第56章「優しいぬくもり」
写真部の部室には、いつもの静かな空気が流れていた。
開け放たれた窓から、やわらかな風が入り込んでいる。窓際に並ぶ観葉植物の葉が、ときおり思い出したように揺れ、机の上に落ちた影もわずかに形を変えた。
ユキナが部室へ入ると、和人は読んでいた写真集から顔を上げた。膝の上で開いていたページを閉じ、そのまま脇へ置く。
「お疲れ」
「お疲れさま」
ユキナは返しながら鞄を机の横へ置き、和人の隣へ腰を下ろした。
「写真部宛にメール、届いてるかな。今日そのことばっか気になっちゃって」
その言葉に、和人は机の端に置いていた自分のノートパソコンを手元へ寄せる。
「写真部のパソコン立ち上げてメール確認するより、こっちでサイト確認したほうが早い」
和人がマウスを動かすと、スクリーンセーバーが消え、応募した写真コンテストの公式サイトが現れた。
「開いてたの?」
「一緒に確認しようと思って」
和人が迷いのない手つきでページを辿っていく横で、ユキナは膝の上に置いた指をそっと組んだ。
今日は、一次審査の結果発表日だった。
清森高校写真部がエントリーしたのは、ユキナの一枚だけだった。
あの日、岬で撮った写真。
沈みかけた夕日と、その光の中に浮かんだ和人のシルエット。
あの瞬間、考えるより先にシャッターを切っていた。
画面が切り替わる。
『一次審査通過作品』
その文字を目にした途端、さっきまで何でもなかったはずの心臓が、急に存在を主張し始めた。
和人が文字をクリックする。
ずらりと名前の並んだページが表示された。
けれど、彼はそれ以上スクロールしなかった。
マウスから手を離すと、ユキナの前へ静かに置く。
「どうぞ」
ユキナは思わず和人を見た。
「えーなんか緊張する!」
「俺も」
「なんで和人まで」
ユキナは小さく笑った。
「俺自分の時は緊張しなかったのに、今めっちゃしてる」
そんなことを言われると、余計に緊張する。
ユキナは一度だけ息を吐いてから、マウスへ手を伸ばした。
ホイールを回す。
学校名と応募者名が並ぶ画面が、ゆっくりと流れていく。
「結構あるな」
「うん、思ってたより」
見落とさないよう、一つずつ名前を目で追っていく。
意識するほど文字がただの記号のように見えてきて、胸の鼓動ばかりが気になった。
その途中で、ふと指が止まる。
「あ……」
見覚えのある学校名だった。
視線が、そのすぐ下へ落ちる。
そこに、自分の名前があった。
ユキナは確かめるように画面へ顔を近づけた。
「……あった」
思わず零れた声に、隣で同じ画面を見ていた和人も小さく頷く。
「一次、通過だな」
その言葉を聞いて、ようやく胸の奥へ実感が落ちてきた。
もう一度、自分の名前を見る。
見間違いではない。
何度見ても、そこにある。
あの日、自分が切り取った一瞬が、確かに誰かの目に留まって、次の審査へ進んだのだ。
「おめでとう」
和人が静かに笑う。
ユキナは画面から顔を上げ、少し照れたように笑い返した。
「ありがとう」
「良い写真だったもんな」
「和人のおかげだよ」
「俺は何もしてないよ」
「岬に連れて行ってくれた。なにより、あれが和人のシルエットだったからこそ、シャッターを切りたいと思えたの」
あの時の景色を思い出しながら、ユキナは微笑んだ。
和人は何も言わなかった。
ただ、その顔をじっと見つめている。
さっきまで画面に向けられていた視線が、今はまっすぐ自分だけに向けられていることに気づき、ユキナはわずかに首を傾げた。
「……ユキナ」
「なあに?」
「すっっっ」
「す?」
「っっげえ可愛い」
「え……」
「キスしたい」
あまりに唐突な言葉に、ユキナの表情が固まった。
「大丈夫、しないよ」
和人は力を抜くように笑った。
「ペース合わせるって言っただろ。第一ここ部室だし。この前みたいな、公私混同は良くないよな」
ユキナはまだ返す言葉を見つけられないまま、和人を見つめている。
すると、彼の腕が伸びてきて、ふわりと肩を包んだ。
引き寄せられた身体が、その胸元へ収まる。
「これは許して」
頭に大きな手のひらが触れた。
髪を乱さないように、ゆっくりと撫でられる。
二人の背後では、一次審査の結果を映した画面がそのまま静かに光っていたが、やがてスクリーンセーバーの画面に切り替わった。
* * *
コンテストの結果を確認したあと、二人はそれぞれの作業に戻った。
ひと段落ついて窓の外を見ると、差し込んでいた光もすっかり傾き、部室を出る頃には、空はすっかり仄暗くなっていた。
「最近日が暮れるの早くなってきたな」
和人が呟くように言った。
ユキナは頷きながら、ふと視線を落とす。
隣で歩く和人の、大きな手が揺れている。
少し迷ってから、ユキナはそっと腕を寄せ、和人の小指に手を伸ばした。わずかに触れた指を引っ込めようとした瞬間、逃げかけた指を拾うように、大きな手が重なる。指のあいだへ彼の指が滑り込む。そのまま、ユキナの手をやわらかく包んだ。
手の甲を、和人の親指がゆっくりとひと撫でしてから、指の付け根をなぞった。
