↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/70

第63章「帰国」

 和人のメッセージを確認しながら、ユキナは階段を上った。


『進路のことで職員室にいる

部室の鍵開いてるから先入ってて』


 いつもの階まで上がり、廊下を進む。写真部の部室の前まで来ると、スマホを鞄へしまい、ドアノブに手をかけた。


 そのときだった。


「和人」


 部室の中から、見知らぬ女子生徒が和人の名前を呼びながら、入口まで走り寄ってきた。


「「えっ?」」


 ユキナと女子生徒の声が重なる。


「あ、ご、ごめんなさい……」


 女子生徒が焦ったように足を止めた。


「えっと……」


 何が起きているのか分からず、ユキナが戸口で口ごもっていると、女子生徒は恥ずかしそうに笑った。


「えへへ、間違えました……」


「あ、かず……東(あずま)部長なら今職員室に行ってて……」


「あ、そうなんだ。ごめんね、あなたは部員の人?」


「はい」


「そっか……鍵が開いてたからって、勝手に入ってごめんなさい。私、三年の度会美佳(わたらいみか)です」


「私は二年の和久井ユキナです。あの、部長に用事なら、もう少しで戻ると思うんで、座っててください」


「ありがとう。待たせてもらうね」


 美佳は近くの椅子へ腰を下ろした。ユキナも鞄を置き、いつもの席へ座る。


「和久井さんは、いつ入部したの?」


「私はまだ三ヶ月も経ってなくて」


「そうなんだ」


 美佳は微笑んだ。


「今日ここに来たのは――あ、私ね、和人と小学校からずっと同じ学校なんだけど、交換留学で二年間カナダ行ってたから、まさか写真部に入部してたなんて知らなくて、びっくりしちゃった」


「あ。昨日、朝の全校放送で帰国の挨拶してましたよね」


「そうなの。帰国したばかりだから、ちょっとした浦島太郎状態なんだ」


「ふふ、浦島太郎」


 ユキナは笑った。


「ほんと、玉手箱開けちゃった感じでさ」


 昨日の朝、教室のテレビに映っていた姿を思い出す。あのときは何気なく見ていただけだったので、顔まではよく覚えていなかった。


 改めて見ると、艶のある黒髪が胸元までまっすぐに伸び、切れ長の瞳を長い睫毛が縁取っている。すっと通った鼻筋に薄い唇、ほっそりとした輪郭も相まって、大人びた印象だった。制服姿でもすらりと伸びた手足が目を引く。


「クラスメイトに部員は和人だけって聞いてて……てっきり今入ってきたの、和人かと勘違いしちゃったの。驚かせてごめんね」


「いいえ」


「バスケやめたこともね、全く知らなくって。お父さん亡くなったことも――全然……」


 それまで明るく話していた美佳の声が沈んだ。視線を落とし、膝の上で重ねた手を見つめる。


「そうなんですか……」


 ユキナは言葉に詰まった。


 当時の和人の状況については、以前本人から聞いていた。けれど、父親を亡くした話なんて、気軽に他人へ話していいことではないと思った。


 一瞬、部室に沈黙が落ちる。


「和久井さんは、和人と付き合ってるの?」


 不意に顔を上げた美佳が、なんでもないことのように尋ねた。探るような様子はまるでない。

 

 あまりにも迷いなく聞かれ、胸が跳ねる。


「あ……はい」


 答えたのとほとんど同時に、美佳のスマートフォンから着信音が鳴った。


「あ、やばい」


 スマホに目をやりながら、美佳は慌てた様子で言った。


「彼氏が車で迎えに来てくれることになってたのに、すっかり忘れてた。今日はもう帰るね。急に来て勝手に入って、本当にごめんなさい。お邪魔しました」


 美佳は慌ただしく立ち上がり、スマホを耳へ当てた。


「あ……」


 ユキナも思わず席を立つ。


「もしもし、うん。すぐ行くね。そう、さっき終わって――……」


 電話に出ながらユキナに笑顔で手を振り、美佳はパタパタと駆け足で部室を後にした。


 開いたままのドアの向こうから、遠ざかっていく声がしばらく聞こえていた。


 やがてそれも聞こえなくなり、部室に静けさが戻る。


 ユキナは、さっきまで美佳が座っていた椅子へなんとなく目を向けた。


 小学校も中等部も一緒だったという美佳は、和人のことを当たり前のように名前で呼んでいた。それだけでも、昔から親しかったことは分かる。それに、和人が父親を亡くしたことを知ったときの、あの沈んだ表情。


