第58章「夜気にほどける」
辺りはとうに寝静まり、周囲の家々の窓もほとんどが暗くなっていた。
そんな静寂の中で、樹の部屋の窓が開く音がした。
ユキナはシャープペンシルを走らせていた手を止め、顔を上げた。
時計を見る。この時間なら、きっと勉強の合間の一服だろう。
椅子から立ち上がり、カーテンを開ける。
向かいの窓辺には、案の定、樹がいた。窓枠に腰掛け、煙草を咥えたまま、手元のポータブルゲーム機に目を落としている。
気配に気づいた樹が顔を上げ、二人の目が合った。
げっ、とでも言いたげに顔をしかめた樹は、一瞬だけ目を泳がせると、慌てたように煙草を灰皿へ押しつけた。
ユキナは窓を開けた。
「……」
何も言わず、真顔で見つめる。
樹は居心地悪そうに眉を寄せた。
「何だよ。どうせ煙草やめろとか、うるせえ母親みたいなこと言うんだろ」
「たつ、なんで部活辞めたの?」
「そっちか」
樹は面倒くさそうに息を吐いた。
「ねえ、教えて」
「だから前にも言ったろ。自分の実力に限界感じたからだって。まあ、大学受験もあるし?」
「嘘。部活辞めて暇だから新央大受験することにしたって、前言ってた」
樹は一瞬、記憶を辿るように目線を上げた。それから、誤魔化すのを諦めたように、もう一度ため息をつく。
「たつ、一年からずっとレギュラーだった。小さい頃から、サッカーしてる時、本当に楽しそうだったのに」
「急に何だよ。彼氏と部活満喫してるリア充様が説教か?」
「ううん。そうじゃない……そうじゃないの」
ユキナは強く首を横に振った。
「ごめんね」
「は?」
樹の眉が上がる。
「どうした、お前」
「吉田ちゃんから聞いたの。たつが部活やめた理由」
途端に樹の眉間へ深い皺が寄り、舌打ちが漏れた。
「あいつ……今さら」
「吉田ちゃんは悪くないよ。口止めされてるからって迷ってたけど、私のために伝えてくれたの」
ユキナは窓枠に手を置き、わずかに身を乗り出した。
「たつ、私のこと心配して、制服の着方のこととか言ってくれてたのに、私本当にバカだった。何も知らずに生意気なこと言った自分が恥ずかしい」
樹はしばらく何も言わなかった。
灰皿へ押しつけたばかりの煙草にもう一度火をつける。一口吸ったあと、俯きがちなユキナを一瞥し、呆れたように口を開く。
「お前さぁ」
「うん」
「そんなでっけぇ胸して」
ユキナは反射的に、羽織っていたカーディガンの前を寄せて胸元を隠した。
「顔も、可愛い」
今まで樹から言われたことのない言葉に、ユキナは返事もできず目を瞬かせた。
「――から、目立つっつーか。そういうの、隙あらば見てるんだよ。バカな男どもが」
樹は、夜の住宅街を見つめている。
「気抜いてクソ野郎にホイホイ撮られてんじゃねえよ」
「ごめん……」
「あーあ。見るのも揉むのも、この先俺だけでいいって思ってたのによ。それをお前、彼氏とか作りやがって」
「ご……ごめん……?」
「バーカ。何謝ってんだ、冗談だよ」
樹が口元を緩める。
けれど、ユキナの表情は晴れなかった。
「たつ、サッカー続けたかったよね。本当にごめんなさい」
ユキナは樹に向かって深く頭を下げた。
「そういうの、うぜえからやめろ」
頭上から苛立ったような声が飛んでくる。
ユキナが顔を上げると、樹は窓枠にもたれて、こちらを見つめていた。
「ユキ、絶対そうなると思ったから言いたくなかったんだよ」
煙草を咥え、短く吸う。
「俺が勝手にキレただけだ。あん時はマジでぶっ殺してやろうと思ってたけど、今考えたら、部のこと考えてなさすぎた。俺にも完全に落ち度はある」
