第70章「隣にいるのに」
日曜日のことだった。
ユキナと和人は、顧問の許可を得て、写真部の部室で作業をしていた。
ユキナは机に向かい、ノートパソコンで撮影した写真を調整していた。一方、和人は暗室で作業をしていた。
二人はこの日、学園祭で開く写真展の準備を進めていた。
学校全体ではまだ学園祭準備期間に入っていなかったが、直前になると何かと忙しくなるからと和人が早めの準備を提案し、二人で少しずつ取り組んでいた。
あれから、ユキナはまだ和人に美佳のことを切り出せずにいた。
話題にする機会をうかがっているうちに、すっかりタイミングを逃してしまった。今さらどう切り出せばいいのかわからず、そのことが胸の奥に小さく引っかかったままだった。
やがて暗室の扉が開き、和人が戻ってきた。
作業がひと区切りついたらしく、和人はパイプ椅子に腰を下ろし、カメラのレンズを丁寧に拭き始めた。
そのとき、机の上に置いてあった和人のスマートフォンが鳴った。
和人は画面を確認すると、ユキナに顔を向けた。
「電話、出ていい?」
「どうぞー」
ユキナはパソコンの画面から目を離さずに答えた。
「もしもし。うん、大丈夫。どうした?」
電話に出た和人は、そのまま暗室へ入っていった。
背後で扉の閉まる音がする。
その音を聞いた途端、なぜか、わずかに胸がざわついた。
けれど写真の調整が思うように進まず、ユキナの意識はすぐにパソコンの画面へと引き戻された。
しばらくして、暗室の扉が開いた。
「ねえ、和人。これ今までやったの全部元に戻っちゃったんだけど、一つ前に戻す時ってどうやるの? 全然できないの」
和人が戻ってくるのを待ちかねていたユキナは、画面を指差しながら、少し疲れた声で尋ねた。
「ああ。ここをクリックすれば大丈夫だよ」
和人が示したところをクリックすると、画面がひとつ前の状態に戻った。
「本当だ、ありがとう! 良かった。焦ったー」
「ユキナずっと集中して作業してたけど大丈夫? 疲れてないか?」
「あ……。もう十三時過ぎてるんだ。疲れた! お腹すいたー!」
「じゃあ近くのラーメン屋行こ。美味しいとこあるんだ」
「わーい。行く行くー!」
二人は作業を切り上げ、並んで校舎を出た。
休日の学校は平日とは違って静まり返っていたが、校門を出ると、街には日曜日らしい賑わいが広がっていた。
ラーメン屋へ向かう道すがら、二人は取り留めのない話を交わしながら歩いていた。
その途中、和人がふと足を止めた。
「美佳」
呼びかけに応じて、少し先を歩いていた女性が振り返る。
その顔を見た瞬間、ユキナの胸がドクンと大きく脈打った。
和人は迷う様子もなく、彼女のもとへ駆け寄っていった。
「あ、和人――ユキナちゃんも。こんにちは」
美佳はユキナに気付くと、優しく微笑んだ。
「あ、こんにちは」
「ていうか、ごめん。二人でいたのね……。電話、完全に邪魔したよね」
美佳は二人の顔を交互に見て、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
――さっきの電話って、美佳さんだったんだ……。
「大丈夫か?」
「うん。まだまだこれからなのに、こんな弱気じゃダメだね」
美佳はそう言って笑った。
けれど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「無理だけはすんなよ」
「うん、ありがとう。じゃあね。ユキナちゃんも、バイバイ」
「あっ、はい。さようなら」
美佳は軽く手を振り、再び歩き出した。
二人はその場に立ったまま、彼女の後ろ姿が人混みに紛れていくのを見送った。
やがて和人がユキナに向き直る。
「ユキナ、この後どうする? 食べたらまた戻って作業する?」
何事もなかったかのような、いつもと変わらない声音だった。
その声を聞いた途端、胸の奥に押し込めていた感情が一気に込み上げてきた。
――どうして? 一言くらい彼女のことを話してくれたって……。
言いようのない不安が募る。
聞きたいことは山ほどあった。けれど、何から聞けばいいのかわからない。喉の奥が締めつけられ、言葉が出てこなかった。
和人の顔を見ることさえできない。
「ごめん。やっぱお腹すいてないや」
声が震えた。
ユキナは唇を強く噛み、俯いた。どうにか涙を堪えようとする。
「え? でも――」
「今日はもう、帰る」
思わず突き放すような言い方をしてしまい、すぐに後悔した。それでも、今は謝る気にも弁解する気にもなれなかった。
俯いたまま、頬を伝う涙を慌てて手の甲で拭った。
こんなところで泣きたくない。和人の前で、こんな姿を見せたくない。
そう思うほど、涙はとめどなく溢れてきた。
「ユキナ?」
和人が肩に手を置き、顔を覗き込んできた。
その瞬間、和人が息を呑んだ。
ユキナの頬は真っ赤になり、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「どうし――」
ユキナは勢いよく和人の手を振り払った。
強く振り払ってしまったことに、自分でも驚いて動きが止まる。
けれど、どうしても顔を上げられなかった。
これ以上ここにいたら、嫉妬に駆られた欲深い自分を晒してしまう。
ユキナは唇を噛みしめたまま背を向け、走り出した。
涙で前がよく見えない。
何度も手の甲で目元を拭いながら、行き交う人々の間を縫うように走り続けた。
一度も振り返らずに。
その日、和人からは何度か電話がかかってきた。けれど、結局一度も出られなかった。
和人はいつも優しく、自分を大切にしてくれる。
それなのに、目の前で美佳と交わした会話については、何も話そうとしなかった。話す必要すら感じていないような、その何気ない態度が悲しかった。
恋人として和人の隣にいるはずなのに、彼にとって自分は、本当の意味で、まだ恋人になれていないのかもしれない。
彼との間には、ずっとどこか踏み込めない距離があるように感じていた。まだ知らないことがたくさんあって、いつか彼の方から話してくれるのを、どこかで待っていた。
美佳と話す和人の方が、自分といる時よりもずっと自然に見えた。
隣にいるのに、何もわからない自分が惨めで、恥ずかしかった。
そんな嫉妬や不安に任せて、和人にあんな態度までとってしまった。
――和人は何も変わらず優しかったのに……。
自分の子供じみた振る舞いを思い返すたび、後悔と情けなさが込み上げる。
今はまだ、和人の声を聞く勇気がなかった。
何度目かの着信が途切れたあと、ユキナはスマートフォンの電源を切った。




