第53章「腕の中で」
和人は、窓の外をぼんやり眺めていた。
まるで夜だと錯覚してしまうほど暗い空に、反射した部室の明かりが浮かんでいる。
ドアが開く音に振り向くと、ユキナが立っていた。その表情を見ただけで、何かを決めてきたのだとわかる。
「お疲れ」
和人の声に応えることもなく、ユキナは切り出した。
「昨日、たつと話した」
前置きもなく切り出された言葉に、和人は自分の隣の椅子を静かに引く。
「こっち座りなよ」
ユキナは小さく頷き、その椅子へ腰を下ろす。
「話したんだ?」
先ほどの、彼女の言葉の続きを促す。その声は、いつものように優しかった。
「うん。私が好きだったのは昔のたつで、今のたつではないって気づいたんだ。だから、付き合えないって、ちゃんと伝えた」
「うん」
和人は相槌を打つ。
「私が付き合いたいと思うのは、和人だってことも伝えた」
その言葉を受け止めるように、彼は真剣な眼差しでユキナを見つめた。
「……後悔しない?」
「しない」
ユキナもまた、まっすぐにその視線を受け止める。
「まあ、させないけど」
不意に抱き寄せられる。
すっぽりと彼の腕に包まれながら、ユキナは目を閉じた。
――もう躊躇うことなく、抱きしめ返すことができる。
「今まで私、傷つくのが怖いって思うばかりだった。でも和人のことは、傷つけたくない、大切にしたいって、心から思うの」
「俺のことはいいから、ユキナは、そのままでいてよ」
耳元に響く穏やかな声に、ユキナの心は足場を得たように、ようやく落ち着いた気がした。
「待っててくれて、ありがとう」
ユキナは和人を見上げた。
「もう待たない」
そう言って、和人はそっとユキナの顔を両手で包む。
頬に触れた手の温もりはやさしく、その熱が静かに全身へ広がっていくようだった。
やがて唇が重なる。
酸欠になりそうなほど長いキスに、早まる鼓動は何のせいか、わからなくなる。
「かず……苦し……」
ユキナが途切れ途切れにそう言うと、和人はやっと唇を離した。
「ユキナ」
和人は、目に映しただけで壊れてしまいそうなものを慈しむように、静かに目を細め、柔らかくその名を呼んだ。
そしてもう一度、触れるようにユキナの唇を啄ばむ。
顎へ添えられた彼の手に、そっと力がこもる。親指が唇をやさしくなぞり、そのまま静かに彼女の唇を開いた。
柔らかく温かな舌が、戸惑うように居場所を探していたユキナの舌の裏側を、ゆっくりとなぞっていく。
「まっ……待って」
思わずユキナは和人の胸を押し、顔を逸らした。
「待たないって言っただろ」
和人はそう言って、戸惑うユキナの髪を撫でた。
「私、誰かと付き合うのって初めてで。キスも、どうしたらいいのか……。もうちょっとペースを――」
必死で言葉を紡ぐ。和人と目を合わすことが出来なかった。
「キスは初めてじゃないんだろ?」
低く囁いた和人の言葉が耳元で響く。その一言で、頬に熱が集まっていくのがわかった。
今、そのことには触れて欲しくなかった。
そんな彼女の戸惑いを知ってか知らずか、和人はいつも通り落ち着いていた。
その彼の静けさに照らされ、自分のぎこちなさばかりが浮かび上がる。
そこへ、不意に樹とのキスのことまで突きつけられた。
悔しさと恥ずかしさが胸の奥で行き場を失い、堪えていたものが涙になって静かに溢れた。
「……意地悪」
「ごめんごめん」
和人は愛おしそうにユキナの涙を指先で拭い、ふっと笑う。
そのいつもと変わらない優しい笑顔を見た途端、張り詰めていた心がふっとほどけた。
「――でも。俺だって、ユキナがあいつにキスされたことはかなりムカついてるんだよ。そのことに触れずにいられるほど割り切れてない。すげえ胸糞悪い。これでも足りないくらいだよ。もっと俺で上書きして、早く忘れさせたい」
落ち着いた声とは裏腹に、その眼差しには静かな怒りと、どうしようもないほどの愛情が宿っていた。
「今の私には、そんなの思い出す余裕なんてないよ。大好きな和人のことで頭がいっぱいで――」
言い終える前に、そっと手を掴まれる。
「ユキナ。もう一回言って」
ユキナは小さく首を傾げた。
「初めて好きって言われたからさ」
――ああ、そうか。
ユキナは思った。
ずっと待たせていた。彼もまた、不安だったのかもしれない。
いつも穏やかに見えていたその優しさはきっと、誰よりも大切に思ってくれていたからなのだと気づく。
「和人、大好きだよ」
もう、迷わずに言えた。
「――やばいな、これ……」
そう言った和人は、さっきの強気なキスからは想像つかないほど、照れたようにはにかんでいた。
そんな彼が、たまらなく愛しかった。
ユキナは和人の胸へ顔を埋め、ぎゅっと抱きついた。
「好き。大好き」
「ユキナ、あんまり……」
歯切れの悪い声に、ユキナは顔を上げた。
和人の視線が、落ち着かない様子で泳いでいる。
「こういう……可愛いことされたら、本当にやばい」
「え?」
「ここが部室じゃなきゃ、止まらなくなってる」
ユキナは慌てて身を離した。
「冗談だよ」
くすりと和人は笑った。
「あんま構えないで、いつもどおりでいて」
そう言うと、指先でユキナの髪を掬う。
「今日はテンション上がって調子乗った。次からユキナのペースに合わせるから。ごめんな」
その柔らかな声に安堵する。
「さて、作業しようか」
和人は机の上のフィルムケースを手に取り、暗室の扉を開けた。
「新しい引き伸ばし機、使い方教えるよ」
先ほどまでの熱を残したまま、ユキナは胸の奥を静かに整え、和人の隣に立った。
暗室に満ちる薬品の匂いが、雨音と混じり合っている。
夢と現実の境が曖昧になり、先ほどのキスが、どこか遠い夢の中で起きたことのように思えた。




