第62章「初めての一枚」
カフェを出て、二人は駅へ戻る途中にある公園へ立ち寄った。
遊歩道の両脇には木々が並んでいる。その向こうには小さな広場があり、子どもたちが遊具の周りを走り回っている。
風が吹くたびに枝葉が揺れ、隙間からこぼれる木漏れ日も、足元でゆらゆらと形を変えた。
ユキナは買ったばかりのカメラを手に、少し先を歩く和人の背中へ目を向けた。
「和人」
「ん?」
呼びかけに、和人が振り向く。
その瞬間、ユキナはカメラを構えた。
シャッター音が鳴る。
「え」
和人が目を瞬くのをよそに、ユキナは液晶画面を確認した。
そこには、振り向いた瞬間の和人が写っていた。和らいだ瞳には、優しい光が宿っている。
「うわ。こんな締まりのない顔してた?」
画面を覗き込みながら、和人は言った。
「いい顔」
「不意打ちはダメだって」
「言ったら、この顔撮れないじゃん」
「俺、デレデレしてんなあ」
ユキナはもう一度、画面を見る。
「初めて」
「え?」
しばらく眺めてから顔を上げ、ユキナは明るく笑った。
「初めてのカメラの、初めての一枚! 絶対和人がよかったんだ」
和人の目元が、一段と柔らかくなる。
「……かわいいなあ」
「え?」
「今の俺、さらにデレデレしてんだろうな。撮るなよ」
腕を引かれ、そのまま胸元へ抱き寄せられる。
ユキナは首に下げたカメラを和人にぶつけないよう、慌てて片手で押さえた。
背中に腕が回り、もう片方の手が髪をゆっくりと撫でる。
ユキナはその胸元へ頬を預け、そっと目を閉じた。
髪を撫でる手が心地よかった。
やがて、和人の腕がゆっくりと緩んだ。
髪に触れていた手も離れ、二人の間に元の距離が戻る。
「じゃあ、もう少し撮ってみようか」
「……うん」
ユキナはカメラを持ち直し、再び和人と並んで歩き始めた。
その後は、目についたものを気の向くままに撮って歩いた。
木漏れ日。遊具。水飲み場の蛇口から落ちる雫。ベンチの下で丸くなっている猫。
気になるものを見つけるたびに足を止め、ファインダーを覗いてシャッターを切る。撮ったあとは液晶を確認し、和人にも見せた。
うまく撮れたと思ったものほど、見返してみるとどこか違った。反対に、何気なくシャッターを切った一枚が気に入ることもある。
「難しい」
「だから面白いんだよ」
「和人は、最初からセンスあったんだろうな」
「いや、全然」
「ほんと?」
「ほんと。頭で思い描いたようには全然撮れなくて」
「最初の頃の和人の写真見たい」
「嫌だ」
「ずるい。私のは全部見てるのに」
「いいじゃん。全部見せてよ」
そう言って笑う、悪戯っぽい目元。ユキナはまた、彼の不思議な魅力に目を奪われた。
公園を一周したあと、二人は遊歩道の脇にひっそりと設置されたベンチへ腰を下ろした。
「楽しかった」
膝の上のカメラを眺めながら、ユキナは呟くように言った。
「俺も」
和人がそう言いながら足を組んだとき、ベンチに置いていた二人の手が触れた。
どちらからともなく手を繋ぎ、ユキナは和人の肩に頭を預ける。
少し前までは、こうして手を繋ぐだけで、どこに力を入れればいいのか、手のひらに汗をかいていないか――そんなことまで気になった。
けれど今は、触れた手から伝わる温もりに、胸の奥まで満たされていくような安らぎを感じている。
目を閉じると、頭上の木々の葉が擦れ合う音と、鳥の鳴き声が耳に届いた。街の喧騒は一つ向こうへ追いやられ、遠くで小さな子どもが母親を呼ぶ声がする。
「カメラ真剣に選んで、疲れた?」
優しい声に、ユキナはゆっくりと目を開けた。
頭を肩に預けたまま顔を上げると、和人がこちらを見て微笑んでいる。
「ううん。楽しくてすごく充実した一日だった」
「そっか。ならよかった」
「一緒にたくさん考えてくれて、ありがとう。和人のおかげで、とってもいいカメラに出会えた」
その言葉に、和人が微笑む。風にさらさらと揺れる髪は、木漏れ日に透けて金色に輝き、思わず見惚れてしまうほど綺麗だった。
「もうすぐ、学祭だから。ずっとカメラ持ち歩くことになるし、このタイミングで買えたのは良かったと思うよ」
「そうなの? 写真部は何するの?」
「写真の展示と、記録係。ひたすら撮影」
「へえ」
ユキナは膝の上のカメラへ目を落とした。
「ずっと持ち歩くなら、自分の手に馴染んだカメラの方が、絶対良いからさ」
「このストラップもついてるもんね」
ストラップを指先で触りながら、ユキナは嬉しそうにきゅっと肩をすくめた。
「俺の思ったとおりだった。すごく似合ってる」
「前から思ってたけど、和人ってセンスある。選んでくれたスマホカバーも可愛かったし、私服もお洒落だよね」
