↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/73

第57章「煮えたぎる怒り」

 部屋の時計は、二十三時を少し過ぎていた。


 樹は椅子の背にもたれたまま大きく背伸びをし、ふと机の上のスマートフォンに目をやった。


 手に取ってみれば、サイレントモードにしたままだった。画面を点けると、一時間ほど前の通知が二件並んでいる。


 送り主は、サッカー部二年の柿崎大地(かきざきだいち)だった。


 樹の学年ではサッカー部員は二クラスに分かれており、彼は隣のクラス、二年二組にいる。


 面倒見がよく、次期キャプテンと目されている、まっすぐな男だった。樹が自主退部を決めた時も、最後まで監督に掛け合い、引き留めてくれた。


 退部したのは、インターハイ地区予選を勝ち抜き、県大会への出場を決めた直後のことだった。


 樹が抜けたあと、チームは県大会の途中で敗退した。前年はもっと先まで勝ち進んでいる。優勝だって目指せたはずのチームだった。

 自分がいれば結果は違った、なんて思い上がるつもりはない。それでも、大事な時期にチームを離れ、少なからず足並みを乱したのは事実だった。


 メッセージを開く。


『元気?』


 そのすぐ下に、ほとんど間を置かず送られた二通目が続いている。


『今更だけど、お前のこと、庇ってやれなくてごめん。ずっと後悔が消えない』


 樹はしばらく画面を見つめていた。


 やがて小さく息を吐き、親指を動かす。


『その場にいなかったカキが気にすることじゃない』


『後先考えずに部に迷惑かけてごめんな』


『選手権、頑張れよ』


 三通続けて送り、スマホを机に置いた。


 左ウイングの樹と、左サイドバックの柿崎。樹が内へ切り込めば柿崎が外を駆け上がる。互いの動きを読むような息の合った連係で、左サイドから幾度も相手の守備を突破してきた。チーム内でも、二人でひとつと評されるほどだった。


 冬の選手権予選は、すでに始まっていた。

 一回戦は無事に突破している。今度こそ、最後まで勝ち進んでほしい。


 心から願っていた。


 椅子から立ち上がると、そのままベッドへ仰向けに倒れ込む。


 目を閉じた途端、暗闇の向こうに、あの日の光景が鮮明に浮かび上がった。


* * *


 あの日の放課後、ユニフォームに着替えようと部室の扉を開けると、数人の部員が一か所に集まって騒いでいた。


 樹が入ってきたことにも気づかないまま、何かを囲んで盛り上がっている。


 輪の中心で、入り口を背にして長椅子に腰掛けていたのは、隣のクラスの中谷悠馬(なかたにゆうま)だった。彼が手にしたスマホを囲むように、何人もの部員が肩を寄せて画面を覗き込んでいる。


