第61章「自分の選択」
日曜日の午後、ユキナは駅前の家電量販店の前で、財布の中身をもう一度確認していた。
「カメラって結構するけど、予算、大丈夫そう?」
隣にいた和人の声に、ユキナは顔を上げた。
「うん。ちゃんと計算してきた」
そう答えて、財布を鞄にしまう。
「何度も心配そうに確認するからさ」
和人がおかしそうに笑った。
財布には、自分で貯めていたお金と、高校の入学祝いが入っている。
今日のために小遣いを貯めていたわけではないが、写真部に入ってからは、なるべく使わないようにしていた。
それでも、自分で貯めたお金だけでは、それなりのカメラには手が届かない。
そこで母の真子に、写真部で使うカメラを買いたいと相談したところ、部活で使うものならと、思いのほかすんなり受け入れてくれた。
「もう高校生なんだし、何に使うかは自分で決めなさい」
そう言って、これまで預かってくれていた入学祝いを、すべて手渡してくれたのだ。
「だってさ、こんな大金がお財布に入ってたこともないし、大きい買い物もしたことないから、緊張しちゃって」
「今ならまだ引き返せるよ」
「それは嫌」
間髪入れずに返すと、和人はまた笑った。
「じゃ、心変わりする前に行こうか」
自動ドアを抜けると、明るい店内に家電製品が所狭しと並んでいた。
案内表示を確かめることもなく、ユキナと並んで店内の奥へ進んでいく。その迷いのない様子から、彼がここをよく訪れていることがわかる。
いくつかの売り場を通り過ぎ、やがてカメラ売り場へ辿り着く。
メーカーごとに並んだ展示台には、カメラやレンズがずらりと並んでいた。
ユキナは思わず足を止めた。
見た目にはよく似た黒いカメラが何台も並び、その下には、細かな数字やアルファベットの記された札が付いている。
「……もうわかんない」
「まだ何も見てないよ」
「でも謎の暗号みたいなの並んでるし、全部同じに見える」
ユキナは展示台の端から端まで視線を滑らせた。機種名の横には、画素数やセンサーサイズ、聞き慣れない機能名が細かな文字で並んでいる。読んでみても、何がどう違うのかさっぱりわからない。
「大丈夫。最初は俺もそうだった」
和人は笑った。
「まず、先に決めようか」
「何を?」
「ユキナが一番重視したいことは何? 軽さとか、画質とか、操作のしやすさとか」
ユキナは展示台を眺めながら、少し考えた。
「持ち歩きやすいのがいい。学校にも持っていきたいし」
「撮りたいジャンルは?」
「景色も、人も。ジョンも――なんでも撮りたい」
「了解。あと、予算は本体に全部使い切る予定?」
「うーん……」
そこまでは考えていなかった。ユキナが首を傾げると、和人が言った。
「SDカードや予備バッテリーとか――必要なものは本体以外にも結構あるかな」
「あ、そっか」
「持ち運ぶつもりなら、カメラケースは今日買っといた方がいいし。手入れ用品とか、使ってるうちに欲しくなるアクセサリーも出てくると思う。もしあとからレンズが欲しくなったら、それなりの値段だしな」
「なるほど。それなら少し残したいかも」
「じゃあその範囲で見よう」
和人は展示台へ視線を移し、並んだカメラを順に見ていく。
「まずこの辺かな」
何台か並んでいる中から、和人は一台を手に取った。
「持ってみて」
差し出されたカメラを、ユキナは両手で受け取る。見た目から想像していたより、ずしりとした重みが手にかかった。
「……ちょっと重い」
「重さ気になる?」
「うん、ずっと持ってたら腕疲れそう」
「重さは結構重要だね」
ユキナは手元のカメラを眺める。
「でも、性能はいいの?」
「いいよ」
「迷う」
「まあでも、性能がよくても自分に合うとは限らないよ」
和人はユキナからカメラを受け取って展示台へ戻すと、隣にあった別の一台を手に取った。
