第60章「信号を待ちながら」
学校の最寄り駅を出ると、改札から吐き出された生徒や会社員が、駅前の歩道へ次々と散っていく。ロータリーにはバスが滑り込み、開いたドアから降りてきた人たちが足早に駅へ向かっていた。
その向こうを歩く和人の後ろ姿を見つけて、ユキナの足取りが自然と速くなる。
行き交う人の間を抜けて追いつき、後ろから声をかける。
「和人、おはよう」
呼びかけに、和人が振り返る。ユキナを見ると、その表情は和らぎ、歩調がゆるやかになった。
「おはよう」
「今日は会えた」
呼吸を弾ませながら嬉しそうに言うユキナに、和人の表情は更にほどけていく。
「最近、会うね」
「うん!」
答えながら、ユキナは少しだけ得意になる。
朝、特に約束をしているわけではない。
それでも、なんとなく和人に会えそうな時間を狙って家を出る努力はしている。もっとも、会えない日の方が多い。今日のように駅を出たところで見つけられれば、かなり運がいい方だ。
朝が苦手なユキナにしてみれば、自力で起きて、以前より少し早い電車に乗れるようになっただけでも大きな進歩だった。
「最近、朝強くなったんだよ」
胸を張って言う。
「そうなんだ」
「そう。アラーム鳴ったらちゃんと起きてる」
和人は何かを確かめるように、その横顔を見つめる。
「何回目で?」
「……一回」
和人が顔を覗き込んでくる。
「間が怪しいな?」
「いいじゃん、会えたんだから」
「じゃあ、そういうことにしとこうか」
口元に笑みを浮かべた和人の腕を、ユキナは軽く叩いた。
「本当に前より起きられるようになったんだから」
「そっか。急に朝強くなるなんて、なんかあったの?」
何気なく投げられた問いに、ユキナは言葉に詰まる。
しっかり自分で起きなければと思えるようになったのも、朝、時間を気にして行動するようになったのも、和人と少しでも一緒に歩きたいと思っているからだ。
沈黙しているユキナを、和人はしばらく見つめていた。
「ああ」
思い当たったような声が隣から落ちてくる。
「理由、俺か」
「……うん、まあ」
観念して認めると、和人の目元がわずかに緩む。
「赤いよ」
和人に言われて、反射的に頬を手で覆った。
「だから――私、すぐ赤くなるの。そこは触れないでってば」
「可愛い」
間髪入れずに返され、ますます顔が熱くなる。
「もう、やめて」
ユキナは和人から顔を背け、そのまま少しだけ歩調を速めた。けれど、すぐ隣から離れられるほどの差はつかない。和人は何事もなかったように同じ歩幅でついてくる。
駅前の賑わいから離れるにつれ、歩道には同じ制服を着た生徒が増えていく。登校する生徒たちの話し声に、道路を走る車の音が重なっていた。
「俺、登校時間ユキナに合わせられるよ」
さらりと言われ、隣を見上げた。
和人は特別な提案をしたつもりもないらしく、いつもと変わらない顔で歩いている。
ユキナは小さく首を振る。
「ううん。私、前より起きられるようになったとは言え、この時間って約束しちゃうと、迷惑かけることばっかりになると思うから」
「待つくらいかまわないけど」
「ダメ。朝からそんな負担、かけられないよ」
和人はそれ以上押さず、少し考えるような表情を浮かべた。
「幼馴染と登校してるときは、朝どうしてたの?」
「ああ、それは……間に合うように叩き起こされてた、かな……」
言いながら、ユキナの声が次第に小さくなる。
「誰に?」
「ママとか、姉にもはじめは起こされるんだけど、起きないときは、たつが……」
和人の足取りは変わらなかった。
ただ、それまでユキナへ向いていた視線が、すっと前へ戻る。
「それはかなり嫌だな」
思いのほか率直な言葉が返ってきて、ユキナは和人の横顔を見上げた。
「うん……。ごめん」
「別に謝ることはないよ。ただ俺が勝手に妬いてるだけ」
嫉妬しているなんてことまで、こんなにも自然に、爽やかに口にできてしまう。
この人は、どうしてこんなにも感情に振り回されることがないんだろう、と、ユキナは歩きながらぼんやり考えていた。
横断歩道の手前まで来たところで、信号が点滅し始めた。前を歩いていた何人かが、そのまま渡り切ろうと小走りになる。
ユキナもつられて足を速めようとしたところで、肩に軽く手が触れた。
「次でいいよ」
和人に引き留められ、二人だけが歩道に残る。目の前で信号が赤へ変わり、渡り切った生徒たちの背中がそのまま遠ざかっていった。
「行けたのに」
ユキナが名残惜しそうに向こう側を見る。
「朝から走りたくない」
「おじいちゃんみたい」
からかうように見上げても、和人は気にした様子もない。
「急ぐ意味、ある?」
そう言って、和人はユキナの肩に置いていた手を滑らせると、何でもないことのように彼女の手を握った。
不意に体温が伝わり、ユキナは繋がれた手へ目を落とす。
「俺は少しでも一緒にいたいと思ってるよ」
「また……そうやって――」
抗議しかけた声が、途中で弱くなる。
「本心だよ」
ユキナは和人を見上げた。
