第63章「帰国」
和人のメッセージを確認しながら、ユキナは階段を上った。
『進路のことで職員室にいる
部室の鍵開いてるから先入ってて』
いつもの階まで上がり、廊下を進む。写真部の部室の前まで来ると、スマホを鞄へしまい、ドアノブに手をかけた。
そのときだった。
「和人」
部室の中から、見知らぬ女子生徒が和人の名前を呼びながら、入口まで走り寄ってきた。
「「えっ?」」
ユキナと女子生徒の声が重なる。
「あ、ご、ごめんなさい……」
女子生徒が焦ったように足を止めた。
「えっと……」
何が起きているのか分からず、ユキナが戸口で口ごもっていると、女子生徒は恥ずかしそうに笑った。
「えへへ、間違えました……」
「あ、かず……東部長なら今職員室に行ってて……」
「あ、そうなんだ。ごめんね、あなたは部員の人?」
「はい」
「そっか……鍵が開いてたからって、勝手に入ってごめんなさい。私、三年の度会美佳です」
「私は二年の和久井ユキナです。あの、部長に用事なら、もう少しで戻ると思うんで、座っててください」
「ありがとう。待たせてもらうね」
美佳は近くの椅子へ腰を下ろした。ユキナも鞄を置き、いつもの席へ座る。
「和久井さんは、いつ入部したの?」
「私はまだ三ヶ月も経ってなくて」
「そうなんだ」
美佳は微笑んだ。
「今日ここに来たのは――あ、私ね、和人と小学校からずっと同じ学校なんだけど、交換留学で二年間カナダ行ってたから、まさか写真部に入部してたなんて知らなくて、びっくりしちゃった」
「あ。昨日、朝の全校放送で帰国の挨拶してましたよね」
「そうなの。帰国したばかりだから、ちょっとした浦島太郎状態なんだ」
「ふふ、浦島太郎」
ユキナは笑った。
「ほんと、玉手箱開けちゃった感じでさ」
昨日の朝、教室のテレビに映っていた姿を思い出す。あのときは何気なく見ていただけだったので、顔まではよく覚えていなかった。
改めて見ると、艶のある黒髪が胸元までまっすぐに伸び、切れ長の瞳を長い睫毛が縁取っている。すっと通った鼻筋に薄い唇、ほっそりとした輪郭も相まって、大人びた印象だった。制服姿でもすらりと伸びた手足が目を引く。
「クラスメイトに部員は和人だけって聞いてて……てっきり今入ってきたの、和人かと勘違いしちゃったの。驚かせてごめんね」
「いいえ」
「バスケやめたこともね、全く知らなくって。お父さん亡くなったことも――全然……」
それまで明るく話していた美佳の声が沈んだ。視線を落とし、膝の上で重ねた手を見つめる。
「そうなんですか……」
ユキナは言葉に詰まった。
当時の和人の状況については、以前本人から聞いていた。けれど、父親を亡くした話なんて、気軽に他人へ話していいことではないと思った。
一瞬、部室に沈黙が落ちる。
「和久井さんは、和人と付き合ってるの?」
不意に顔を上げた美佳が、なんでもないことのように尋ねた。探るような様子はまるでない。
あまりにも迷いなく聞かれ、胸が跳ねる。
「あ……はい」
答えたのとほとんど同時に、美佳のスマートフォンから着信音が鳴った。
「あ、やばい」
スマホに目をやりながら、美佳は慌てた様子で言った。
「彼氏が車で迎えに来てくれることになってたのに、すっかり忘れてた。今日はもう帰るね。急に来て勝手に入って、本当にごめんなさい。お邪魔しました」
美佳は慌ただしく立ち上がり、スマホを耳へ当てた。
「あ……」
ユキナも思わず席を立つ。
「もしもし、うん。すぐ行くね。そう、さっき終わって――……」
電話に出ながらユキナに笑顔で手を振り、美佳はパタパタと駆け足で部室を後にした。
開いたままのドアの向こうから、遠ざかっていく声がしばらく聞こえていた。
やがてそれも聞こえなくなり、部室に静けさが戻る。
ユキナは、さっきまで美佳が座っていた椅子へなんとなく目を向けた。
小学校も中等部も一緒だったという美佳は、和人のことを当たり前のように名前で呼んでいた。それだけでも、昔から親しかったことは分かる。それに、和人が父親を亡くしたことを知ったときの、あの沈んだ表情。