「こっちはさっきのより少し軽い」
「あ、ほんとだ」
持ち替えただけでも、先ほどとの違いがわかる。
「構えてみて」
言われるまま、ユキナはカメラを顔の前まで持ち上げ、ファインダーを覗いた。展示棚や行き交う客の姿が、四角く切り取られた視界の中に収まる。
「どう?」
「さっきより楽」
「指、無理なく届く?」
「うーん。ちょっと負担かかるかも」
ユキナがカメラを台に戻したとき、不意に和人が足を止めた。
「どうしたの?」
その視線を追うと、少し離れた展示台に「新製品」と書かれた札が立っていた。
「これ、もう入ってるんだ」
先ほどまでユキナのカメラを見ていた時とは明らかに違う食いつき方で、和人は展示台へ近づいていく。
「欲しいやつ?」
「……欲しいやつ」
和人は新型のカメラを手に取った。
構えてファインダーを覗き、ダイヤルへ指を掛ける。背面の液晶を確認したかと思えば、今度はレンズを前へ向けたまま、いくつかのボタンを操作する。
さっきまでユキナに一つずつ説明していた時とは違い、その手に迷いはない。
ユキナは隣に立ち、夢中になってカメラを触る和人の横顔を眺めた。
「買わないの?」
「おお、簡単に言うねぇ」
「欲しいんでしょ?」
「欲しいけど、高いんだよ」
和人が示した値札へ目を落とした途端、ユキナは絶句した。
「……えっ」
「な」
「カメラって、ここまでのものもあるの?」
「ピンキリだよ」
和人は名残惜しそうに、もう一度ファインダーを覗き、シャッターを切る。
「やっぱいいなあ……」
「すごい?」
「すごい」
「何が?」
「話すと長くなるけど聞く?」
「あはは! やっぱり和人、写真おじさんの素質超あるじゃん」
「やめろ」
和人は笑いながら、ようやくカメラを展示台へ戻した。手を離してからも、ほんの少しだけ未練が残ったように視線を向ける。
「危なかった。今日はユキナのカメラ買いに来たんだった」
「忘れないでよ」
「はは。ごめん、切り替える」
それから何台かを実際に手に取り、重さや握りやすさ、操作のしやすさを確かめながら、予算に収まるものへ候補を絞っていった。
最初はどれも同じに見えていたユキナにも、触り比べているうちに少しずつ違いがわかってきた。わからないことを尋ねれば、和人は専門用語を並べるのではなく、ユキナにもわかる言葉に置き換えて説明してくれる。
どれか一台を強く薦めることも、代わりに決めてしまうこともしなかった。
最後の二台まで候補を絞ると、ユキナは何度も持ち比べ、最後は自分の手にいちばん馴染んだ方を選んだ。
小ぶりで軽く、標準ズームレンズを付けても持ち歩くのにそれほど負担にならない。グリップを握ればシャッターボタンにも無理なく指が届き、ファインダーを覗いた時の感覚も、こちらの方がしっくりきた。
「これにする」
「うん。ユキナにはこれが一番合ってると思う」
初心者でも扱いやすく、慣れてくれば自分で細かく設定を変えながら撮ることもできる。セットになっているレンズなら、景色から人まで幅広く撮れる。これから撮りたいものが増えれば、用途に合わせてレンズを交換していくこともできると、和人は教えてくれた。
カメラを決めたあとは、SDカードと予備のバッテリー、それから鞄に入れて持ち歩けるよう、クッションの入ったカメラケースも一緒に選んだ。
会計を済ませる間、財布から何枚もの紙幣が消えていくのを見ている時だけは、少し心細くなった。
けれど、箱の入った紙袋を受け取った途端、そんな気持ちはどこかへ飛んでいった。
大切そうに紙袋を抱え、ユキナは和人と店を出た。
「買っちゃった……」
ユキナは紙袋の中を覗く。
「私のカメラ」
嬉しそうな笑顔で和人を見上げる。
「これから、たくさん使おうな」
和人も笑みを返す。
「うん!」
そう返した途端、箱に入れたまま家まで持って帰るのが、急にもったいなく感じられた。