和人もこちらを見ていた。
繋いでいない方の手が伸びてきて、指先がユキナの頬に触れる。逃げる間もなく、指の背が熱を確かめるようにそっと肌をなぞった。
「熱い」
「和人、本当、ダメ」
ユキナは身を縮めるようにして周囲へ視線を走らせた。
「何が」
「人前だし――私の心臓もたないから」
赤信号の向こうでは、先ほどまで近くを歩いていた生徒たちが遠ざかっていく。後ろから来る人影もちょうど途切れ、ほんの短い間だけ、二人の周囲から登校時間の人波が抜け落ちていた。
「今誰もいないよ。少し触れるくらいいいじゃん」
そういう問題ではない、と言いたいのに、頬に触れられたままではうまく言葉が出てこない。
何も言えずにただ視線を泳がせていると、やがて信号が青へ変わった。
「あ、ほら。早く渡ろ」
ほっとしたようにユキナは言い、和人の手を引くように横断歩道へ踏み出す。
白線を二つほど越えたところで、まだ頬に残っている感触を振り払うように口を開いた。
「和人、私のこといじめるの好きだよね」
「人聞き悪いな」
隣を見ると、和人は涼しい顔で前を向いている。
「和人って、実はかなりのSだよ」
「はは。急にすごいこと言うな。そんなことはないけど、そもそも、ユキナが可愛いのがいけないんだよ」
結局また同じところへ戻され、ユキナは繋いだ手を小さく揺らした。
「……そういうこと言うの、禁止」
「ねえ。わかってほしいんだけど。俺、これでも結構抑えてる」
先ほどまでの笑いを残しながらも、声は落ち着いている。
「じゃあ、もっと抑えなきゃダメ。人前なんだから」
「わかったよ」
ようやく引いてくれたらしい。ユキナがほっと息をつく。
その横で、和人が耳元に近づいてきて、不意に言った。
「人前じゃなかったら?」
「もう! 和人」
和人はそんなユキナを見て笑った。
歩道を埋める制服の数が増えていく。前後にも同じ学校の生徒が絶えず続き、二人の時間は少しずつ朝の雑踏へ溶けていく。
「そうだ」
「ん?」
ユキナが口を開くと、和人は彼女の方へ顔を向ける。
「私、自分のカメラが欲しくて」
「お、ついに」
思った以上にすぐ反応が返ってきて、ユキナも和人の方を見る。
「今までは、部のやつとか、たまに和人に借りたりして事足りてたんだけど――最近、自分のカメラあったらいいなあって思うようになって」
話しながら、ユキナは空いている方の手で鞄の肩紐を握り直した。
「うん。いいと思う。目当てのメーカーとか機種はあるの?」
「そこなの」
ユキナは困ったように眉を下げる。
「そこが問題なの。全くないの、そういうの」
「まあ、最初はそうか」
和人は少し考えるように視線を前へ戻した。
「だから、良かったら次の週末、予定空いてたらカメラ選ぶの手伝ってくれないかな」
「もちろん。日曜日ならバイトないよ」
迷う間もなく返ってきた答えに、ユキナの表情が明るくなる。
「良かった。じゃあ、日曜日お願いします」
やがて校門が見え、繋いだ手のすぐそばを何人も通り過ぎていく。
和人が二人の手元へちらりと視線を落とした。
「手、離したほうがいい?」
ユキナもつられて見下ろす。
「……まだ大丈夫」
繋いだ指先に少しだけ力を込め、そのまま前を向いた。
昇降口は、登校してきた生徒たちで混み合っていた。ざわめきの中、それぞれの靴箱へ向かうため、二人はようやく手を離した。
ユキナは上履きに履き替え、靴箱の間を抜けて廊下へ出る。
昇降口を出た廊下の先で、既に靴を履き替えた和人が待っているのを見つけ、ユキナはそちらへ向かって歩き出した。
そのとき、友人と話しながら靴箱の並びから出てきた樹と、ちょうど鉢合わせた。
「ユキ」
こちらに気づき、声をかけてきた。
「お前、これ」
樹が差し出した手の中に、小さな鍵があった。ふわふわとした丸いフェイクファーのキーリングが、指先から揺れている。
「え。あれ?」
見覚えのあるそれを見て、ユキナは慌てて鞄を開く。内ポケットの中へ手を突っ込み、探る。
「鞄に入れたつもりだった!」
「ママから。テーブルに置きっぱだったってよ」
樹は呆れたように鍵をひと揺らしする。
「ありがとう」
ユキナは差し出された鍵を受け取った。
「今日、夜まで誰もいねえって言われてたんだろ? 忘れてんじゃねえよ」
「ごめん。そうなの! 本当助かった」
鍵を鞄の内ポケットへしまうユキナを確認してから、樹は短く言った。
「じゃあな」
樹がその場を離れようとしたとき、ふとその視線が廊下の先へ向いた。
そこに立つ和人に気づくと、ほんの一瞬だけ視線を止め、何も言わずに友人とともに廊下を歩いていった。
「家に入れないところだった」
ユキナは鞄の内ポケットをもう一度押さえた。
「危なかったな」
穏やかな表情で、和人が声をかけてきた。
「うん。助かった! 行こ」
ユキナはすぐに歩き出した。
和人もその隣へ並ぶ。
昇降口から、絶えず人が流れ込んでくる。廊下を歩く生徒たちに押されるように、二人もその流れに混ざっていった。




