第52章
雨は夜じゅう降っていた。
明け方になっても止む気配がなく、窓ガラスを叩く音が部屋を満たしていた。その雨音をどこか意識の遠くで聞きながら、樹は浅い眠りを繰り返していた。
朝のニュースでは、市内の川が氾濫したと伝えていた。画面いっぱいに映る濁った流れを見ながら、こんな雨はまだ続くのだと思った。
四時間目、本来なら校庭で行うはずだった体育は、体育館へ変更になった。
昼休みを告げるチャイムと共に体育館を出ると、渡り廊下の向こうには鉛色の空が広がっていた。低く垂れ込めた雲は、どこまでも途切れそうになかった。
樹はジャージ姿のまま校舎へ戻り、その足で紗江の教室へ向かった。
窓を打つ雨音は途切れることがなく、まるで学校全体を包み込んでいるようだった。
入り口に立ち、教室の中を見渡すと、クラスメイトと話していた紗江と目があった。
樹が軽く手を上げると、彼女が息を飲むのがわかった。友人たちに小さく声をかけ、足早にこちらへ歩いてきた。
不安を顔いっぱいに浮かべている彼女を見て、胸が焼けるように苦しくなった。
「大杉くん」
「悪い。有森、今日放課後時間ある?」
「……うん。大丈夫、だよ」
紗江の声は、かすかに震えていた。
「ホームルーム終わったら、図書室に来てほしい」
「……わかった」
「じゃあ、放課後」
それだけ言って樹は背を向け、歩き出した。
振り返らなくても、紗江がその場から動けずにいる気配だけは背中に残っていた。
* * *
放課後の図書室には、まだほとんど人影がなかった。
樹は窓際のいつもの長机に座り、開いた参考書へ視線を落としていた。
司書の市原が本を棚へ戻す物音が、奥の書架からかすかに届く。それもほどなく雨音に溶け、世界は再び雨に閉ざされた。
「お待たせ」
不意に声がした。顔を上げると、紗江が長机の前に立っていた。
「有森、ごめんな呼び出して」
樹は机の上の勉強道具を手早くまとめた。
「ううん。私も話したかったし……」
紗江は静かに椅子へ腰を下ろす。
「有森に、今までのこと謝りたくて」
一度息を吐き、樹は静かに頭を下げた。
「本当にごめん」
紗江は何も言わず、その姿を見つめていた。
しばらくして、口を開く。
「あの、ごめんっていうのは……私はどう受け取ればいいのかな」
「あんなことしておいて、ちゃんと向き合わないで逃げた」
「あんなことって――」
紗江は言いかけたまま、視線を落とした。
しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと話し出した。
「私にとっては、"あんなこと"でも、"ごめん"なことでもないよ」
その言葉を聞いた瞬間、世界が反転した気がした。
赦されるとも赦されたいとも思っていなかった。それでもただ謝りたかった。
悲しみに沈む紗江の顔を見て、樹は知った。
謝罪は、ときに相手の傷口をさらに抉るのだと。その瞬間、それはただの自己救済でしかなくなる。
それに気づいたとき、樹の心はどこにも居場所を失った。
自分の欲で彼女の心を踏み躙り、深く傷つけてしまったのだと思っていた。
樹にとってそれは、"あんなこと"と呼ぶに相応しい最低な行いであり、心からの謝罪のつもりだった。
しかしそれ自体が身勝手な利己心だったのだ。
「だって――だって。私が、誘った」
途切れ途切れに言った紗江の目に、涙が滲む。今にも溢れそうに、ふるふる揺れている。
彼女は好きだと言ってくれた。どれだけ独りよがりな抱き方でも、優しくすべてを受け入れてくれた。それは紛れもなく、彼女の愛情だった。
「私があまりにも必死だったから、大杉くんは合わせてくれただけだよ」
「ちが――」
「そうなの。大杉くんは優しいから、断れなかっただけ」
「有森、それは違う」
「あんなことじゃない……。ごめんじゃ、ないんだよ」
紗江の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
「俺、ユキのことが好きなんだ」
言った瞬間、紗江の瞳は大きく見開かれた。
「恋愛感情抱いてることをはっきり自覚したのは、ここ数日なんだ」
言葉を失った様子の紗江は、呆然と話を聞いていた。
「俺、有森のこと初めて見たとき、すげえ可愛いって思った。話すようになってからも惹かれてた。それは全部本当なんだ」
紗江の唇は、小刻みに震えている。
「それが真っ当な恋愛感情なんだと思い込もうとしてた」
樹は淡々と話し続けた。
「ユキと、幼馴染としての関係を壊すのが、俺にとって何よりも怖かった。だから自分の気持ちを認めたくなかった」
深く息を吸って、紗江をまっすぐ見た。
「有森とすれば、本当に好きになれるかもしれないって期待してた。でもそれで、俺はやっぱりユキが好きなんだって確信した」
雨音に混じって、遠くからカードリーダーの音がする。
「ユキの気持ちが違う人のところにあるってわかってた。だから、ほとんど投げやりな状態で有森と関係持ち続けてた。このままじゃダメだって思いながら、何度も」
紗江は次々に溢れ出る涙を拭うこともせず、ただ黙って樹を見ていた。
しばらくして、彼女は口を開いた。
「大杉くんの目に、私が写っていないことなんて最初からわかってたよ。何か大きなものを抱えていて、苦しんでいるのも全部わかってた。それでも、心の拠り所になれたら一緒にいてくれるかもしれないなんて。何かに囚われて動けない大杉くんの気持ち利用したのは、私の方」
「有森はちゃんと気持ち伝えてくれただろ。俺はその気持ちを無視し続けた。有森は何も悪くない」
再び深く頭を下げる。
「ごめん」
ただのエゴだとわかっていながらも、謝るしか出来なかった。謝らずにはいられなかった。
「俺、昨日ユキに気持ち伝えて振られたんだ。有森とも、ちゃんと向き合いたかった」
「私、大杉くんの腕の中にいるとき、ちゃんと幸せだったもん。髪を撫でてくれて嬉しかった。大杉くんはずっと優しかった。別に謝られるようなことじゃない」
紗江は少し黙ってから、言った。
「謝られるだけ惨めになるから、やめて」
「有森……」
「大杉くんって、本当に不器用なんだね。そういうところも好き」
「なんでこんなクズをそんなに――」
「私の好きな人のこと、クズって言わないで。大杉くんは良いところたくさんある。クズなんかじゃない」
「有森……。本当に、ごめ――」
言いかけた瞬間、紗江は腕につけていたシュシュを投げつけた。
「やめてってば。このことについては、私の意思。だからもうこれで、ごめんは終わりね」
紗江はそう言うと、席を立った。
少し歩き出したところで足を止めて、紗江は振り返った。
「大杉くん」
樹は神妙な面持ちで紗江を見つめた。
「また明日」
そう言うと、紗江は足早に図書室を出て行った。
自分が壊したと思っていたものを、紗江は壊れた形で受け止めてくれていた。
広く強かな愛で、そのまま包もうとしてくれていた。
彼女は、傷つけられた可哀想な人なんかではなかった。
樹は机の上に転がるシュシュを手に取り、握りしめた。
――ありがとう……。