「そうかな。ありがとう」
「服、こだわりとかあるの?」
ユキナの視線が、和人の服へ向く。
白いTシャツに、袖をラフにまくった淡いブルーのデニムジャケット。カーキのワイドカーゴパンツを合わせ、足元は白のハイカットスニーカー。服装に合わせて、靴も選んでいるようだった。
まくった袖から覗く手首には、黒を基調にゴールドをあしらった大ぶりの腕時計。それも、主張しすぎることなく馴染んでいる。
一つひとつはシンプルなのに、色の合わせ方もシルエットのバランスも隙がない。何気なく着ているように見えて、洗練されている。
「うーん。ただ色とか素材とか、合いそうなの組み合わせてるだけかな」
「それ上級者の発言だよ」
「そんなことないって」
和人は笑う。
「ユキナも。今日すごく可愛いよ。この服装ユキナらしくて好き」
ユキナは、くすみがかったオレンジ色のTシャツに、白いデニムのショートパンツを合わせていた。少しゆったりしたTシャツは、裾のフロントをきゅっと絞って結び、腰には細身のベルトを締めている。
褒められたユキナは、はにかみながら足元へ視線を落とした。
「実はね……カメラ選びとはいえ、付き合ってから初めてのお出かけでしょ。デートだって思ったら、急に緊張しちゃって。昨日の夜から服が全然決まらなくて、途中からどれも変な気がして自信喪失してたの」
そう言ってから、和人を見上げた。
「だから、そう言ってもらえて嬉しいな」
あどけない微笑みだった。
和人は何も言わない。
数秒見つめ合ったあと、彼の視線がわずかに下がった。
唇のあたりに留まった気がして、ユキナの胸が跳ねる。
けれど、和人はすぐに視線を前へ戻し、ふわりと笑った。
「今度は、ちゃんとデートしような」
一瞬だけ行き場をなくした鼓動が、その言葉にまた弾んだ。
「うん!」
ユキナは繋いだ手を、ぎゅっと握る。
次の約束が、楽しかった今日の余韻となって残った。
* * *
ユキナと別れたあと、和人は駅から家までの道を一人で歩いていた。
駅前を離れるにつれ、人通りは少しずつまばらになっていく。傾いた陽が建物の隙間から差し込み、歩道に長い影を落としていた。
ふと、付き合い始めた日のことを思い出す。
――あの日は、完全にやらかした。
その自覚はあった。
見守ると決めてから、ずっと返事を待っていた。
だからユキナに気持ちを伝えられたとき、抑えていたものが一気に緩み、溢れた。
あの日のユキナに、和人の気持ちについてこられるだけの余裕がなかったのは明らかだった。
それなのに、独占欲を抑えきれず、行動に出てしまった。
そのことを、かなり反省している。
信号のない細い道を渡り、住宅街へ入る。駅前の賑わいはもう遠く、時折すれ違う自転車の走行音だけが、静かな通りを通り過ぎていった。
キスに頬を赤らめ、手を繋ぐだけでも呼吸を乱し、抱きしめれば身体を強張らせ、胸を叩く鼓動が伝わってくるほどだった。
彼女は何をするのも、はじめてなのだ。
一つ一つ、丁寧に、大切に重ねていきたいと思っていた。
それでも最近では、向こうから指を絡めてくることもある。
抱きしめても、以前のように身を固くしなくなった。腕の中へ素直に収まり、髪を撫でれば安心したように目を閉じる。
そんな小さな変化を見つけるたび、和人は嬉しくなった。
変わっていく彼女を一番近くで感じられるだけで、十分だと思っていた。
ふいに風が吹き抜ける。
和人はポケットに片手を入れたまま、ゆっくりと歩き続ける。
それでも、今日もうまくできた自信はない。
彼女の指先を頬に触れさせたとき、微かに震えていたことにも気づいていた。
顔を向ければそこにある無防備な唇に、触れたくて仕方なかった。
だけど、その気持ちを急いで叶えてはいけないとも思っている。
自分が一歩進めば、ユキナはきっと一生懸命受け入れようとしてくれる。
だからこそ、自分から先へ引っ張ってはいけないのだ。
不意に振り向いた自分を撮って、あんなふうに笑って、あんなことを言う。
そんな彼女が心の底から愛おしくて、何よりも大切にしようと、ひっそり胸に誓った。
住宅の塀に沿って歩きながら、和人はふと空を見上げた。淡い夕空には薄い雲が伸び、その端が傾いた陽を受けて明るく染まっている。
自分と一緒にいることで、無理をさせたくない。
隣にいるときくらいは、安心して笑っていてほしい。
長く伸びた自分の影を踏むように、家へ続く道をゆっくりと歩く。
これから先、時間はいくらでもある。
急ぐ必要なんてない。
こうして少しずつ、二人の時間を重ねていけばいい。




