第55章「鬱陶しい仲間」
「樹、さっきの、あんたの彼女じゃないの?」
校門前で、女子陸上部の円山ふうかが言った。
「なんか……他の男と――いちゃついてなかった?」
遠慮がちな口ぶりでも、言葉は直球だった。
「別にただの幼馴染。関係ねえよ」
ぶっきらぼうに言った樹の顔を、円山は覗き込む。
「大丈夫そ?」
「何が」
「泣いてもいいんよ?」
「何でだよ」
樹は眉を少し上げ、ため息をつきながら円山を見た。
綺麗に切り揃えられたショートヘアに、健康的に日に焼けた肌。細身の体からすらりと伸びた手足。見た目の印象はボーイッシュでも、よく見れば、丸みのある大きな目に小ぶりな鼻と口、すっきりとした輪郭をしていて、少女のような童顔だった。
陸上部も強豪認定部のため、彼女は一年の頃から樹と同じクラスだった。さっぱりとした性格で、物言いにも遠慮がない。その一方でよく周りを見ていて、何かと人の世話を焼く。二年近く一緒にいる樹も、そんな円山の性分はよく知っていた。
だから、今の言葉も単なるからかいではないのだろう。
そのとき、樹の肩を後ろからぽんと叩く手があった。
「何も言わなくていいぞ」
同じく陸上部の瀬良景虎だった。
彼は生意気そうな吊り目をこちらに向け、じっと見てきた。
隣にいる彼女の円山よりも背は低いが、本人はまるで気にしておらず、いつも堂々としている。笑えば覗く八重歯もどこか憎めない。妙に人を惹きつけるところのある男だった。
「だから何なんだよお前ら」
樹がそう言ったところで、
「待たせたな」
不意にすぐそばから低い声がした。
振り向くと、いつの間に来たのか、柔道部の金澤が樹の隣に立っていた。
視線を向ければ、ほとんど高さを変えずに目が合う。183cmある樹とこうして目線を並べられるクラスメイトは、金澤くらいだった。
まくった制服の袖から覗く腕は太く、樹も決して細身ではないが、並ぶと体格の差ははっきりしている。柔道で鍛えられた厚い肩や胸板は制服越しにもわかり、同じくらいの身長でも、金澤のほうがひと回り大きく見えた。
「金澤。お前部活は?」
「今日は休みだ。さっき瀬良からメッセージが来た。俺も行く」
「ふーん。お前ら、人待ってるって金澤のことだったのか」
樹は瀬良の方を見たあと、また金澤へ向き直る。
「つーかお前がカラオケに参加するとか、めずらし」
「他の奴らは」
「先行ってる」
やがて一同は、下校する生徒たちの流れに混じって歩き出した。
樹はなんとなく先頭へ出る。
「おい樹、俺の前を歩くな。でけえから邪魔くせえ」
瀬良に言われ、樹は振り返る。
「うるせえな。なんで俺が瀬良に気遣って歩かなきゃいけねえんだよ。お前が身長伸ばせ」
「とらはこのサイズがベストなの。樹が避けなよ」
円山が言うと、樹は舌打ちをしながら道を開け、呟いた。
「バカップルめ」
* * *
狭い部屋の中で、誰かの歌声と笑い声が入り混じっていた。
壁沿いには十数人が座れる長いソファがコの字に並び、その中央には大きなテーブルが置かれている。
入れ替わり立ち替わりマイクが渡り、拍手と歓声が上がる。テーブルの上には空になったグラスや皿が所狭しと並び、壁際では次に歌う曲について数人が楽しそうに話し合っていた。
樹はその輪から少し離れたソファに座り、氷の溶けかけたグラスを傾けた。
「お前、最近なんかあったか」
隣から低い声がした。
「は?」
見ると、金澤がこちらを見ていた。
「いつもと、違うだろ」
「別に普通だけど」
「言いたくないなら、それでいい」
それだけ言って、金澤は視線を正面へ戻した。
ちょうど誰かがサビを歌い上げ、部屋の奥から歓声が上がった。
樹はしばらく、その騒がしさの中で金澤の横顔を眺めていた。
――そういうことか。
金澤とは一年生からの付き合いだが、カラオケのような大人数の騒がしい集まりに彼が参加したことはなかった。いつも顔を出すのは、お決まりのメンバーだけで集まるときくらいだ。