 ユキナは、以前和人が話してくれた、高一のときまで付き合っていた彼女のことを思い出した。


 もしかして――。


 そこまで考えて、すぐに打ち消す。


 たとえ昔、和人と付き合っていたのだとしても、それは過去のことだ。美佳には今、迎えに来てくれる彼氏もいる。


 胸のざわめきを抑えようと、深く息をする。


 ドアを開けた瞬間、和人の名を呼んで、慌てた様子で駆け寄ってきた。よっぽど大事な用事があったのかもしれない。


――和人が戻ったら、伝えてあげなくちゃ。


 机の上に置いた自分の手へ目を落とす。


 胸の奥に引っかかったものは、すんなりとは消えてくれなかった。


 やがて、ドアが開いた。


「担任、話長すぎる」


 うんざりした表情で、和人が入ってきた。肩に掛けていた鞄を下ろしながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。


「お疲れ様」


 ユキナは和人に微笑みかけた。


 その笑顔につられ、和人も柔らかく目元を緩める。


「お疲れ。ユキナ、今来たの?」


 その場に立ったままのユキナに、和人は問いかける。


「あ、うん……。さっき」


 度会美佳という三年生の女子生徒が部室を訪れ、しばらく和人を待っていた。


 伝えるべきことは、それだけだった。


 けれど、名前を口にしようとした途端、さっきまで胸に残っていた引っかかりが蘇る。


 美佳が和人を名前で呼んだこと。

 小学校も中等部も一緒だったこと。

 和人の父親の話をしたとき、悲しそうに目を伏せたこと。


 結局、その名前を出せないまま、ユキナは視線を逸らした。


「とりあえず、この前のやつやっちゃおうかな」


 和人はそう言うと、机の上に置いてあった撮影済みのフィルムを手に取り、暗室へ向かった。


「あ、そーいや、学祭の展示作品どうする?」


 途中で振り返り、和人は何気なく尋ねる。


「うん……」


 わずかに噛み合わない返答に、彼は足を止める。


「ユキナ?」


 そのまま戻ってきた和人は、ユキナの前で身を屈め、顔を覗き込んだ。


 突然目の前に和人の顔が現れ、反射的に肩が揺れた。


「どうした。今日なんかあった?」


「ううん。ぼーっとしてた。ごめんね、何でもない」


 ユキナは笑顔を作った。


 近い距離のまま、彼は確かめるようにユキナの顔を見つめている。

 その視線から逃れるように俯いた次の瞬間、和人の腕が背中へ回った。


 ぐっと引き寄せられ、頬が胸元に触れる。


「なんかあったら、いつでも言えよ」


 耳元に落ちた声は、いつもと変わらず穏やかだった。


 背中を包む腕に力がこもる。もう片方の手が、髪を撫でるようにゆっくりと頭を滑った。


 強張っていたユキナの表情が、少しずつ緩んでいく。


「うん。ありがとう」


 ユキナも和人の背中へ腕を回した。


 胸に耳を寄せると、すぐ近くで鼓動が聞こえる。


 しばらくそのままでいると、和人がゆっくりと身体を離した。


 けれど、腕の中から解放されたのはほんの一瞬だった。


 今度は両手で頬を包まれ、顔を上げさせられる。


 和人は何も言わず、じっとユキナを見つめていた。


 近すぎる距離で目が合う。


 視線を外したくても、両頬を包まれているせいで顔ごと逃げることもできない。


 堪らなくなって目だけを逸らすと、和人の親指が頬をそっと撫でた。


「ユキナ」


 名前を呼ばれ、恐る恐る視線を戻す。

 目が合った瞬間、和人がふわりと微笑んだ。


「好きだよ」


「和人……。こんなの、無理」


「無理ってなんだよ」


 和人が笑う。


 ようやく頬から手が離れ、ユキナはすぐに両手で顔を覆った。


「恥ずかしい……」


「かわいい」


 頭の上から声が降ってくる。


「本当にかわいい」


 その手がまた髪を撫でたかと思うと、再び身体ごと抱き寄せられた。


 今度はさっきよりも深く、すっぽりと腕の中に包まれる。


 ユキナは隠れるように胸元へ顔を埋めた。


 頭を撫でる大きな手も、背中を抱く腕も、触れている身体の温度も、いつもと何も変わらない。


 さっきまで胸の内を占めていたものが、少しずつ遠のいていく。


――何も心配することなんてない。


 こんなにも真っ直ぐに向けられる彼の愛情を前に、勝手に不安になっていた自分が恥ずかしく、申し訳なさで胸が少しだけ痛んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。