彼は吐き出した煙が夜気にほどけていくのをぼんやり眺めていたが、やがてユキナへ視線を戻す。
「でも冷静でいられなかった。あんな風にお前が好奇の目で見られて、動画まで撮られてたことを知ったら、完全に頭に血が上った。考える前に殴ってた」
「たつ……」
「その場で動画のデータ消して、他に送った形跡もなかったから、出回る可能性は低いと思った。済んだことを後から言っても、お前が嫌な思いするだけだろ。性格的に自分責めるのもわかりきってたしな」
「向こうも、盗撮の件は触れられたくねえのか、顔面ぶん殴られてスマホまで壊されたのに、特になんも言ってこねえ」
樹は鼻で笑った。
知らない場所で、彼がどれだけ自分を守ろうとしてくれていたのか、ユキナは今さらになって思い知った。
「その時、インターハイの地区予選勝ち抜いたとこだったし、顧問が暴力沙汰はさすがにやばいっつって。これ以上問題がデカくなる前に、俺を自主退部させる方向に持ってった。俺もみんなが頑張ってきたのはわかってるし、そんなことを望んでるわけじゃねえから。辞めるって決めた」
ユキナは唇を噛み、視線を落とした。
「本当にごめん……」
「俺が自分の意志でやったことだって言ってんだろ」
小さく息を吐きながら、樹は言った。
「まあ、人の気も知らずに、無防備な格好で部室に男と二人きりでいるお前には、クソムカついてたけどな。でもそれも、半分は俺のくだらねえ嫉妬だった」
俯いたままのユキナを見て、樹は少し語気を強めた。
「いいか。殴ったのも、退部するって決めたのも、全部俺だ。勝手に責任感じてんじゃねえよ。あんまりしつこいとキレるぞ」
「うん……。ごめ……じゃなくて! ありがとう」
慌てて訂正すると、樹はふっと息を漏らした。
その穏やかな表情を見て、ユキナの胸の奥はちくりと痛んだ。
「私の格好を指摘してくれた時、変態とか言ってごめんね」
「別に間違ってはねえけど」
「……そっか」
「そっかじゃねえんだよ」
樹の喉の奥から、堪えきれないような笑いが漏れた。
「でもお前、公共の場ではマジで気ぃつけろよ」
「はい。気をつけます」
樹は短くなった煙草を灰皿に押しつけ、火を消した。
改めて、ユキナを見る。
「ユキ」
「はい」
「ごめんな」
「え?」
「無理矢理キスしたこと」
ユキナは何も言えなかった。
樹もすぐには言葉を継がなかったが、やがて、苦しみに満ちた目をこちらへ向ける。
「お前を追い詰めて泣かせたこと、ずっと後悔してる。たくさん傷つけた。ごめん」
こんな風に彼がまっすぐ自分の気持ちを伝えてきたのは、初めてだった。
二人は何も言わず、しばらく見つめ合っていたが、やがて樹は視線を外した。
「まあ、とにかく」
窓枠にもたれていた背を、わずかに起こす。
「結果的にサッカー辞めたけど。辞めなきゃ新央大目指そうなんて思わなかった。親父も俺が自分の母校を目指してること、結構喜んでるのか、夜食作って部屋に持って来るんだぞ。あのいかつい顔で」
「嘘、お父さんが?」
ユキナは思わず笑った。
「これはこれで良かったと思ってる。別に後悔してねえよ。お前が後ろめたく思うようなことじゃねえから」
「たつ……。本当に、ありがとう」
「ん。じゃ、勉強に戻るわ。お前は寝ろ」
「うん。おやすみ」
ユキナは小さく手を振る。
「おう」
樹も片手を上げ、そのまま窓を閉めた。
ガラス越しの姿が、カーテンの向こうへ消えていく。
ユキナはしばらく、その窓を見つめていた。