たったそれだけの仕草なのに、手を伸ばすまで胸の内で繰り返した小さな逡巡まで、包み込んでもらえたような気がした。
和人は何も言わず、いつもと変わらない歩調で隣を歩いている。
ユキナは繋いだ手を見下ろしてから、また前を向いた。
やがて、建物の向こうに駅が見えてきた。
――もう着いちゃった……。
駅前のロータリーにはバスが出入りし、仕事帰りの人や学生が絶え間なく行き交っている。
和人の家は駅の裏手にあるので、いつもこの辺りで別れる。
「じゃあ」
「うん、また――」
重なっていた和人の指が、するりと離れていく。
その瞬間、ユキナの指がぴくりと動いた。
離れていく彼の指に、名残を惜しむようにほんの少しだけ絡みかける。
その微かな動きに何かを察したように、和人の指がすぐに戻ってきた。
離れかけたユキナの指を捕まえ、そのまま自然に繋ぎ直す。
手のひらがもう一度重なり、さっきまでそこにあったぬくもりが戻ってきた。
ユキナが顔を上げると、和人は何でもないことのように微笑んでいた。
「やっぱり、改札まで送ろうかな」
「……うん」
駅へ向かう人波に紛れても、大きな手は離れなかった。
ほんの一瞬、指先から溢れた名残惜しさを、和人は見逃さずに掬ってくれた。
それだけで、ユキナの胸の奥には、小さな灯りがともったようだった。
* * *
「ユキ先輩、こんにちは!」
改札を抜け、ホームへの階段を上り切ったところで、背後から明るい声が飛んでくる。
振り返ると、サッカー部でマネージャーをしている一年の吉田こはねが、小走りで階段を駆け上がってくるところだった。
小柄で華奢な身体が、人混みの隙間を縫うように近づいてくる。頬のあたりで揺れるボブは、ふわふわと柔らかな猫っ毛で、光を受けると薄茶色に透けて見えた。
いつも弾けるような笑顔を浮かべている、明るくて元気な一年生だった。
樹がサッカー部にいた頃から、吉田とは駅で顔を合わせることが多かった。同じ方面の電車を利用しているため、登下校の途中で挨拶を交わし、そのまま話しながら帰ることもある。
もともと樹の可愛がっている後輩だったのに、いつの間にか、ユキナにとってもすっかり顔馴染みになっていた。
「吉田ちゃん、お疲れ。部活帰り?」
「はい。ユキ先輩も部活ですか?」
「うん。写真の編集してたらこんな時間になっちゃった」
話しながら、二人でホームの乗車位置に並ぶ。
傾き始めた陽が線路の向こうから差し込み、長く伸びたホームの屋根の下まで淡い光が入り込んでいた。
隣に並んだ吉田が、ユキナを見上げる。
「ユキ先輩、最近イケメン彼氏さんとラブラブですよね! 一緒にいるのよく見かけます」
「あはは、そんな見かけてるなら声かけてよー」
「いや、邪魔しちゃ悪いかなぁと」
「そんなことないのに」
「仲良くていいですね」
にこにこと笑う吉田の顔を見ながら、ユキナはふと思いついて尋ねた。
「吉田ちゃんは、好きな人とか、付き合ってる人はいる?」
すると、それまで弾むように返ってきていた声が、わずかに途切れた。
「……好きな人なら。完全脈なしですけど」
「もしや、部活の人? サッカー部、格好良い人多いって人気だよね」
「格好良い人なんて、ほとんどいません!!」
突然語気を荒らげた吉田に、ユキナは目を瞬いた。
「あ……そう?」
「プレーは良いのに残念なやつらですよ」
先ほどまでの笑顔は消え、吉田は不満げに口を尖らせている。
「何か、あったの?」
戸惑いつつ問いかけると、吉田はすぐには答えなかった。
そのとき、ホームに電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。
「あの……」
「ん?」
吉田が小さく口を開く。
けれど、また言葉を呑み込み、足元へ視線を落とした。
しばらく白線を見つめていた吉田が、やがて意を決したように顔を上げる。
「大杉先輩に言うなって言われてたんですけど……」
「言うなって、私に?」
吉田はわずかに頷いた。
「私なら……知りたいと思うから、ユキ先輩に、話します」
いつもの屈託のない表情は消えていた。
「何を?」
「大杉先輩が、部活辞めた理由」
ユキナは一瞬、その言葉を飲み込めなかった。
「限界感じたって聞いたけど……」
それだけではないのかもしれないと、ずっとどこかで引っかかっていた。
「違うんです――」
線路の先に二つの白い光が現れた。
レールを伝う低い振動が足元まで届き、電車が風を巻き上げながらホームへ滑り込んでくる。
目の前で扉が開き、待っていた人々が次々と車内へ吸い込まれていった。
それでも、ユキナは動かなかった。
今の話を途中で切って、この電車に乗る気にはなれなかった。
吉田もまた、その場を動かない。
やがて発車を知らせるメロディが鳴り、扉が閉まった。
電車がゆっくりと動き出す。
連なる窓が二人の傍らを流れ、速度を上げながら遠ざかっていった。
再び静けさを取り戻したホームに、風が抜けていく。
その風に薄茶色の髪を揺らしながら、吉田は少しずつ、言葉を選ぶように話し始めた。
章のナンバリングのみだったので、わかりにくいかなと思い各話にタイトル追加しました。いまさら。




