第50章
部屋の隅に立てかけられた三脚の影が、淡く壁に落ちていた。
ユキナは深く息を吸う。
その強張った面持ちを見て、和人は口を開いた。
「ノーベル呼吸賞?」
彼の声は軽かった。
ユキナは小さく吹き出す。張り詰めていた空気がわずかにほどけた。
――理科室のラクガキ。あの時、どれだけ救われただろう。
心を落ち着かせたい時に深呼吸をするようになったのは、和人のラクガキのおかげだった。
彼は、知り合う前から既に、さりげなく気持ちに寄り添い、不安を和らげてくれていたのだ。
「なんか、既に懐かしいな」
ユキナが言うと、
「我ながらくだらねえな」
と和人は笑った。
けれどやがてその瞳はまっすぐにこちらを見据えて、静かな声で言った。
「ユキナ。大丈夫?」
伏せていた視線がゆっくり持ち上がる。
「和人。私ね……」
「うん」
彼の相槌は優しかった。
「前にも言ったけど、ずっとたつのことが好きだったんだと思うの」
やっと口にできた想いを受け止めるように、和人はゆっくり頷く。
「それは私の中で、改めて考えたこともないくらい当たり前のことで――」
言葉を探すように視線が上を向く。
「でも、中学になってたつが部活で忙しくなってから、少し疎遠になった時期があって。たまに鉢合わせたりした時に、少し言葉交わすくらい」
「うん」
「同じ高校になってからは、また前みたいに一緒にいるようになったの。同じ時間の電車に乗るから自然と。たつが部活辞めてからは、下校するのも毎日一緒だった」
時計の音だけが静かに響く。
「でも、話さなかった時期にお互い成長したからか、昔よりたつのことがわからないって思うことが増えた。憎まれ口ばっかり叩いてきたり、急に冷たくなったり。そんな態度にしょっちゅうイライラして――最近は、自分の気持ちもよくわからなくなってた」
「うん」
「それで――」
言葉に詰まり、視線を落とす。
指先がマグカップの縁を無意識になぞった。
「今日、あのあと部室を出たら、西階段のところでたつが待ってた。その帰り道で、ずっと好きだったって言われたの」
少しの沈黙のあと、和人が尋ねる。
「……それで、ユキナは?」
「なんとも言えない気持ちになった」
「なんとも言えない気持ち?」
「私の友達、たつのことが好きなの。たつも前からその子がタイプだって言ってて、二人、良い雰囲気だった。初めは毎日そのことでモヤモヤしてたんだ。あのラクガキも、その時期の」
言ったあと、少しだけ表情が和らぐ。
「でもね。最近はカメラ触ってるとすごく楽しいの。放課後に部室へ行くのが楽しみで、もっと写真のこと知りたいって思う。毎日が充実してる」
和人は微笑みながら頷いた。
「だから今は、二人が仲良くしていても、前ほど動揺しなくなってた」
そして再び表情が曇る。
「それでね、さっき――」
視線が和人へ向いた。
「キスされたの」
和人はテーブルに手を置いた。ほんの僅かに前へ身を乗り出す。
「無理矢理されたのか」
いつもより低い声だった。
「拒否しようと思えば出来た。でも、動けなかった」
喉の奥が詰まる。
――どう思われたって、自業自得だ。
「和人が好きって言ってくれて嬉しかった。その気持ちに誠実に向き合おうと思ってた。親友がたつのことを本気で好きなのも知ってた」
中庭で見た紗江の真っ直ぐな瞳が脳裏をよぎる。
「それなのに、私は強く拒めなかった」
ずるくて臆病なのは樹ではない。
誰にもちゃんと気持ちを向けられない自分だ。
「みんなのいろんな思いを、踏み躙った」
涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「和人にはいつも助けてもらってるのに」
嗚咽が漏れる。
「でもずっと返事を先延ばしにしてた。たつにも、しっかり返事をしたわけじゃない。喧嘩になって、走ってその場から逃げたの」
震える声で続けた。
「キスのことも、本当は話さないつもりだった。何もなかったことにして、また和人に優しくしてもらおうとしてた……」
言葉の終わりに嗚咽が混じる。
「自分が傷つくのも誰かを傷つけるのも怖くて、何も行動できなかった。こんな私が和人と一緒にいることなんてできない。この先、きっとたくさん傷つけてしまう……」
視界が涙で滲む。
次の瞬間、柔らかな温もりが肩を包んだ。
気づいた時には、和人の腕の中だった。
「いいよ。傷つけてよ。ユキナが泣いてるのに何もできないでいるより何倍もマシだ」
そう言って髪を撫でる手は、驚くほど優しかった。
