第57章「煮えたぎる怒り」
部屋の時計は、二十三時を少し過ぎていた。
樹は椅子の背にもたれたまま大きく背伸びをし、ふと机の上のスマートフォンに目をやった。
手に取ってみれば、サイレントモードにしたままだった。画面を点けると、一時間ほど前の通知が二件並んでいる。
送り主は、サッカー部二年の柿崎大地だった。
樹の学年ではサッカー部員は二クラスに分かれており、彼は隣のクラス、二年二組にいる。
面倒見がよく、次期キャプテンと目されている、まっすぐな男だった。樹が自主退部を決めた時も、最後まで監督に掛け合い、引き留めてくれた。
退部したのは、インターハイ地区予選を勝ち抜き、県大会への出場を決めた直後のことだった。
樹が抜けたあと、チームは県大会の途中で敗退した。前年はもっと先まで勝ち進んでいる。優勝だって目指せたはずのチームだった。
自分がいれば結果は違った、なんて思い上がるつもりはない。それでも、大事な時期にチームを離れ、少なからず足並みを乱したのは事実だった。
メッセージを開く。
『元気?』
そのすぐ下に、ほとんど間を置かず送られた二通目が続いている。
『今更だけど、お前のこと、庇ってやれなくてごめん。ずっと後悔が消えない』
樹はしばらく画面を見つめていた。
やがて小さく息を吐き、親指を動かす。
『その場にいなかったカキが気にすることじゃない』
『後先考えずに部に迷惑かけてごめんな』
『選手権、頑張れよ』
三通続けて送り、スマホを机に置いた。
左ウイングの樹と、左サイドバックの柿崎。樹が内へ切り込めば柿崎が外を駆け上がる。互いの動きを読むような息の合った連係で、左サイドから幾度も相手の守備を突破してきた。チーム内でも、二人でひとつと評されるほどだった。
冬の選手権予選は、すでに始まっていた。
一回戦は無事に突破している。今度こそ、最後まで勝ち進んでほしい。
心から願っていた。
椅子から立ち上がると、そのままベッドへ仰向けに倒れ込む。
目を閉じた途端、暗闇の向こうに、あの日の光景が鮮明に浮かび上がった。
* * *
あの日の放課後、ユニフォームに着替えようと部室の扉を開けると、数人の部員が一か所に集まって騒いでいた。
樹が入ってきたことにも気づかないまま、何かを囲んで盛り上がっている。
輪の中心で、入り口を背にして長椅子に腰掛けていたのは、隣のクラスの中谷悠馬だった。彼が手にしたスマホを囲むように、何人もの部員が肩を寄せて画面を覗き込んでいる。
「超揺れてる! やべーなこれ!」
樹は、その言葉を聞いてなんとなく何を見て騒いでいるのかを察し、警戒もせず輪の方へ歩いた。いつもの男同士のくだらないノリに混じるくらいの、軽い気持ちだった。
「前から思ってたけど和久井のおっぱい、マジででかいよ。Eカップはあるな」
中谷の口から出た名前に、足が止まった。
一年の川西が、画面を覗き込んだまま笑う。
「いやー、これはFですね」
「でた、おっぱい鑑定士」
部室に、どっと笑い声が広がる。
「樹に聞けよ。あいつら付き合ってんだろ?」
中谷はまだ、背後にいる樹にまるで気づいていない様子で言った。
「和久井可愛いし巨乳だしガチヤリてー」
また笑いが起こった。
「樹きっとヤリまくりだな!」
樹は、遠のいていく笑い声を聞きながら、脳内がぐらぐらと煮えたぎるのを感じていた。
ユキナ本人が何も知らないところで、こんな下衆な話題に挙げられていることに、言い様のない怒りが込み上げる。
――吐きそうだ。
中谷の手元に目をやると、部員が釘付けになっているスマホには、体育着のジャージのハーフパンツと白いTシャツで走るユキナの動画が再生されていた。
全身の毛穴が開く感覚がした。
胸のアップが続く中、たまに写るユキナの顔は、撮られていることに気づいていない様子だ。