「……どっか寄って試す?」
その気持ちを見透かしたように和人が尋ねると、ユキナは満面の笑みで頷いた。
「じゃあ、その前にちょっと休憩しようか」
「うん」
二人は駅近くのカフェへ入った。
木目を基調とした明るい店内には、黒いフレームの照明や家具が並び、壁際には観葉植物が置かれている。遅めのランチを取る客や、飲み物を片手に話す人たちが思い思いに過ごしていた。
レジで飲み物とモンブランケーキを注文し、商品を受け取ると、空いていた二人掛けの席に腰を下ろした。
席についてからも、ユキナは足元に置いた紙袋が気になって仕方がない。ちらちらと視線を落としているうちに、とうとう我慢できなくなった。
「ねえ、開けていい?」
「好きにしていいよ、ユキナのなんだから」
和人はそう言って笑った。
ユキナは早速箱を開け、買ったばかりのカメラを取り出した。
和人からバッテリーの入れ方を聞き、底面のカバーを開けて中へ収める。電源を入れて液晶画面が点いた瞬間、それだけで頬が緩んだ。
「わあ、ついた」
感動をそのまま顔に浮かべ、和人を見る。
「なんか嬉しい」
和人は微笑みながら、液晶画面を覗き込んだ。
「でも、バッテリーあんまり残ってないな」
「今日、撮れる?」
「少しくらいなら大丈夫だと思うけど――あ、ここ」
和人がテーブルに備え付けられたUSBポートを指した。
「これなら充電できる。かなりラッキーだよ」
和人に言われた通りにカメラの電源を切り、ケーブルを繋ぐ。しばらくすると、本体の充電ランプが点灯した。
「休んでる間に、少し充電しとこうか」
飲み物を飲み、ケーキを食べながら和人と話している間も、ユキナの視線は何度となくカメラへ向かった。
「気になってますね」
「早く撮りたい」
「もうちょっと待とうな」
飲み物を飲み終える頃には、しばらく撮影を楽しめるくらいには充電できていた。
USBケーブルを抜き、教えてもらいながらレンズを取り付ける。続いてSDカードを挿入し、電源を入れた。
画面に表示される項目を一つずつ確認しながら、ひとまず撮影に必要な最低限の設定だけを済ませていく。
「これですぐ撮れる?」
「撮れるよ」
ユキナはカメラを両手で持ち、改めて眺めた。
初めて自分のものになった一台。
ついさっきまで店頭に並ぶ何台ものうちの一つだったはずなのに、自分だけのカメラになったと思うと、手に伝わる重さまで特別に感じる。
グリップを握り直していると、ふいに和人が声をかけた。
「それと、はい。これ」
顔を上げると、和人が細長い透明のパッケージを差し出していた。
中には、カラフルなロープのようなものが束ねられている。
「えーと……これは?」
「カメラのストラップ。なんかこれ、ユキナに似合いそうだなって」
「開けてもいい?」
ユキナが尋ねると、和人は手のひらを差し出し、「どうぞ」のジェスチャーをした。
開封してよく見ると、何色もの糸を編み込んだロープの両端には、本革のパーツがあしらわれている。鮮やかな色をいくつも使っているのに派手すぎず、革の落ち着いた質感が全体を引き締めている。どんな服にも馴染みそうな、洗練されたデザインだった。
「可愛い……!」
ユキナは感激して言った。
「ありがとう、和人。すっごく嬉しい」
「俺もここの使ってるんだけど、ロープが柔らかいから、長時間掛けてても首に負担かかりにくいよ」
「確かに、和人のカメラ借りたとき、首が楽ちんだった」
「でしょ。革の部分はかなり丈夫だし、使ってるうちに馴染んでくるんだ。色とか艶も少しずつ変わってくるから、長く使うと新品の時とはまた違った味が出てくるよ」
「長く使えるように、大切に使うね」
ユキナはもう一度、じっくりとストラップを眺めた。
「早速付けてみたい」
「もちろん」
