第59章「うつろう季節の中で」
休日の街は、どこを見ても人で溢れていた。
大きな改札を抜けた先では、旅行鞄を引いて歩く観光客、家族連れや腕を組んだ恋人たち――いくつもの人の流れが絶え間なく交差している。頭上の大型ビジョンから流れる音楽に街の雑踏が重なり、ざわめきの途切れる瞬間がない。
ユキナは向かってくる人を避けながら、その流れを縫うようにして足早に出口へ向かった。
駅前の広場に着いて辺りを見回すと、待ち合わせの目印にしていた銅像から少し離れたところに、見慣れた姿を見つける。
「紗江!」
駆け寄りながら手を振ると、スマートフォンを見ていた紗江が顔を上げた。
「ユキナ」
ぱっと表情を明るくして、彼女もこちらへ手を振り返す。
「ごめん、待ったよね」
「私もゆっくり来たから、そんな待ってないよ」
「マジでごめん」
「本当に五分も待ってないんだ。なんとなくユキナが来そうな時間を計算して出たから」
それを聞いたユキナは、紗江をぎゅっと抱きしめた。
「読まれてる。さすが私の保護者様。いつもご迷惑をおかけしてます」
紗江はにっこりと微笑む。
「ふふ。なんか久しぶりだね。こうやってユキナと街中で会うの」
「紗江、最近ずっと看護の予備校忙しかったもんね。学校では話したいときに限って時間なかったし。私は私で写真部の用事あったりで」
ユキナが言うと、紗江は頷く。
「ことごとくタイミング合わなかったよね。だから、やっと予定合って嬉しい」
「毎日お疲れ様。今日は時間大丈夫なんでしょ?」
「うん。今日は何もない」
「じゃあいっぱい話そ」
ユキナは紗江の腕を両手で掴んだ。
「うん」
二人は並んで歩き出した。
学校の最寄り駅周辺で放課後に寄り道することはあっても、休日に待ち合わせをして、二人で街に出るのは本当に久しぶりだった。
駅前から続く通りには、大きな商業施設やファッションビルが立ち並び、見慣れたブランドのロゴがいくつも目に入る。
「そういえば今日、会って話すってことしか考えてなかったからノープランだったけど、どっか見るよね?」
歩きながら、紗江が言った。
「うん。服見たい」
「いいね、私も見たい。あと、コスメ」
「紗江長いやつだ」
「ユキナも服選ぶの長いじゃん。前、トップス二枚で何分悩んでた?」
「いや、あれは迷うって」
「でも同じ服だったよ」
「色が違ったら、それはもう別の服なの」
交差点を渡ったところで、紗江が言った。
「とりあえず、先になんか食べない?」
「賛成。お腹空いたー!」
「何食べたい?」
「あっつあつのチーズな気分」
「あ、それならこの前予備校帰りに、良さそうなところ見たよ。この先のカフェ。おいしそうなグラタンの看板あった」
「最高。行こ」
大通りから一本脇道へ入ると、車の音が少し遠のいた。代わりに店先から流れる落ち着いた音楽や、すれ違う人々の話し声が近くなる。細い通りには、衣料品店や雑貨店、小洒落たカフェが肩を寄せるように並んでいた。
ショーウィンドウには、薄手のニットにジャケット、足元にはブーツ。その落ち着いた色合いを眺めていると、まだ夏の気配が残る街並みから、ガラスの向こう側の世界だけが、切り離されているように見えた。
「あ、これ可愛い」
ユキナがガラス越しにディスプレイされたバッグを指差す。
「ほんとだ。あとで見よ」
「紗江、覚えといて」
「自分で覚えててよ」
「私、絶対忘れるからさ。頼んだ紗江」
「もー」
紗江は呆れたように笑った。
そんな他愛もないやり取りをしながら、店先を覗いては、小さな笑いが起きていた。
目当てのカフェは、その細い通りに面したビルの二階にあった。
歩道に出された立て看板には、紗江の言った通り、こんがり焼き色のついたチーズがかかったグラタンの写真が大きく載っている。ユキナはそれを見た途端、ますます空腹を自覚した。
