第51章
「キスしたい」
不意をつく和人の言葉が、彼の腕の中にいるユキナの心臓に電流を走らせた。
「――けど、しない」
ユキナは戸惑いの表情を浮かべる。
「そんなことしたらユキナをまた悩ませるだけなのはわかってる。それに俺、家入る前何もしないって言ったし」
体を離し、ユキナを見つめた。
高揚に染まった頬。瞳は、戸惑いに揺れている。
「あー。くそ……だめだ」
和人の顔が近づく。
――彼を拒む気持ちは全くない。けれど、こんな散らかった心のままでは、受け入れることもできない……。
困惑するユキナの額に、和人の額がこつんと触れた。
互いの息が触れる距離で、時間が止まったようだった。
「ちくしょう。可愛い」
和人は悔しそうに漏らした。
「明日、答え聞かせて。放課後部室にいるから」
和人の言葉に、ユキナは深く頷いた。
「そろそろ乾燥終わったかな。待ってて。駅まで送るよ」
和人が部屋を出ても、ユキナの鼓動は少しも落ち着いてはくれなかった。
額に残る体温が、いつまでも消えなかった。
* * *
『話があるんだけど』
その夜、ユキナは樹にメッセージを送った。
間もなく、電話が鳴る。
「はい」
「俺も話したかった。今から行く――いや、どっか……外のほうがいいか」
「今日みたいなことしないって誓うなら信じるから、部屋に来て」
「誓う。行く」
樹は即座にそう答え、電話を切った。
やがて、彼の気配を音が運んできた。
インターホン。ジョンの吠える声。階段を上がる足音――そして、部屋のドアがノックされた。
「入るぞ」
「うん」
部屋に入ってきた樹は、いつものようにベッドへ向かわず、ドアの前にすぐ腰を下ろした。
先ほどの誓いを守るという、彼なりの意思表示なのだとわかった。
「大丈夫だったか、雨」
思いがけない言葉だった。
「……ずぶ濡れ」
「だよな」
樹は右の口角だけを上げて笑った。
その後、どちらもしばらく口を開かなかった。部屋に沈黙が訪れる。
「中学の頃」
先に沈黙を破ったのは、樹だった。
「何度かお前を押し倒しそうになったことがあった」
ユキナは思わず樹へ視線を向けた。
彼はドアに背をもたせかけ、天井を仰いでいた。
「それが恋愛感情なのか性欲なのかわかんなかった。このままお前に関わり続けたら、いつか手出しちまうんじゃねえかって怖くなった。んで、意図的にお前のこと避けてた」
「……あの頃全然会わなくなったのって、避けてたからだったの?」
「部活忙しくなったのもあったけど。家出る気配感じたら時間ずらしたり、学校で見かけたら別の方に行ったりはしてた」
先ほどから彼がジャージのポケットに入れた手で、タバコを触っていることに、ユキナは気づいていた。
「……吸えば」
ユキナが窓際を指差すと、樹は意外そうな顔でこちらを見た。
「窓開けてね」
ユキナがそう告げると、樹は立ち上がって窓際へ移動した。
ポケットからタバコと携帯灰皿を取り出す。机の前の回転椅子に腰掛け、窓を開けた。
「高校で離れられると思ってたのに、お前も志望校同じだって聞いた時はマジで焦ったよ。俺、既に特待決まってたから、今更変えられねえしって」
灰皿を窓の下枠に置き、タバコに火をつける。
「……そんなに嫌だったわけ」
「傷つけるのがな」
言い切った樹の顔に、嘘はなかった。
「まあ、お前は普通コースですら受かんねえだろうと思ってたら、受かっちまって」
「……泣きながら勉強したもん」
「普通コースで?」
「うるさいな」
ふと彼は笑った。
目尻がくしゃりと下がり、眉が柔らかく垂れる。昔から見慣れたその表情が、なぜか胸を苦しくさせた。
「高校上がってからは、もう覚悟決めたっつーか。俺だけ意識してる感じも悔しかったし、全く絡まないのも不自然だと思った」
そこで一度、言葉を切った。
「そしたら……やっぱ、中学の頃と同じだった」
「同じ?」
樹はタバコの先端に灯る火を見つめた。
「お前に触れたくてしょうがなかった。生き地獄だったよ」
言葉を失った。彼をそこまで苦しめていたことに、全く気づけなかった。
「寝てるお前にキスしたこともある」
「……は?」
「チャリで登校した日あったろ」
「……最近じゃん」
「寝顔見てたら魔が差した。そっから本格的に怖くなった。俺はいつかお前にもっと酷いことをしてしまうって」
そう言った彼の表情は苦痛に満ちていて、ただ彼だけを責める気にはなれなかった。
「お前が写真部入ってから、明らかにイラついてる自分にも気づいてた」
樹はゆっくりと煙を吐いた。
「まあ、有森のことはマジで好みだったし、話すようになってからは惹かれてた。最近は向こうからの好意にも気づいてた」
ユキナは、膝の上で手を握りしめた。
「なんて言えば伝わるのかわかんねえけど」
言葉を探すように少し黙ってから、彼は続きを口にした。
「昔からお前には特別な感情があった。それは間違いない。でも、このまま光樹たちみたいな関係性になっていくのは、本当に俺の意志なのか、流されているだけじゃないのか……っていう疑問が、昔からあった」
彼の言っていることは、よくわかった。
近すぎるせいで、自分の感情を改めて客観視できないのは、ユキナも同じだったからだ。