明らかに盗撮だった。
走るリズムに合わせて揺れる胸元には黒い下着が透けていた。
樹は怒りに震えた声で言った。
「中谷、てめえこれなんだよ」
中谷の肩が跳ねる。
ゆっくりと振り返った顔から、ついさっきまで浮かんでいた笑みが一瞬で消えた。
「樹……いや、これは――」
その声が終わるより早く、樹は中谷の胸ぐらを掴み、長椅子から引きずり起こしていた。
中谷の指からスマホが滑り落ちた。
床に転がった画面の中では、何事もなかったように動画が流れ続けている。
部室から笑い声が消えた。
誰も動かない。
樹の耳には、自分の荒い呼吸だけがやけに大きく響いていた。
「これは何だって聞いてんだよ」
胸ぐらを掴んだまま、低く問い詰める。
中谷の喉が動いた。
「や、ごめん……」
「ごめんじゃねえんだよ。てめえこれいつ撮った」
「きょ、今日の体育で女子が長距離測ってて……俺、和久井のこと前から気になってて……思わず……」
最後まで聞いたかどうか、覚えていない。
気づいた時には、拳を振り抜いていた。
鈍い音がした。
中谷の身体が大きく後ろへよろめき、そのまま背中から棚へぶつかる。棚が激しく揺れ、上に置かれていた物が跳ねて落ちた。
中谷はその場に崩れ落ち、呻き声を上げた。
どよめく周囲をよそに、樹は拳を握ったまま、肩で息をしていた。
足元には、さっき落ちたスマホが転がっている。
それを拾い上げると、怒りに震える指で動画を削除した。削除済みのデータからも消し、クラウド上のデータも完全に削除する。
続けてSNSやメッセージアプリを確認する。誰かに送った形跡はなかった。
画面から動画は消えても、胸の奥で煮えたぎるものは少しも収まらなかった。
樹はその場に深くしゃがみ込むと、倒れたままの中谷の前髪を鷲掴みにした。髪を強引に引き上げて上体を起こさせ、その顔すれすれまで自分の顔を近づける。
「この動画、他に拡散してたらぶっ殺すぞ」
「してねえよ……」
樹は掴んでいた髪を乱暴に離した。支えを失った中谷の身体が、再び床へ崩れ落ちる。
「おい、ここまですることない――」
そう口を挟みながら中谷の身体を起こしたのは、樹と同じクラスの木滝だった。
だが、樹が振り向いた瞬間、木滝はビクッと肩を震わせ、言葉を詰まらせる。
そのまま樹は、手にしていた中谷のスマホを床へ叩きつけた。
跳ね返ったスマホの画面には、蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
樹は誰の顔も見ずにその場で踵を返す。
背後のざわめきを振り切るように、そのまま部室を出た。
気づけば、校舎を出てからずいぶん歩いていた。
それでも、胸の奥に渦巻く嫌悪感は消えないままだ。
――胸糞悪い。
殴っても、壊しても、怒りは全く鎮まらなかった。
何よりも大切なものを、汚された気がした。
駅のホームに着くと、樹は人の少ない場所で足を止めた。近くのベンチに座ると、しばらく俯いたまま、乱れた呼吸をひとつずつ長く吐き出していく。頭の中の熱が少しずつ冷めていくのがわかった。
――でもあいつは、俺のものじゃない。
ユキナが「付き合うなんてあり得ない」と紗江に話していたことを思い出す。
もし自分が同じ立場でも、そう言って笑ったかもしれない。だからこそ、彼女の本心がわからなかった。そして、自分の気持ちも。
そもそも、盗撮という行為は許せない。誰が被害者でも、自分は間違いなく不快感を示すだろう。
けれど、あそこまで我を忘れたのは――ユキナだったからだ。
大事な幼馴染だから?
家族みたいに大切だから?
ありきたりな言葉を当てはめてみる。
どんな言葉も、しっくりこなかった。
「クソ……!」
行き場のない樹の声が、空に放たれ、やがて消えた。