階段を上がって扉を開けると、食器の触れ合う音や、落ち着いたジャズの旋律、客たちの話し声が耳に届いた。
「あー良い匂い」
ユキナは店内に漂う匂いを余すことなく取り込むように、鼻から大きく息を吸い、お腹をさすった。
二人は窓側の席へ案内された。
「なんかもう既に、超楽しい」
ユキナは鞄を隣の椅子へ置き、腰掛けながら言った。
「ね。まだどこも入ってないのにね」
「このあときっとたくさん歩くよね。帰る頃、絶対足痛くなってる」
「そう思って今日はスニーカーで来た」
紗江は自分の足元を見ながら言った。
「さすが紗江。準備がいい。私なんて何も考えずにパンプスで来ちゃった」
テーブルの端に立てられていたメニューを手に取り、二人で眺める。写真の並んだページをいくつか捲ったところで、ユキナの指がぴたりと止まった。
「これにする」
ユキナは即決した。
「もう決まったの? 服選ぶときと大違い」
「グラタンと迷ったけど、これめっちゃおいしそうだから、このチーズドリアにする。あと、フルーツパンケーキ」
「食後のデザートまで決めたの?」
「ううん、パンケーキはデザートじゃないよ。これもごはん」
「二つとも一緒に食べるの?」
「そうだよ。甘いものも食べたいじゃん」
「食後でいいじゃん」
紗江は笑う。
「甘いのとしょっぱいの、交互に食べたいの」
「さすがです」
まだクスクスと笑っている。
「紗江は?」
「うーん。私は、このピザセットにしようかな」
注文を済ませ、店員が離れていく。
ユキナはテーブルの上で両手を組んだ。
「やっとゆっくり話せるね」
「うん」
「メッセじゃ、詳しくは聞けなかったし」
ユキナは向かいに座る紗江をじっと見る。
「うん。大杉くんと、話せた。ちゃんと」
「良かった」
ユキナは小さく息を吐いた。
「心配してくれて、ありがとう」
紗江は穏やかに笑った。
その表情に、中庭で見たような張りつめたものは見えなかった。
「大杉くんの、正直な気持ち。包み隠さず全部話してくれた」
「そっか……。全部」
「うん。全部」
全部、という言葉が、何を含んでいるのかはわかっている。
樹と紗江が話した日の夜、紗江からはすぐに連絡が来ていた。そのときユキナは、紗江に口止めされていたのに、樹に話してしまったことをまず謝った。
紗江は何も咎めず、樹と話せたこと、もう大丈夫だということを教えてくれた。
短いやり取りだけでも、あの日泣いていた紗江を知るユキナには、十分安心できる報告だった。
それでも、顔を見てちゃんと聞きたいと思っていた。
「大杉くんから、今までのこと謝られたんだけどね」
「うん」
「もう謝らないでって怒っちゃった」
「そう……」
「自分が選んだことだから」
紗江は手元へ視線を落とす。
「好きになったのも、一緒にいたいって思ったのも、私だから。急に返信がなくなったり、避けられてるなって感じたときは、やっぱり悲しかった。でも、それも私自身の選択の結果なわけだし」
「紗江……。そっか」
「悲しいだけじゃなかったから」
紗江は顔を上げた。
「楽しかったことも嬉しかったことも数えきれないくらいあった。そんな幸せな時間ごと、謝られたくなかった」
ユキナは静かに頷いた。
「だから、自分が言いたかったことはちゃんと言えたかな」
「そっか」
「うん」
「紗江がたつとちゃんと話せて良かった。今日の紗江の表情見て、本当にもう大丈夫なんだなって、安心した」
「ごめんね」
「なんで謝るの」
「たくさん心配かけたなって」
「そんなことない」
ユキナが何気なく目をやった窓の向こうでは、建物のあいだを縫う細い通りを人が絶えず行き交っている。
「じゃあ、今度はユキナの番」
紗江の言葉に、視線を戻す。
