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第64章「それでも足りなくて」

 昼休み、ユキナはクラスメイトの朱莉と沙里と廊下を歩いていた。


 何気なく窓の外へ目をやると、一階の渡り廊下に和人の姿を見つけ、足を止めた。


 向かいに立っているのは、先日部室を訪ねてきた美佳だった。


 二人が何を話しているのか、ここからでは聞こえない。


 美佳が何かを言うと、和人が笑う。美佳もつられるように笑った。


 やがて美佳が踵を返し、和人に手を振る。


 和人も片手を上げて応えた。


 美佳が渡り廊下の向こうへ消えると、和人もその場を離れていく。


 ユキナはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


「ユキナー! 置いてくぞー」


 ハッと我に返る。


 いつの間にか先を歩いていた朱莉と沙里が、離れたところからユキナを呼んでいた。


「ごめんごめん!」


 ユキナは二人を追って駆け出した。


* * *


 放課後、ユキナが写真部の部室へ入ると、和人は窓際の机で自分のノートパソコンを開いていた。


「お疲れ」


「お疲れさま」


 和人はパソコンを閉じると、机の端へ置いた。


 ユキナは鞄を下ろし、部室に備え付けられた写真部用のパソコンを立ち上げた。


 今日は、学園祭の展示用にピックアップしておいた写真を、和人に見てもらいながら編集する予定だった。


「これが候補?」


 和人はすぐ横の椅子に腰掛けた。


「うん。とりあえず何枚か選んでみた」


 画面に並んだ写真を、和人が一枚ずつ確認していく。


「いいじゃん」


「まずこれからやりたい」


 ユキナは一枚を選び、画面いっぱいに表示した。


「もうちょっと明るくしたいんだけど、全体を明るくすると雰囲気まで変わっちゃうんだよね」


「それなら、全体じゃなくて暗いところだけ少し持ち上げてみたら?」


「暗いところだけ?」


「うん。ここ」


 和人が画面上の項目を指す。


 ユキナは言われた箇所を開き、マウスを動かした。


「あ、ほんとだ。こっちの方がいい」


「どのくらいまで上げるかは、ユキナの好みで」


「じゃあ……このくらい」


 昼休みに美佳と話していたのなら、先日彼女が部室を訪ねてきたことも、きっと聞いただろう。


 けれど、和人はいつもと変わらず、ユキナの写真を見ている。


「次、これ。空の青をもう少し綺麗に出したい」


「だったら彩度を上げるより、こっち触ってみるといいよ」


「へえ……」


 ユキナは教えられた項目を動かし、変化を見比べる。


「わあ。全然違う」


「やりすぎると不自然になるから、そこだけ気をつければ大丈夫」


「この辺、かな」


「うん。ユキナがいいと思うならそこだ」


 ユキナは画面を見つめ、小さく頷いた。


 結局、美佳のことを聞けないまま、二人は次の写真へ進んだ。


 それから何枚かの編集を終え、二人は部室を後にした。


 校舎を出る頃には、西日が長い影を地面へ落としていた。


 校門を抜け、二人で駅へ向かう。


 部活動を終えたあとの時間ということもあり、下校する生徒の姿はほとんどない。


 和人はいつもと変わらない様子で、ユキナの隣を歩いている。


 ユキナはしばらく黙って歩いたあと、隣の和人を見上げた。


「和人」


 ユキナの呼びかけに、彼は顔を向けた。


 ユキナは足を止め、その胸元へ抱きついた。


 一瞬遅れて、受け入れるように背中へ腕が回る。


 ユキナは胸元へ頬を押しつけ、和人の制服をきゅっと掴んだ。


 それでも足りないように、さらに深く顔を埋める。その勢いに押され、和人が数歩後ずさると、背中が公園のフェンスに触れ、かすかに金属音が鳴った。


 頭の上から、優しく笑う声が聞こえた。


「どうした? 今日は甘えんぼだな」


 顔を上げると、和人は穏やかな表情でこちらを見ていた。からかうような色はない。


「……だめ?」


「まさか」


 背中に回された腕が、ユキナを包むようにゆっくりと引き寄せる。もう片方の手が頭に触れ、ぽんぽんと優しく撫でた。


 やがてその手が頭から離れ、背中へと回る。両腕に包まれ、先ほどよりも身体が密着した。


 ユキナは再び和人の胸元へ頬を寄せ、目を閉じた。


 こんなふうに、自分から抱きつくことはなかった。


 和人は何も聞かずただ腕の中にユキナを抱いたまま、ときおり背中をゆっくりとさすっている。


 どのくらいそうしていただろう。


 ユキナが顔を上げると、和人は目元を柔らかく緩めた。


 すぐ近くで、薄い色の瞳がユキナを静かに見つめている。


 和人の指先が頬に触れ、そこにかかっていた髪をそっと耳へかけた。


 近い距離のまま、しばらく視線が重なる。


 それでも、和人はそれ以上近づいてこない。


――キス、してくれてもいいのにな。


 ユキナは再び和人の胸元へ顔を寄せた。


 背中に回された腕が、今度は少しだけ強くユキナを抱き寄せた。

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