第49章
「どうぞ」
玄関のドアを押さえながら、和人は言った。ユキナはおそるおそる玄関へ足を踏み入れる。
「お邪魔します……」
遠慮がちに視線を泳がせたあと、ユキナは尋ねる。
「おうちの人は?」
「母親は仕事、兄貴は一人暮らし。誰もいないから気にしなくていいよ」
ユキナは、こくりと小さく頷いた。
「待ってて」
和人は洗面所へ向かい、タオルを持って戻ってきた。
濡れた髪をそっと包み込むように拭われ、ユキナは思わず肩をすくめる。
「ありがとう」
ユキナの言葉に優しく微笑み返すと、そのタオルを彼女の肩にかけた。
「部屋こっち」
先に階段を上がっていく背中を、慌てて追いかけた。
一般的な家庭のそれ程長くもない階段なのに、なぜか息が切れた。
自分がひどく緊張していることに遅れて気づき、ユキナは動揺した。
階段を上がると細く続く廊下があった。その突き当たりにある部屋に入ると、和人は持っていた鞄を床に置いた。
「これ教科書もやばそう」
そう言いながら、しゃがみこんで自分の鞄の中を見る。
「ああ……そうでもないか。ユキナは? リュックの中、大丈夫――」
和人はユキナを見上げ、落ち着かない様子で立っている彼女に気づき、口を噤んだ。
「ユキナ、とりあえず着替えたほうがいい」
「え?」
和人はクローゼットを開け、衣装ケースから、黒いTシャツと黒いスウェットズボンを出し、ユキナに差し出した。
「それ着たままだと風邪引くから、とりあえずこれ着てて。濡れた服、洗濯して乾燥機にかけるから。1時間半くらいかな」
「そんな……、大丈夫」
ユキナは慌てて首を振った。自分でも赤面していることがわかるほど、顔に熱が集まっていく。
「頼むから変に意識しないでくれ。そんな真っ赤な顔されたら、俺も緊張してくるから」
「あ、ごめ……」
「そんなずぶ濡れのままいさせられないよ。体かなり冷えてたし」
「うん……。ありがとう」
ユキナはTシャツとスウェットを受け取った。
「下で温かい飲み物淹れてくるから、ゆっくり着替えてて。そこのハンガー使っていいから」
「うん」
和人が出ていくと、ユキナはすぐに着替えた。脱いだ制服のスカートを、クローゼットの扉に引っ掛けてあったハンガーにかけ、濡れたブラウスを畳んだ。
呼吸を整えながら、部屋を見渡した。
机の上の現像液の瓶、吊るされたモノクロのプリント、展示品かのように整然と並べられたカメラたち。黒布で仕切られた一角は、多分手作りの暗室。
窓の下の棚にはバスケットシューズとボール。過去と今が、同じ場所に静かに並んでいる。そのバランスが、和人そのもののように思えた。
ふと、机の上のコルクボードへ目が留まった。
吹きガラス体験をしているときの、自分の写真。
炉の熱を見つめる真剣な横顔が切り取られている。上手に撮ってくれたからだとわかっていても、写真の中の自分は実物より素敵に見えた。
コルクボードの中央には、その一枚。
周りを囲むように、岬で撮った風景や野鳥の写真が並んでいる。
ふと、自分の写真だけ、透明なスリーブに収められていることに気づいた。
写真用紙には画鋲の穴ひとつなく、留められているのはスリーブの端だけだ。
たった一枚だけ、丁寧に守られている。まるで、自分だけは傷つかないよう、大事に扱われているみたいだった。
その事実が、自分自身を大切にしてもらえたような錯覚を連れてきた。
しばらくして、和人がドア越しに声をかけてきた。
「ユキナ、開けていい?」
「あ……はいっ。どーぞ」
ユキナが返事をすると、和人はドアを開けた。片手には、マグカップが二つ乗った小さなトレイがある。
「ココアと紅茶。どっちがいい?」
「あ、じゃあ…ココア」
「はい」
和人は、水色のグラデーションが施されたマグカップを、ユキナの座るローテーブルの前に置いた。湯気に運ばれて、ココアの甘い香りがふわりと届いた。
「ありがとう」
和人はユキナがカーペットにそのまま座っているのに気づき、近くのビーズクッションを引き寄せた。
「ごめんな、これ使って」
どこまでもさりげなく、どこまでもスマートな和人の横顔を見つめながら、ユキナは先ほどの樹との出来事を思い出し、自然と表情が曇る。
「うん、ありがとう」
「それ、下に持って行っても大丈夫?」
和人はユキナが抱えている、畳まれたブラウスとタオルに目を向けた。
「お願いします」