そんな男が、わざわざ苦手な場所までやって来た理由。
考えれば、簡単なことだった。
「……ふられた」
歌声に紛れるほどの声でつぶやく。
金澤がこちらを向いた。
「……樹、このあと時間あるか?」
「このあと?」
「飯、行くぞ」
そのとき、反対隣りに座っていた瀬良の腕が、ぐいと樹の肩に回された。
「おう、俺らも混ぜろ」
「……聞いてたのかよ」
「何の話?」
瀬良の向こうから、円山がひょっこり顔を出す。瀬良が彼女の耳元へ顔を寄せ、何事かを囁いた。
円山は一瞬目を丸くしたあと、すぐに樹を見た。
「樹、このあと来な。絶対」
断れば余計に面倒なことになる。
樹は諦めて背もたれに体を預けた。
「わかったよ」
* * *
「じゃあなー!」
「また明日」
店を出ると、それぞれ帰る方向へ散っていく。
さっきまでひとつの部屋に詰め込まれていた声が、一人、また一人と遠ざかっていった。自動ドアが閉まるたび、賑やかだった時間が少しずつほどけていく。
残ったのは、樹と金澤、それから瀬良と円山の四人だった。
「どこ行く? ごはん」
円山が言った。
「そこのファミレスでよくね?」
瀬良が顎で通りの先を示した。
誰からともなく歩き出し、四人はそのまま店へ入った。
案内された席に腰を下ろすと、カラオケのあとだからか、店内が妙に静かに感じられた。さりげなく流れるBGMや、離れた席から聞こえる話し声が混じり合っている。
注文を済ませてしばらくすると、円山が頬杖をついて樹を見た。
「ふられたって、さっきの幼馴染の子にってことだよね?」
「ああ」
「本当に、付き合ってはいなかったのか? かなり仲良さげだったけど」
瀬良が訊く。
「付き合ってねえよ。そもそも、自分のユキへの気持ちを確信したのも最近だし」
樹はそう言って、テーブルの端に置かれたグラスを手に取り、水を一口流し込む。
「で、俺が認めたくなくてうだうだしてる間に、ユキに好きなやつできた」
「……それは結構しんどいな」
瀬良が眉を寄せる。
「認めたくなかったって?」
円山がわずかに首を傾げる。
「好きだってこと」
「なんで?」
樹はテーブルの上に視線を落とした。
昔から、自分の気持ちを話すのは苦手だ。
まして、こんなふうに真正面から訊ねられ、自分の中にあるものをひとつずつ言葉にすることなんて、一番避けてきたことだった。
けれど、彼らの気持ちが興味本位ではないことは、痛いほど伝わってくる。
樹はゆっくりと口を開いた。
「これまで幼馴染として狭い世界で生きてきて、これからもその中から出ないことに、漠然とした抵抗感があったんだよ。そんなこと考えてる時点で、本気で好きじゃねえのかもって、自分の気持ちがわかんなかった」
言葉にしてしまえば、ひどく単純な話に聞こえる。
けれど、自分の中ではずっと答えの出なかった問いだった。
「そんな気持ちのままユキに手出して傷つけるのが嫌だった。後戻りできないところまでいって、やっぱ違ったなんて罷り通らねえだろ」
「長い付き合いなら、なおさら慎重になるか」
瀬良が言った。
「行動する勇気もねえまま、他の女に逃げた」
「あー……。なんとなく誰かわかるかも」
円山が言う。
「最近よく話してた子? 確か、三組の」
「ん……まあ、そう。けど、その子に非はないんだ。すっげえ良い子」
だからこそ、余計に自分が嫌になる。
「他の子と関わってみたら視野が広くなって、幼馴染が好きなんて気の迷いだったって気づくかもしんねえって思った」
そこで一度、言葉を切った。
グラスを、指先で意味もなく回す。
「でも結局、誰といたって俺はあいつのことばっかり考えてた。その子のこと傷つけただけだった」
三人とも、何も言わなかった。責める者も、慰める者もいない。ただ真剣に、耳を傾けてくれている。
その沈黙に促されるように、樹は続けた。
「んで、最近ユキが他の男と仲良いことに嫉妬して、その勢いに任せて気持ち伝えて、玉砕した。しかもあいつ泣かせて――クソだせえ」