「あ、うん。たつから全部聞いたなら、知ってると思うけど――」
ユキナは一度言葉を切った。
「たつには、付き合えないって伝えた」
「うん」
「私が好きなのは、和人だってことも」
「うん」
「たつは私にとって、周りの友達とは違う、特別な存在だった。物心ついた頃からずっと一緒にいたから、一言じゃ言い切れないくらい、いろんな感情がある。もちろん、愛情だってある。その愛情がどういうものなのかは、自分でも完全には言語化できないんだけど」
頭の中にあるものをひとつずつ拾い上げるように、ゆっくりと言葉を探す。
「たぶん、家族愛に近いんだと思う。でも、家族って片方がそう思ってるだけじゃ成立しないから。たつの気持ちを知ってしまった以上、今まで通りではいられないし、この先、少しずつ距離もできていくんだと思う」
口にしてみると、それは思っていたよりもずっと現実味を帯びて聞こえた。
幼い頃から当たり前のように過ごしてきた日々が、これからは少しずつ遠くなっていく。
ユキナはわずかに目を伏せた。
「それは……少し寂しい気もするけど、仕方のないことだから」
「私も、ユキナと大杉くんが遠くなってくのは、寂しいな」
思いがけない言葉に、ユキナは顔を上げた。
「きっと、二人が一緒に過ごしてきた時間が、今のユキナとか大杉くんを作ってるんだと思う。私、そんなユキナも、大杉くんも大好きだから」
彼女の言葉に、ユキナの胸は切なく痛んだ。
「それに私ね、気づいたの」
紗江は、ぽつりと口を開く。
「ユキナといるときの大杉くんが、私が一番好きな大杉くんなんだって」
そう言った紗江の表情は、とても穏やかだった。
樹とどうなりたいのか、そんな問いではすくいきれないほど、紗江の思いはもう深いところまで根を張っているように見えた。
「もちろん、どんな大杉くんも好き。だからこそ困ってるんだけど」
紗江は小さく笑った。
「でも私が一番惹かれていたのは、やっぱりユキナの隣にいるときの大杉くんなんだなって。話すときの声も、目も、笑い方も、全部」
窓から差し込む光の中で、その表情は静かだった。
しばらくして、紗江はふっと表情を緩める。
「でも、ユキナが東先輩を選んだのも、よくわかるよ。先輩、いつもすっごく愛おしそうな目でユキナのこと見てるもん。とっても素敵な人だよね」
思い浮かべた和人の顔に、ユキナの頬も自然と緩んだ。
「うん」
「良かったね、私たち。それぞれ、大杉くんとちゃんと話せて」
「うん、そうだね」
紗江の笑顔を見て、自分の胸の奥に居座り続けていたものが、いつの間にかずいぶん形を変えていたのだとユキナは思った。
それに気がついたとき、燻るもののない純粋な心で、やっと微笑み返すことができた。
ちょうどそのとき、店員が料理を載せたトレーを運んできた。温かな湯気と一緒に、焼けたチーズの香ばしい香りと、パンケーキの甘い香りがふわりと重なって広がる。
さっきまでの静かな空気が、目の前に並んだ料理でふっとほどける。
「おいしそう! いただきます!」
ユキナがスプーンを持つと、紗江が笑った。
「写真撮らなくていいの?」
「あ、忘れてた」
「やっぱり。いつも食べてから気づくもんね」
写真を数枚撮り終えると、ユキナは熱々のドリアを頬張った。向かいでは、紗江も焼きたてのピザに手を伸ばしている。
二人は料理を口にするたび感想を交わしながら、こうして二人で過ごす時間ごと味わうように、ゆっくりと食事を続けた。
パンケーキに添えられたブルーベリーを口へ運んだところで、紗江がこちらを見た。
「で?」
「ん?」
「付き合いたてのラブラブカップルの話、詳しく聞きたいなー」
「あ、うん」
照れながら頷くと、紗江は楽しそうに身を乗り出した。
「順調?」
「うん。おかげさまで」
