表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/52

第52章

 雨は夜じゅう降っていた。


 明け方になっても止む気配がなく、窓ガラスを叩く音が部屋を満たしていた。その雨音をどこか意識の遠くで聞きながら、樹は浅い眠りを繰り返していた。


 朝のニュースでは、市内の川が氾濫したと伝えていた。画面いっぱいに映る濁った流れを見ながら、こんな雨はまだ続くのだと思った。


 四時間目、本来なら校庭で行うはずだった体育は、体育館へ変更になった。


 昼休みを告げるチャイムと共に体育館を出ると、渡り廊下の向こうには鉛色の空が広がっていた。低く垂れ込めた雲は、どこまでも途切れそうになかった。


 樹はジャージ姿のまま校舎へ戻り、その足で紗江の教室へ向かった。


 窓を打つ雨音は途切れることがなく、まるで学校全体を包み込んでいるようだった。


 入り口に立ち、教室の中を見渡すと、クラスメイトと話していた紗江と目があった。


 樹が軽く手を上げると、彼女が息を飲むのがわかった。友人たちに小さく声をかけ、足早にこちらへ歩いてきた。

 不安を顔いっぱいに浮かべている彼女を見て、胸が焼けるように苦しくなった。


「大杉くん」


「悪い。有森、今日放課後時間ある?」


「……うん。大丈夫、だよ」


 紗江の声は、かすかに震えていた。


「ホームルーム終わったら、図書室に来てほしい」


「……わかった」


「じゃあ、放課後」


 それだけ言って樹は背を向け、歩き出した。


 振り返らなくても、紗江がその場から動けずにいる気配だけは背中に残っていた。


* * *


 放課後の図書室には、まだほとんど人影がなかった。


 樹は窓際のいつもの長机に座り、開いた参考書へ視線を落としていた。


 司書の市原が本を棚へ戻す物音が、奥の書架からかすかに届く。それもほどなく雨音に溶け、世界は再び雨に閉ざされた。


 「お待たせ」


 不意に声がした。顔を上げると、紗江が長机の前に立っていた。


「有森、ごめんな呼び出して」


 樹は机の上の勉強道具を手早くまとめた。


「ううん。私も話したかったし……」


 紗江は静かに椅子へ腰を下ろす。


「有森に、今までのこと謝りたくて」


 一度息を吐き、樹は静かに頭を下げた。


「本当にごめん」


 紗江は何も言わず、その姿を見つめていた。


 しばらくして、口を開く。


「あの、ごめんっていうのは……私はどう受け取ればいいのかな」


「あんなことしておいて、ちゃんと向き合わないで逃げた」


「あんなことって――」


 紗江は言いかけたまま、視線を落とした。

 しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと話し出した。


「私にとっては、"あんなこと"でも、"ごめん"なことでもないよ」


 その言葉を聞いた瞬間、世界が反転した気がした。


 赦されるとも赦されたいとも思っていなかった。それでもただ謝りたかった。


 悲しみに沈む紗江の顔を見て、樹は知った。


 謝罪は、ときに相手の傷口をさらに抉るのだと。その瞬間、それはただの自己救済でしかなくなる。


 それに気づいたとき、樹の心はどこにも居場所を失った。


 自分の欲で彼女の心を踏み躙り、深く傷つけてしまったのだと思っていた。

 樹にとってそれは、"あんなこと"と呼ぶに相応しい最低な行いであり、心からの謝罪のつもりだった。


 しかしそれ自体が身勝手な利己心だったのだ。


「だって――だって。私が、誘った」


 途切れ途切れに言った紗江の目に、涙が滲む。今にも溢れそうに、ふるふる揺れている。


 彼女は好きだと言ってくれた。どれだけ独りよがりな抱き方でも、優しくすべてを受け入れてくれた。それは紛れもなく、彼女の愛情だった。


「私があまりにも必死だったから、大杉くんは合わせてくれただけだよ」


「ちが――」


「そうなの。大杉くんは優しいから、断れなかっただけ」


「有森、それは違う」


「あんなことじゃない……。ごめんじゃ、ないんだよ」


 紗江の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。


「俺、ユキのことが好きなんだ」


 言った瞬間、紗江の瞳は大きく見開かれた。


「恋愛感情抱いてることをはっきり自覚したのは、ここ数日なんだ」


 言葉を失った様子の紗江は、呆然と話を聞いていた。


「俺、有森のこと初めて見たとき、すげえ可愛いって思った。話すようになってからも惹かれてた。それは全部本当なんだ」


 紗江の唇は、小刻みに震えている。


「それが真っ当な恋愛感情なんだと思い込もうとしてた」


 樹は淡々と話し続けた。


「ユキと、幼馴染としての関係を壊すのが、俺にとって何よりも怖かった。だから自分の気持ちを認めたくなかった」


 深く息を吸って、紗江をまっすぐ見た。


「有森とすれば、本当に好きになれるかもしれないって期待してた。でもそれで、俺はやっぱりユキが好きなんだって確信した」


 雨音に混じって、遠くからカードリーダーの音がする。


「ユキの気持ちが違う人のところにあるってわかってた。だから、ほとんど投げやりな状態で有森と関係持ち続けてた。このままじゃダメだって思いながら、何度も」


 紗江は次々に溢れ出る涙を拭うこともせず、ただ黙って樹を見ていた。


 しばらくして、彼女は口を開いた。


「大杉くんの目に、私が写っていないことなんて最初からわかってたよ。何か大きなものを抱えていて、苦しんでいるのも全部わかってた。それでも、心の拠り所になれたら一緒にいてくれるかもしれないなんて。何かに囚われて動けない大杉くんの気持ち利用したのは、私の方」


「有森はちゃんと気持ち伝えてくれただろ。俺はその気持ちを無視し続けた。有森は何も悪くない」


 再び深く頭を下げる。


「ごめん」


 ただのエゴだとわかっていながらも、謝るしか出来なかった。謝らずにはいられなかった。


「俺、昨日ユキに気持ち伝えて振られたんだ。有森とも、ちゃんと向き合いたかった」


「私、大杉くんの腕の中にいるとき、ちゃんと幸せだったもん。髪を撫でてくれて嬉しかった。大杉くんはずっと優しかった。別に謝られるようなことじゃない」


 紗江は少し黙ってから、言った。


「謝られるだけ惨めになるから、やめて」


「有森……」


「大杉くんって、本当に不器用なんだね。そういうところも好き」


「なんでこんなクズをそんなに――」


「私の好きな人のこと、クズって言わないで。大杉くんは良いところたくさんある。クズなんかじゃない」


「有森……。本当に、ごめ――」


 言いかけた瞬間、紗江は腕につけていたシュシュを投げつけた。


「やめてってば。このことについては、私の意思。だからもうこれで、ごめんは終わりね」


 紗江はそう言うと、席を立った。


 少し歩き出したところで足を止めて、紗江は振り返った。


「大杉くん」


 樹は神妙な面持ちで紗江を見つめた。


「また明日」


 そう言うと、紗江は足早に図書室を出て行った。


 自分が壊したと思っていたものを、紗江は壊れた形で受け止めてくれていた。

 広く強かな愛で、そのまま包もうとしてくれていた。


 彼女は、傷つけられた可哀想な人なんかではなかった。


 樹は机の上に転がるシュシュを手に取り、握りしめた。


――ありがとう……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