ユキナはカメラにストラップを取り付け、首に掛けてみた。先ほどまで以上に、自分のものになったような気がする。
再び首から外してテーブルに置くと、今度はスマホを取り出し、何枚も写真を撮った。
そんなユキナの様子をしばらく見守ると、和人は再び紙袋へ手を伸ばした。
「あと、これも」
「え、何?」
差し出されたものを受け取り、袋から取り出す。
「わあ、可愛い。スマホカバーだ」
「ユキナ、あいつとお揃いだろ」
和人はそう言うと、テーブルの上に置かれたユキナのスマホを指差す。
「あ、確かに……」
「この前あいつがスマホいじってんの偶然見かけて」
いつもよりわずかに低い声だった。
「マジかよって、さすがに少しイラッとした」
ユキナは自分のスマホに目をやる。
――そうだった。見慣れすぎていて、意識すらしていなかった。
「ごめんなさい。中学からずっと同じカバーで……。特に深い意味は――」
「うん。深い意味ないなら、これつけといて欲しい」
ユキナは大きく頷いた。
「とはいえこれは俺が押し付けただけだから、とりあえずってことで。趣味とかあるだろうし、他に欲しいデザインあったら改めて教えて」
「ううん。これ、すごく可愛いよ」
テーブルの上に置かれたユキナの手に、和人の指先がそっと触れた。指先だけで摘まむように、人差し指をひとつ捕まえる。
そのまま指の腹でゆっくりとなぞりながら、隣の指との隙間へ滑り込んでいく。
一本、また一本と絡め取るように指を差し入れ、最後には手のひらまでぴたりと重なった。
もう片方の肘をテーブルにつき、腕に頭を預けるようにしてユキナを見つめる。
わずかに眉尻を下げ、小さくため息をついた。
「ごめんな、ユキナ。俺……自分がこんなに嫉妬深いやつだとは思ってなかった。みっともないのも、勝手なのも自覚してる」
ユキナは首を横に振る。
「そんなことない。ごめんなのは、私のほう。何も考えてなかった」
「いや。付き合う前から使ってたものだし、本来持ち物のことまで俺が口出すようなことじゃない」
「でも、嫌だったんでしょ?」
「……嫌だった」
素直に認めて、和人はまた小さく息を吐いた。
「めちゃくちゃ嫌だった。だから替えてくれたら、すげえ嬉しい……です」
ユキナは手元の新しいスマホカバーへ視線を落とした。
「私が気に入ったから、私が、このカバーに替えたい」
そう言って、スマホからカバーを外し、新しいものへ付け替えた。
両手で持ち上げ、表と裏を確かめるように眺めると、口元がみるみるほころんでいった。
「えへへ。可愛い」
無邪気に笑って、嬉しそうに和人を見る。
スマホを置いたユキナの手に、再び彼の手が触れる。
腕に頭を預けた気だるげな姿勢のまま、ユキナの手をゆっくりと引き寄せ、自分の頬へ当てる。
「……うん」
零れた彼の声は掠れ、ひどく甘かった。
「ありがとう」
和人はそう言うと、伏せていた視線をゆっくりと持ち上げ、やがてユキナをまっすぐに捉えた。
細められた瞳には、どこか焦がれるような熱さがあった。いつもとは違う、悩ましげな色気を纏っている。
どくん、と胸が鳴る。
思わず目を逸らしかけて、でも、逸らせない。頬から耳まで、じわじわと熱くなっていく。
樹に朝起こされていたことを話した時でさえ、彼は嫌だとはっきり口にしながらも、涼しい顔で、どこまでも平然としていた。
そんな彼に、こんな眼差しを向けられたのは初めてだった。
今まで知らなかった彼の顔を引き出しているのが自分なのだと思うと、胸の奥がどうしようもなく騒いだ。
しばらくして、和人がゆっくりと瞬きをした。
頬をそっと離し、ユキナの手をテーブルへ戻した。
「行こっか」
柔らかくそう言った和人には、いつもの落ち着いた笑顔が戻っていた。
ユキナは黙ったまま頷く。
胸はまだ、うるさいほど鳴っていた。