「そんな感情的になることあるんだね、樹」
円山が少し意外そうに言う。
「そのユキちゃんの相手って、今日一緒にいた人だろ。上級生?」
瀬良が訊ねる。
「ああ。写真部の、三年」
ふと、放課後に見たユキナの顔が浮かんだ。
隣を歩く東和人を見上げて、嬉しそうに笑っていた。
昔から、彼女の笑顔は何度も見てきたはずなのに、自分といるときとはどこか違って見えた。
「さっき校門でユキ見かけて、これで良かったんだなって思った」
「良かったって?」
「俺は怒らせたり泣かせたりしたのに、あいつといるユキ、すっげえ良い顔で笑ってた。今の俺には、あんな幸せそうな顔させられない」
少し間を置いて、樹は続けた。
「ユキの相手が、意味わかんねえ変な男じゃなくて、あいつで良かった。悔しいし、ムカつくけどな」
良くはない。良くはないけど、良かった。
ひとつに決められない感情が、胸の中で互いにぶつかり合っている。
樹は整理のつかない自分の気持ちに、苦笑した。
しばらく黙っていた金澤が口を開いた。
「本当に愛してるんだな、ユキナさんのこと」
「あ、愛……?」
なぜか瀬良がぎょっとする。
「さん付け?」
円山は笑ったが、金澤は平然としている。
「樹、お前は良い男だよ」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「自分が傷ついても相手の幸せを願えるのは、愛だ」
あまりにも真顔で言う金澤に、樹は返す言葉を失った。
「確かにそれはそう。樹、がんばったね」
円山は頷きながら言った。
「やめろ」
「俺らがお前の分も払うからたくさん食え。追加でなんか頼むか?」
瀬良がメニューを手に取りながら言う。
「いらん。変な気使うな。自分で払う」
「人の好意には素直に甘えろ。お前は、まずそこからだ」
金澤が諭すように言った。
「そうだよ、こういう時くらい頼れ!」
円山も身を乗り出す。
「来年特進行くつもりみたいだけど。お前はずっと一組の仲間だと思ってるからな」
瀬良までそんなことを言い出した。
「あー……。お前ら、マジでうざい……」
樹は大きなため息をつき、片手で顔を覆った。
妙に鼻の奥が熱い。
「泣くぞコラ」
顔を上げて睨む。
「だから泣け。耐えんな」
円山が即座に返した。
「マルってイケメンだよなぁ」
樹が言うと、円山はにやりと笑う。
「樹はメンヘラだよなぁ」
「おい、やめろ。最近自分でもそんな気がしてたんだ」
「こじらせてんなあ」
瀬良が声を上げて笑った。
その笑いにつられるように、張りつめていた気持ちがほどけていくのを感じた。
やがて運ばれてきた料理が、次々とテーブルを埋めていった。湯気と匂いが立ちのぼり、それまで樹を囲んでいた妙にしんみりとした空気を押し流していく。
円山が瀬良の皿から勝手につまみ喰いをする。瀬良が文句を言う。円山は悪びれもせずそれを口に放り込み、瀬良も本気で怒るでもなく、今度は仕返しとばかりに円山の皿へ手を伸ばした。
円山がその手を払い、瀬良が笑う。
いつものことなのだろう。
樹はそのやり取りを眺めながら、ドリンクバーから持ってきたコーラに口をつけた。
ふと隣を見ると、金澤は何食わぬ顔でメガ盛りチキングリルを平らげていた。
大人数で騒ぐのが苦手なくせに、今日はわざわざカラオケにまで来た。
きっと最初から自分の様子がおかしいことに気づいていたのだと樹は悟った。
そういうことを、彼は何も言わずにやる。
向かいでは、瀬良が円山に取られないよう自分の皿を遠ざけている。円山はタイミングを伺うようにチラチラと瀬良の皿を見ている。
こいつらも同じだ。
勝手に話を聞いて、勝手についてきて、頼んでもいないのに食事を奢ろうとしている。
鬱陶しい。
けれど。
金澤がいて、瀬良がいて、円山がいる。
くだらない話をして、食べて、笑っている。
――今日、一人で帰らなくて良かった。
心の底から、そう思った。