「東先輩って大人なイメージだけど、実際どんな感じ?」
「うん、大人。私は毎日いっぱいいっぱいなのに、和人だけ余裕でなんか悔しい」
「そっかあ」
「ずっと返事待たせちゃってたから、その分私からも気持ちちゃんと返したいんだけど。いざ和人を目の前にすると、どうしてもうまくいかないの」
「わかる。私も最初は、何もかも未知で戸惑ってたもん」
「私、今それ」
「でも、焦るといいことないから。ユキナのペースでゆっくり慣れていけばいいと思うな」
「和人と同じこと言ってる」
「ふふ。先輩からしたら、あたふたしてるユキナも、きっと可愛くて仕方ないんだろうな」
「うーん……。そうなのかな」
「いいな、素敵な彼氏。私も大杉くんとそうなりたかったなー」
ユキナは少し考えてから、パンケーキを口へ運んだ。
「おいしい」
「あ、誤魔化した」
「紗江も食べる?」
「食べる」
「食べるんだ」
ユキナは笑いながら一切れを小皿へ取り分けた。紗江も、代わりにピザを一切れ差し出す。
「私たち、複雑な関係だよね」
紗江が言うと、ユキナは頷いた。
「うん。そうなのよ……」
「あはは! 気まずそう」
「だって、紗江にたつとそうなりたかったーとか言われて、どう返したら良いのか一瞬考えちゃったよ。一応私、紗江の好きな人を振った立場になるわけだし」
「なんか触れないのも変かなって思ったから、敢えて触れてみた」
「お気遣いありがとう。本当、紗江が男らしくて助かるよ」
紗江はおかしそうに笑ったあと、ピザを一口食べた。
「大杉くんとはね、この前も普通に挨拶したよ。すこーしだけ気まずかったけど、向こうからおはよって言ってくれたの」
「あ、そうなんだ。良かった」
「それで、ああ、私まだ全然大好きだって思った」
「そっか。そりゃ、すぐに忘れられたら苦労しないよね……」
「うん。でも、特に忘れようとも思わないの。好きなもんは、どうしたって好きだから。このまま、時の流れに身を任せる」
「え、急に昭和歌謡風」
ユキナの言葉に、紗江は笑った。
「まあ、今はとりあえず予備校に全集中」
「偉すぎ」
「看護師って夢があって救われたよ」
「夢や目標があると、日々にハリが出るんだって、最近私もなんとなくわかった」
「あ、そうだ。写真のコンテスト、一次通ったんだもんね。おめでとう。ちゃんと言えてなかった」
「ありがとう」
「この前見せてくれた、東先輩が写ってる夕日のやつでしょ? あれ、すっごく良かった!」
「ありがとう。私も、お気に入りなんだ」
「きっと次も選ばれるね」
ユキナが何気なく目をやった窓の向こうでは、建物のあいだから青空が覗いていた。夏のあいだはもっと近くに感じていた空が、いつの間にかずいぶん高くなっている。
少し前とは違う場所に立ち、それぞれに何かを選び、何かを手放していく。
季節がひとつ先へ進むたび、見慣れていた景色も少しずつ姿を変えていく。
きっと自分たちも、そうやって気づかないうちに変わっていくのだろう。
窓の向こうで、白い雲がひとつ、ゆっくりと遠ざかっていった。
「さ、買い物行こっか」
二人とも食べ終え、頼んだドリンクを飲み干したところで、ユキナが言った。
「まずはさっきの店ね」
紗江は鞄を手に取った。
「さっきの店?」
「え、うそでしょ。ユキナが覚えといてって言ったんじゃん」
「あっ……。うん。そうそう」
「しっかりしてよー」
「だから紗江に頼んだんだもーん。紗江のコスメも見よ。あと、久しぶりにプリ撮ろ」
「わー久しぶり! 撮る撮る」
店を出ると、眩しい日差しが二人を照らす。その光に目を細めながら見上げると、澄んだ青に、太陽がぽっかりと浮かんでいる。
見慣れていた景色が変化していく中で、そこにあり続けるものも、きっとあるのだと思った。




