、ユニフォーム姿の選手がインタビューを受けている。
和人はベッド脇のテーブルへリモコンを置こうと腰を浮かせ、そのまま座り直した。
ユキナは、二人の間にほんの少しできた隙間が気になってしかたなかった。
思わず和人の方へ詰めると、ぴたりと彼にくっつく。その肩に頭を乗せ、試合後の映像を見ている横顔を眺めていると、ふいにその視線がこちらを向いた。
「んー? なに見てんだよー?」
「えへへ。なんでもないよー」
そう返すと、和人はユキナの髪をさらりと撫で、視線を前に戻した。
それでも、ユキナは彼を見つめたままだった。
「……どうした?」
和人が再びこちらを向いて笑う。
「超見てくるじゃん」
「なんでもないって」
ユキナも笑って返した。
そのまま数秒見つめ合っていると、やがて和人の口元からわずかに笑みが消えた。
不意に和人の手が伸びてくる。
大きな手のひらが、ユキナの目元をふわりと覆う。
「わっ」
「タイムアウト」
「なにそれ」
ユキナは笑った。
「和人、見えない」
「ダメ。こっからは有料」
「えー」
二人で笑い合う。
やがて手のひらが離れ、遮られていた視界が戻った。
「なんか、飲みもの持ってくるよ」
和人は優しくそう言うと、ユキナの頭をぽんぽんと撫でた。そのままゆっくり身体を離し、自然な動作で立ち上がる。
「……うん」
「炭酸系、お茶系、どっちがいい?」
「えっと、なんでも大丈夫」
「じゃあ、適当に持ってくる」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
閉じられた扉を見つめる。
避けられたわけでも、拒まれたわけでもない。
彼はいつでも優しく受け入れてくれるし、彼の方から距離を埋めてくれることだってあった。
それでも離れてしまえば、すぐに寂しさが押し寄せてくる。
二人の間に、一ミリの隙間さえいらないと思ってしまう。
そこまで考えたところで、我に返った。
和人といられれば、それだけで幸せなのだ。それは紛れもない事実のはずだった。
それなのに、近づけばもっと近づきたくなる。満たされた分だけ、また欲しがってしまう。
そんな自分に、ユキナは少しだけ恐ろしさを覚えた。際限がないように思えるこの足りなさは、いったいどこからくるのだろう、と。
隣に残された空間から目を逸らすように、彼女はテレビへ視線を戻した。