「超揺れてる! やべーなこれ!」


 樹は、その言葉を聞いてなんとなく何を見て騒いでいるのかを察し、警戒もせず輪の方へ歩いた。いつもの男同士のくだらないノリに混じるくらいの、軽い気持ちだった。


「前から思ってたけど和久井のおっぱい、マジででかいよ。Eカップはあるな」


 中谷の口から出た名前に、足が止まった。


 一年の川西(かわにし)が、画面を覗き込んだまま笑う。


「いやー、これはFですね」


「でた、おっぱい鑑定士」


 部室に、どっと笑い声が広がる。


「樹に聞けよ。あいつら付き合ってんだろ?」


 中谷はまだ、背後にいる樹にまるで気づいていない様子で言った。


「和久井可愛いし巨乳だしガチヤリてー」


 また笑いが起こった。


「樹きっとヤリまくりだな!」


 樹は、遠のいていく笑い声を聞きながら、脳内がぐらぐらと煮えたぎるのを感じていた。


 ユキナ本人が何も知らないところで、こんな下衆な話題に挙げられていることに、言い様のない怒りが込み上げる。


――吐きそうだ。


 中谷の手元に目をやると、部員が釘付けになっているスマホには、体育着のジャージのハーフパンツと白いTシャツで走るユキナの動画が再生されていた。


 全身の毛穴が開く感覚がした。


 胸のアップが続く中、たまに写るユキナの顔は、撮られていることに気づいていない様子だ。

 明らかに盗撮だった。

 走るリズムに合わせて揺れる胸元には黒い下着が透けていた。


 樹は怒りに震えた声で言った。


「中谷、てめえこれなんだよ」


 中谷の肩が跳ねる。


 ゆっくりと振り返った顔から、ついさっきまで浮かんでいた笑みが一瞬で消えた。


「樹……いや、これは――」


 その声が終わるより早く、樹は中谷の胸ぐらを掴み、長椅子から引きずり起こしていた。


 中谷の指からスマホが滑り落ちた。


 床に転がった画面の中では、何事もなかったように動画が流れ続けている。


 部室から笑い声が消えた。


 誰も動かない。


 樹の耳には、自分の荒い呼吸だけがやけに大きく響いていた。


「これは何だって聞いてんだよ」


 胸ぐらを掴んだまま、低く問い詰める。


 中谷の喉が動いた。


「や、ごめん……」


「ごめんじゃねえんだよ。てめえこれいつ撮った」


「きょ、今日の体育で女子が長距離測ってて……俺、和久井のこと前から気になってて……思わず……」


 最後まで聞いたかどうか、覚えていない。

 気づいた時には、拳を振り抜いていた。


 鈍い音がした。


 中谷の身体が大きく後ろへよろめき、そのまま背中から棚へぶつかる。棚が激しく揺れ、上に置かれていた物が跳ねて落ちた。


 中谷はその場に崩れ落ち、呻き声を上げた。


 どよめく周囲をよそに、樹は拳を握ったまま、肩で息をしていた。


 足元には、さっき落ちたスマホが転がっている。


 それを拾い上げると、怒りに震える指で動画を削除した。削除済みのデータからも消し、クラウド上のデータも完全に削除する。


 続けてSNSやメッセージアプリを確認する。誰かに送った形跡はなかった。


 画面から動画は消えても、胸の奥で煮えたぎるものは少しも収まらなかった。


 樹はその場に深くしゃがみ込むと、倒れたままの中谷の前髪を鷲掴みにした。髪を強引に引き上げて上体を起こさせ、その顔すれすれまで自分の顔を近づける。


「この動画、他に拡散してたらぶっ殺すぞ」


「してねえよ……」


 樹は掴んでいた髪を乱暴に離した。支えを失った中谷の身体が、再び床へ崩れ落ちる。


「おい、ここまですることない――」


 そう口を挟みながら中谷の身体を起こしたのは、樹と同じクラスの木滝(きたき)だった。


 だが、樹が振り向いた瞬間、木滝はビクッと肩を震わせ、言葉を詰まらせる。


 そのまま樹は、手にしていた中谷のスマホを床へ叩きつけた。


 跳ね返ったスマホの画面には、蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。


 樹は誰の顔も見ずにその場で踵を返す。


 背後のざわめきを振り切るように、そのまま部室を出た。


 気づけば、校舎を出てからずいぶん歩いていた。


 それでも、胸の奥に渦巻く嫌悪感は消えないままだ。


――胸糞悪い。


 殴っても、壊しても、怒りは全く鎮まらなかった。


 何よりも大切なものを、汚された気がした。


 駅のホームに着くと、樹は人の少ない場所で足を止めた。近くのベンチに座ると、しばらく俯いたまま、乱れた呼吸をひとつずつ長く吐き出していく。頭の中の熱が少しずつ冷めていくのがわかった。


――でもあいつは、俺のものじゃない。


 ユキナが「付き合うなんてあり得ない」と紗江に話していたことを思い出す。


 もし自分が同じ立場でも、そう言って笑ったかもしれない。だからこそ、彼女の本心がわからなかった。そして、自分の気持ちも。


 そもそも、盗撮という行為は許せない。誰が被害者でも、自分は間違いなく不快感を示すだろう。

 けれど、あそこまで我を忘れたのは――ユキナだったからだ。


 大事な幼馴染だから?


 家族みたいに大切だから?


 ありきたりな言葉を当てはめてみる。

 どんな言葉も、しっくりこなかった。


「クソ……!」


 行き場のない樹の声が、空(くう)に放たれ、やがて消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。