ユキナはかしこまった様子で、ぺこりと頭を下げる。
受け取ろうと伸ばした和人の手がぴたりと止まった。
「靴下も濡れたろ。嫌じゃなければ」
「あ、じゃあ……お願いします。何から何までありがとう」
「俺がそうしたくて連れてきたから」
和人はそう言うとユキナに背を向け、スマホを操作し始めた。
その仕草に促されるように、ユキナは靴下を脱ぐ。
「雨、予報だと明日まで止まないっぽい」
背を向けたまま、和人は言った。
「そっか」
ユキナは言いながら、靴下をブラウスとタオルの間へ挟む。
「はい。お願いします」
和人は差し出されたものを受け取ると微笑んで頷き、静かに部屋を後にした。
* * *
和人が部屋に戻ると、ユキナは両手でマグカップを包むように持ち、ココアを飲んでいた。
自分の部屋に、自分の服を着たユキナがいる。その光景に、和人は妙な現実感のなさを覚えた。
「半袖、寒くない?」
ローテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。
「あ、うん」
ユキナはさりげなくTシャツの襟元を引き、胸元にゆとりを作った。
濡れた下着の感触がどうしても気持ち悪くて、迷った末に外して鞄へ入れた。
ユキナはその選択を、今になって後悔していた。
和人は彼女の様子を見て、背後のデスクチェアに掛けてあったカーディガンを渡した。
「あり……がと」
受け取ったユキナの声は、自分でも驚くほど頼りなく掠れていた。
全てを見透かされている感覚に、体が熱くなるのを感じた。
「そんな緊張すんなよ……。俺にも移る」
和人は照れたように視線を逸らし、ユキナの顔を片手で隠す仕草をした。
彼が動揺するのを見るのは初めてで、わずかに鼓動が早くなる。
「あの旅館での、何も気にしない感じ知ってるから、調子狂うな」
困ったように笑った彼の言葉に、ユキナは俯いた。
あの日の自分は本当に無知で愚鈍だったと、今更になって思い知った。
「俺が気持ち伝えたせいだよな」
和人は紅茶を一口飲んだ。
「でも前よりは男として意識してくれてるってことだと受け取っておく」
柔らかな彼の笑顔を見ると、ユキナの胸は少しだけ痛んだ。
「まあ濡れた服乾くまで男の部屋で雨やどり……って状況だけ考えたら、かなりベタでエロいシチュエーションだよな。警戒して当たり前か」
和人は軽く肩を竦めるようにして笑った。
「和人でも、エロいとか言うんだ」
ユキナが感心したように呟くと、和人はしばらく黙ったあと、呆れた顔で言った。
「言いますよ……」
彼は深いため息をつき、じっとユキナを見つめる。
「え……なに?」
その視線に居心地が悪くなったユキナは、身を固くした。
「あのさ、ユキナ。ひとつ言いたいんだけど」
その少し低い声に、ユキナは反射的に背筋を伸ばした。
「なにっ?」
「ユキナは、俺のこと買い被りすぎだよ」
そう言って、和人は再び紅茶に口をつけた。ユキナは困惑して、そんな彼を見つめる。
「俺、この前はあんな余裕のある発言したけどさ」
カップを置き、小さく息を吐く。
「俺だって男だから。そういうことばっか頭に浮かんで、必死で戦ってる」
彼は淡々と続ける。
「部室にいる時も平静を装ってるだけで……正直に言うと、ユキナを抱きしめたりキスしたいと思ったこと、何回もある」
昼休みの部室、宿題を教えてもらったあの日――和人の熱のこもった眼差しが、ユキナの脳裏をよぎる。
「一時的な欲に負けてユキナを傷つけるのが怖いから、全力で我慢してるだけ」
和人は俯くユキナを見つめた。
「本当は俺、独占欲むき出しの、ダサい男だから」
ユキナはその言葉に、顔を上げる。
「そんなことない」
「ぶっちゃけると、あの幼馴染と話してるところも見たくない。隣に住んでるなら、しょっちゅう顔合わせることあるんだろうなとか考えて一人で苛ついてた。俺、本当は全く余裕ないんだよ」
そう言った彼の表情に、いつもの柔らかな笑みはなかった。ただ静かに向けられた視線に、彼の思いが滲んでいた。
その優しさに甘えきっていた自分が、あまりに幼稚で、そして残酷だったと思い知る。
こんなにも包み隠さず、ただまっすぐに気持ちを伝えてくれる和人に、不誠実なことはしたくなかった。
――今日の出来事を話さずにいるなんて、絶対にしてはダメだ。
窓を叩く雨音が、静かな部屋に途切れることなく響いていた。