ユキナは、以前和人が話してくれた、高一のときまで付き合っていた彼女のことを思い出した。
もしかして――。
そこまで考えて、すぐに打ち消す。
たとえ昔、和人と付き合っていたのだとしても、それは過去のことだ。美佳には今、迎えに来てくれる彼氏もいる。
胸のざわめきを抑えようと、深く息をする。
ドアを開けた瞬間、和人の名を呼んで、慌てた様子で駆け寄ってきた。よっぽど大事な用事があったのかもしれない。
――和人が戻ったら、伝えてあげなくちゃ。
机の上に置いた自分の手へ目を落とす。
胸の奥に引っかかったものは、すんなりとは消えてくれなかった。
やがて、ドアが開いた。
「担任、話長すぎる」
うんざりした表情で、和人が入ってきた。肩に掛けていた鞄を下ろしながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「お疲れ様」
ユキナは和人に微笑みかけた。
その笑顔につられ、和人も柔らかく目元を緩める。
「お疲れ。ユキナ、今来たの?」
その場に立ったままのユキナに、和人は問いかける。
「あ、うん……。さっき」
度会美佳という三年生の女子生徒が部室を訪れ、しばらく和人を待っていた。
伝えるべきことは、それだけだった。
けれど、名前を口にしようとした途端、さっきまで胸に残っていた引っかかりが蘇る。
美佳が和人を名前で呼んだこと。
小学校も中等部も一緒だったこと。
和人の父親の話をしたとき、悲しそうに目を伏せたこと。
結局、その名前を出せないまま、ユキナは視線を逸らした。
「とりあえず、この前のやつやっちゃおうかな」
和人はそう言うと、机の上に置いてあった撮影済みのフィルムを手に取り、暗室へ向かった。
「あ、そーいや、学祭の展示作品どうする?」
途中で振り返り、和人は何気なく尋ねる。
「うん……」
わずかに噛み合わない返答に、彼は足を止める。
「ユキナ?」
そのまま戻ってきた和人は、ユキナの前で身を屈め、顔を覗き込んだ。
突然目の前に和人の顔が現れ、反射的に肩が揺れた。
「どうした。今日なんかあった?」
「ううん。ぼーっとしてた。ごめんね、何でもない」
ユキナは笑顔を作った。
近い距離のまま、彼は確かめるようにユキナの顔を見つめている。
その視線から逃れるように俯いた次の瞬間、和人の腕が背中へ回った。
ぐっと引き寄せられ、頬が胸元に触れる。
「なんかあったら、いつでも言えよ」
耳元に落ちた声は、いつもと変わらず穏やかだった。
背中を包む腕に力がこもる。もう片方の手が、髪を撫でるようにゆっくりと頭を滑った。
強張っていたユキナの表情が、少しずつ緩んでいく。
「うん。ありがとう」
ユキナも和人の背中へ腕を回した。
胸に耳を寄せると、すぐ近くで鼓動が聞こえる。
しばらくそのままでいると、和人がゆっくりと身体を離した。
けれど、腕の中から解放されたのはほんの一瞬だった。
今度は両手で頬を包まれ、顔を上げさせられる。
和人は何も言わず、じっとユキナを見つめていた。
近すぎる距離で目が合う。
視線を外したくても、両頬を包まれているせいで顔ごと逃げることもできない。
堪らなくなって目だけを逸らすと、和人の親指が頬をそっと撫でた。
「ユキナ」
名前を呼ばれ、恐る恐る視線を戻す。
目が合った瞬間、和人がふわりと微笑んだ。
「好きだよ」
「和人……。こんなの、無理」
「無理ってなんだよ」
和人が笑う。
ようやく頬から手が離れ、ユキナはすぐに両手で顔を覆った。
「恥ずかしい……」
「かわいい」
頭の上から声が降ってくる。
「本当にかわいい」
その手がまた髪を撫でたかと思うと、再び身体ごと抱き寄せられた。
今度はさっきよりも深く、すっぽりと腕の中に包まれる。
ユキナは隠れるように胸元へ顔を埋めた。
頭を撫でる大きな手も、背中を抱く腕も、触れている身体の温度も、いつもと何も変わらない。
さっきまで胸の内を占めていたものが、少しずつ遠のいていく。
――何も心配することなんてない。
こんなにも真っ直ぐに向けられる彼の愛情を前に、勝手に不安になっていた自分が恥ずかしく、申し訳なさで胸が少しだけ痛んだ。