「ユキナにこんな顔ばっかりさせるあいつが許せない」
和人は続けた。
「俺が待つって言ったのは、ユキナの中にあいつがいる状態で答えを急かしたくなかったから。ユキナは優しいから、板挟みになって苦しむってわかってた」
「和人……」
――違う。優しくなんかない。
「それを、あいつ――」
声に怒りが滲む。
「中途半端なことしやがって。クソ野郎」
抱き寄せる腕に僅かに力がこもる。
「でも。あいつだから、こんなに泣くんだろうな。悔しいけど、ユキナの中でそれだけ大きな存在なんだと思うと、羨ましくもあるかな」
その声に切なさが滲んでいるのがわかり、喉の奥が痛いほど苦しくなる。
「ごめん。和人、ごめんね」
「謝るなよ」
「私が一番嫌なやつだ。たつのこと、自己中で、強引で、エロくて、最低だって腹が立ってたけど……。一番最低なのは、何一つハッキリできない私だ」
和人はそっと肩を離した。
「ユキナ。誰だって、できることなら傷つかずに幸せになりたい。何かを選択する時に慎重になるのは、それだけ真剣に考えてるからだよ。俺はユキナを最低なんて思わない」
その目は揺らがない。
「それに」
短く息を吐く。
「俺、その幼馴染は嫌いだけど、同じ男として全く理解できないわけじゃない」
「和人とたつは全然違うよ」
「そ? 俺もエロいよ?」
あまりにもあっさり返されて、ユキナは思わず吹き出した。
「……そこ?」
「男なんて考えてることは大体同じだって」
「でも、撮影に行ったあの日、車で寝るって言ってくれたでしょ。和人は誠実だよ」
「あれは、そうしなきゃ自制がきかないと思ったからだよ」
和人は苦笑した。
「ユキナの浴衣姿が、可愛すぎて」
思わず口を噤む。
「俺はあの状況で誠実でいられる自信なんて全くなかった」
「でも、今だってさりげなくカーディガン貸してくれた」
「それも、俺のため」
和人は肩をすくめた。
「たつに言われたの。無防備すぎるのは罪だって」
「それは俺も同意かな。ユキナはもう少し警戒心持った方がいい」
「うん……。和人に言われて、今やっと自覚した」
「自分の魅力に気づいていなさすぎる」
「魅力?」
「そう。いろんな魅力」
「そうかなぁ……」
「――で。こういう話になったついでに言わせてもらうけど。ずっと気になってたことがある」
「えっ。なに……?」
「制服のベスト、脱がないほうがいい」
心臓が一拍遅れて跳ねた。樹に同じことを言われたばかりだった。
「シャツの胸元、ボタンのとこいつも隙間空いてる。たまに下着も透けてる。温泉でも、浴衣の胸元緩んでたの気づいてなかっただろ?」
ユキナの瞳が大きく揺れる。
和人はそっと掴むように、彼女の指先を握った。
「俺といる時だけならラッキーで終われるんだけどね?」
冗談めかした声だった。
「まあ、それだけじゃ終われない可能性が高かったから、あの日は車に戻ったんだけど」
ユキナは言葉を失う。
「彼氏でもないのに、さすがにそこまでは指摘できなくてさ」
「ごめんなさい……」
「俺に謝ることでもないんだけど」
和人は苦笑した。
「ただ、もう少し気をつけてもらえると、男としては助かります」
「はい……」
「良かった。やっと言えた」
安堵したように息を吐く。
「なんか……本当に、色々気づかないやつでごめんね」
「まあ、その能天気なところが可愛いんだけど」
ぽん、と頭に手を置く。
「学校には大量の思春期男子がいるんだから。もう少しだけ自覚持って」
ユキナは小さく身を縮めた。
和人はそんな彼女の髪に触れ、耳にかけるように整える。
「俺がのんびりしてる間に、ユキナがあいつに泣かされたり、キスされたり」
その眼差しは静かで、それでいて強かった。
「もう限界だ。ユキナ、俺と付き合って。必ず大切にする」
そう言って、和人はもう一度ユキナを抱き寄せた。
肩を包む腕は優しく、それでも離したくないという意思だけは伝わってくる。
温もりに包まれながら、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
目を閉じる。
このまましがみつきたい気持ちでいっぱいだった。
ただ身を委ねたかった。
ついさっき樹に流されたばかりで、今は和人の腕の中で安らいでいる。
そんな自分に嫌気が差した。
彼を拒む理由なんてひとつもない。
それでも、どこかに何かを置いてきたままのような気がして、思いをうまく言葉にできなかった。
雨はまだ止まない。
切り離された空間の中で、和人だけが静かに全てを包み込んでくれているようだった。




