第54章「変化と戸惑い」
放課後の校内にはまだ賑わいが残っていた。
昇降口を出ると、帰宅する生徒と部活動へ向かう生徒が入り混じっている。
この日は写真部の活動日ではないため、まだ明るいうちに、ユキナと和人は並んで校門へ向かっていた。
「和人、このあとバイト?」
「うん」
「写真館、今日は忙しそう?」
「ああ、フィルムカメラが最近また流行ってきてて。その現像が意外と入ってるんだよな。ブライダルフォトの編集もいくつかあるし、今日はこのまま店だ」
「そっか。大変だね」
「暇だと店長がカメラ話を始めるから、忙しいくらいがちょうどいい」
和人は笑った。
「でも、和人好きそうだけど。そういう話」
「数分で終わればな」
「あはは。長いんだ」
「何時間もずっと語ってるよ」
「和人もそんなおじさんになる気がする。結構面倒くさそう」
ユキナは笑いを堪えながら言った。
「お? ユキナさん?」
和人はじゃれつくように片腕をユキナの肩へ回し、そのまま自分の方へ軽く引き寄せる。
ふざけているだけのはずなのに、触れ合った肩から彼の体温が伝わってきて、ユキナの鼓動が早まった。
「誰がどうなりそうって言った?」
すぐ耳元で、低く囁かれる。
「……和人が。写真おじさんに……」
「まだ言うか」
和人は肩に回していた腕をそのままユキナの首の前へ滑らせると、彼女の背中が自分の胸元に触れるまでぐっと引き込んだ。すかさずもう片方の腕を組み合わせ、そのまま背後から首元を抱え込む。
「きゃあ。ちょっと、和人」
笑いながら逃げようと身を捩るユキナを、和人は胸元に引き寄せたまま腕の中へ閉じ込めた。
こんなふうに触れられることは、付き合う前にはなかった。
和人の腕は首元を抱え込んでいるだけで、痛くも苦しくもなかった。その優しいチョークスリーパーに締め付けられたのは、胸の奥だった。二人の関係がもう以前とは違うのだと思い知らされるようだった。
「だって和人、自分でもいつも言ってるじゃん」
「さすがに、まだ写真おじさんとまでは自虐したことない」
「もう。離してよ」
和人の腕を掴みながら笑うユキナに、和人は腕の力を緩めた。そのまま片腕だけを肩に残し、自然に肩を組む格好になる。
「まあ確かに――実の父親よりも幸太郎さんに似てるなと思うことあるんだよな、自分でも」
「そうなの?」
「ああ。こだわり強いのとか、なんでも突き詰めたがるところとか。要するにオタク気質なとこ」
「へえ」
「第二の父みたいに思ってる」
「素敵な人なんだね。会ってみたいな」
「今度連れてくよ。紹介したいし」
第二の父のように慕っている人物に紹介したい――その言葉の意味を意識した途端、また少し胸が高鳴った。
「楽しみにしてるね」
ユキナは微笑む。
「長い写真トーク聞かなきゃだけど」
「あ、聞いてみたいかも」
和人は優しく微笑んだ。
「はあ。本当可愛いな」
「え?」
「ユキナ可愛い」
「急に、なに。やめてよ……」
ユキナは思わず俯いた。
「耳赤い。可愛い」
「私すぐ赤くなる体質なの。からかわないで」
「からかってないよ。可愛いなあって毎日思ってるのを、やっと遠慮せずに伝えられる関係になれたんだ。このくらい許してよ」
「ダメ。心臓がもたない」
「こんなんで?」
「だってこうしてくっつくだけで心臓が壊れそうなくらいなのに、耳元で、可愛いって連呼されるんだもん……」
ユキナは両手で頬をおさえた。
「うーん。慣れてもらわないと、この先色々と困るなぁ」
和人が言うと、ユキナは面食らった顔をしたあと、再び赤面した。
「……やっぱり和人、からかってるよね」
「ねえ、可愛すぎるよユキナ」
ユキナは火照った頬を隠すように俯いた。
もともとまっすぐな人だと知っていた。彼のそんなところを好きになった。
付き合い始めてからはさらに、和人はこんなふうに、好意をそのまま言葉にし、恋人らしい関わり方をするようになった。
その度に、戸惑うだけの自分が悔しかった。
肩に回された腕へ視線を落とし、ためらいがちに指先を伸ばす。そっと触れてから、今度は自分からその腕を掴んでみた。
胸の奥が、また小さく弾んだ。
* * *
和人がユキナと笑い合いながら校門へ近づいたとき、ふと前方に見覚えのある姿を見つけた。
校門脇に、樹が数人のクラスメイトと集まっている。帰宅する生徒たちがその前を絶えず行き交い、ときおり姿が人波に隠れていた。
ユキナは気づいていない。肩を組んだ和人の腕を掴んだまま、こちらを見上げて楽しそうに話し続けている。
ただそこにいるだけの樹は、近くを歩いている生徒が思わず振り返るほどの存在感を放っていた。ただ背が高いというだけではない、独特の雰囲気があった。
ふいに、人の流れが途切れた。
その向こうで、樹の視線がこちらに流れ、一瞬、和人と目が合う。
二人に気づいた様子の樹は、僅かに表情を強張らせた。
やがてその視線はユキナではなく、まっすぐ和人へ向けられる。
威嚇でも、怒りでもない。
ただ静かで、それでいて簡単には受け流せないほど強い眼差しだった。
胸の奥へ静かに何かを置いていくようなその一瞥には、妙な重みがあった。
何も語らないまま、それでも重要なことを告げられたような感覚だけが、和人の中に残った。
釘を刺されたのか、それとも、何かを委ねられたのか――。
帰宅する生徒たちの間を抜けながら、和人とユキナはそのまま校門へ近づいていく。それでも樹の視線は外れなかった。
やがて、樹たちのすぐそばを通り過ぎる。
ユキナは最後まで気づかなかった。
和人も足を止めることなく、そのまま校門を出た。
「……和人、どうかした?」
ユキナが和人の顔を見上げ、不思議そうに首を傾げる。
「いや」
和人は小さく笑って首を振る。
「なんでもない」
そう答えると、ユキナの肩にあった腕を下ろした。
彼女の手を取り、指を絡ませる。
「はあ……緊張する。やっぱ慣れない」
照れくさそうに言う彼女を、優しい微笑みで見つめる。
「ゆっくりでいいよ。焦ることない」
二人は、再び歩幅を合わせる。背後では、校庭から響く部活生たちの掛け声が少しずつ遠ざかっていく。
通りに風が吹くたび、並木の梢がさざめく。葉の隙間からこぼれた陽が、舗道の上で揺れる。
ユキナが、繋いだ手にほんの少しだけ力を込めてきた。和人は言葉もなくその手を握り返す。
互いの温度を確かめるように指を絡めたまま、二人は行き交う生徒たちに紛れて歩いていった。