「勢いで進めてみたけどやっぱりダメだったってオチになったら、お前との関係終わるし。そしたら一生後悔すると思った」
返事もせず、その言葉をただ聞いていた。
「何年も呪いのように付きまとう、お前への罪悪感を拭い去りたかった。そんな自分勝手な理由で有森を利用した」
「……罪悪感って?」
「性的対象として見てることへの。俺、中学の頃からお前のこと考えて抜きまくってるから。それはもう毎晩のように」
絶句するユキナを、樹は片手で制した。
「言いたいことはわかる。でもそれ以上は言ってくれるな」
「……きもい」
「お前、言うなって。俺はこう見えてガラスのハートなんだぞ」
「……知ってる」
開いた窓から、夜風が流れ込む。
樹は、ユキナの言葉に力なく笑った。
――そんなこと、知ってる。
彼の繊細なところは、誰よりもわかっている。
朝目覚めるのが怖くて、手を繋いでいないと夜を超えられなかった。
誰かの背中を追いかけたくなくて、鬼ごっこができなかった。
彼を強く拒めなかったのは、あの日の小さな少年が行き場を失ったまま、今もここにいることを知っていたからだ。
「お前へのよくわかんねえぐちゃぐちゃした感情よりも、有森を可愛いと思う気持ちとか、もっと話したいって気持ちの方が、健全な恋愛感情だって思い込みたかったんだよ。そっちのがわかりやすくて楽だった」
灰皿に、トン、と灰を落とす。
「でも最初はマジで勉強教えて、少し話して帰ろうと思ってたんだけど――」
言いづらそうに眉を寄せ、短く息を吐く。
「いざ二人きりになったら、なんか近いし良い匂いするし」
ユキナがじろりと睨むと、樹は僅かにたじろいだ。
「わかってる……そんな目で見るなよ」
樹はため息をついた。
「お前が早朝にあいつに車で送ってもらうの見たとき、完全に付き合ってるんだと思って、なんか全部どうでもよくなったっつーか……自暴自棄になった」
「でもやったあとから――いや。やってる間もずっと、ユキのことばっか頭に浮かんで、心底後悔した。それでやっと自分の気持ちに確信持った」
部屋に沈黙が落ちた。
「やってみたら違ったとか、そんな最低なこと有森に言える訳ねえし」
そう言った樹は、苦々しげに顔を歪める。
「もしかしたらこれから好きになれるかもとか……考えたりもした」
「……紗江、関係持ってからたつの態度が変わったことにショック受けてるみたいだった。それでもたつのこと一言も悪く言わなかった。自分ばっかり責めてた。でも……たつの行動はそういう目的だったと思われても、仕方ないと思う」
「ああ」
樹は頷いた。
「それが目的だったわけでは絶対ねえけど、付き合う気もねえのにやりまくったのは事実だよ」
「ひどいよ……そんなの」
開いた窓の向こうから、遠くを走る車の音が聞こえた。
「どうするの? 紗江のこと」
「明日ちゃんと話す。許してもらえなくても謝る」
そう言った樹の顔は、これまで見たことがないほど真剣だった。
「ユキ。好きだ。幼馴染としてじゃない」
「……たつのその気持ちは……やっぱり独占欲だと思う」
ユキナは呟くように言った。
「違う。俺はずっとユキだけが好きだったってわかった」
「もう傷つけない。絶対に」
黙ったままのユキナに、樹は言った。
「俺じゃダメか」
今にも壊れそうな、その目に負けそうになりながら、ユキナは言葉を紡いだ。
「私、和人が好き。彼といるときの自分も好き。色んなことに胸を躍らせて、笑顔でいられる」
樹の瞳の奥にあった灯火が、完全に消えた瞬間を見た。
彼の脆さや弱さ、そして優しさ。
それらを受け止めながら共に過ごした幾つもの日々が、ユキナの脳裏に溢れ出す。
――誰にも嘘をつかないって、こんなにも残酷なんだ。
決心が揺らぎそうになる。
ユキナは拳に力を込め、再び言葉を紡いだ。
「きっと、私もたつのことずっと好きだった。でも最近たつのことがよくわからないの。変わっちゃったなって思うことばかりで――」
彼はただ話を聞いていた。
視線はこちらに向けられているはずなのに、彼がどこを見ているのかわからなかった。
心が折れそうになる。
それでも、ユキナは話すことを止めなかった。
「なにより……。どんな理由があっても、紗江と向き合うことから逃げて、有耶無耶にしたままなんて……そんなひどいことできる人だと思わなかった。今はたつのことが信じられない。こんな気持ちのまま一緒にいたって、またぶつかり合うだけだよ」
ユキナは深呼吸をして、言った。
「だから、たつとは付き合わない」
樹は一度だけ視線を落とし、また顔を上げた。
「……あいつと付き合うのか」
消え入りそうな低い声で、樹は言った。
「うん。明日返事することになってる」
「まあ、そりゃそっち選ぶよな。俺は振られるの覚悟してきたから」
聞いたことのない樹の弱気な言葉に、ユキナは胸が締めつけられるのを感じた。
あの目――光の届かない、夜の海。
自分がそうさせていることから、逃げてはいけないと思った。
「明日からもう登下校は別々な。勉強も、これからはあいつに聞いて」
「うん……」
「じゃーな」
ユキナは部屋を出ていく樹の背を見送りながら、胸に湧き上がる感情を必死で鎮めた。
それは、この世に存在するどの言葉でも表せない、名もなき感情だった。




