第48章
部室の窓の外から、雨音が聞こえた。
和人は手を止め、静かに顔を上げる。
さっきまでの陽ざしは消え、窓枠に切り取られた空には、漆黒の蟠竜のような雲がうねっていた。
先に帰ったユキナは、もうとっくに電車に乗っているはずだ……と、安堵する。
先ほど、ユキナの背中が廊下の光に溶けるように遠ざかっていったとき、呼び止めかけた指先を机の縁で止めた。
ドアの閉まる音が、妙に耳に残っていた。
ユキナが去ったあと、しばらくノートパソコンのディスプレイカラーの調整をしていなかったことに気づいて、モニタキャリブレーションの作業をしていた。
パソコンのモニターに次々と色見本が表示され、吸盤で取り付けられた小型のキャリブレーション機器のセンサーが、それを一つずつ読み取っていく。
それを眺めながら、ユキナの力ない笑顔を思い浮かべていた。
数分後、補正プロファイルが自動で適用され、白の硬さがやわらぎ、写真のトーンが自然に整った。
――やっぱり、一緒に帰れば良かった。
ぼんやりとそんなことを思いながら、ため息をついた。
パソコンをシャットダウンし、機器のUSBを外した。部室を後にする。
正面玄関から外へ出ると、校庭はすっかり雨を吸い込んで、濃い茶色に変わっていた。
スクールバッグから折り畳み傘を取り出し、静かに開く。
先ほどの彼女の様子から、何かがあったことは分かりきっていた。
あの時、去り行く彼女にかける言葉はたくさん浮かんだ。それを飲み込んだのは、まだ踏み込んではいけない境界線が、彼の心を阻んだからだ。
出来るなら、引き止めて、抱き寄せて、何か言葉をかけてやりたかった。
自分の腕の中で彼女の笑顔を守れたら、どんなにいいか、と和人は思った。
心の変化に誰よりも早く気づいて、小さな不安の種を見逃さずに掬いとってやれたら。
それでも、それ以上に彼女の気持ちを大切にしたかった。待つと彼女に伝えた日から、その約束を、最後まで守り抜こうと決めていた。
雨の匂いが立ち込め、傘の内側に静かな空気がこもる。
自宅のある、駅の裏通りへ向かっている間にも、雨足はさらに強くなっていった。
ふと、途中の公園のブランコに、誰かが座っているのが見えた。
こんな雨の中、傘もささず――
「ユキナ……?」
それは、とっくに帰ったはずのユキナだった。
* * *
呆然とブランコに座り、地面を見つめていたユキナの視界に、ふっと影が落ちた。
見覚えのあるスニーカーが、ローファーの前に立ち、雨がパラパラと傘を打つ音が耳に届く。
ハッとして顔を上げると、心配そうな顔で傘を差し出す和人がいた。
「どうした?」
自分の傘を彼女の頭上へ差しかけながら、和人は静かに問いかける。
「あ、ううん。何でもない」
ユキナは慌てて涙を拭った。
「何でもなくないだろ。どうしてこんなところで、ずぶ濡れで泣いてるんだよ」
「……あれ、雨、降ってたんだ」
ユキナは空を見上げ、ぽつりと呟いた。
雨が降り出したのは、もう二十分以上も前だった。
地面を強く叩く大粒の雨にさえ気付かないほど、彼女の心はどこかへ遠のいていた――
「大丈夫か」
「ちょっと……考え事してて」
「あれからすぐ帰らなかったのか? あのあと何かあった?」
ユキナの顔を覗き込むと、そっと肩に手を添えた。
「体、冷えきってるぞ。とりあえず行こう。このままじゃ風邪引く」
ユキナの手を引いて立たせた。
彼女の方へ傘を傾けて差すため、和人のシャツの肩と腕はすぐにびしょ濡れになった。
スクールバッグを右肩へかけ、左手でユキナの肩をそっと抱き寄せて歩き出す。
和人の手の温もりに、ユキナは我に返った。
「ごめんね」
言った瞬間、また涙があふれた。
「ごめんなさい……」
「……何が?」
落ち着いた声の裏で、和人の目は揺れなかった。
何がと聞かれると、何に対する謝罪なのか、自分でもわからなくなった。
「……和人も、濡れちゃったね」
「そんなことはどうでもいい」
間髪を入れず返ってきた声の強さに、ユキナは息を飲んだ。
「こんな風になるまで、どうして一人で泣いてた?」
そのまっすぐな視線を受け止めきれず、ユキナは目を逸らした。
雨の音が急に大きくなったように聞こえた。ざあざあと降りしきる音が、心の奥まで入り込んできて、白い線のように視界を覆う。
隣にいるはずの和人の姿さえ、雨にぼやけて見えない気がした。
長いこと黙りこくったままのユキナに、和人はもう何も聞かなかった。
彼女の変化に気づきながらも、あの時引き止めなかった自分に、ただ静かに腹を立てていた。
ユキナは、肩に伝わる和人の温もりを感じながら、俯いて歩いた。
――温かい手。なんて安心するんだろう。
彼はいつも、真っ直ぐな目で、優しい手で、助けてくれる。
――それなのに私は、たつのキスを強く拒むことができなかった。
煮え切らない自分の心に、黒い闇がゆっくりと垂れ込めていく気がした。
「着いたよ」
不意に沈黙を破った和人の声に、ユキナは現実へ引き戻された。
「……え?」
彼が着いたと言ったその場所は、駅ではなかった。
今の今まで、自分がどこを歩いていたのかさえ、気にする余裕もなかった。
「俺んち。とりあえず暖まって行って」
和人は鞄を肩にかけている右手で、玄関前の門の柵を開け、ユキナを促した。
左手は彼女に傘を差し出したままで、和人の体は傘から大きくはみ出ていた。
「あ、でも、私こんなびしょ濡れだし……」
「だから寄ってけって言ってるんだよ」
その声は優しかった。
「俺も濡れてるから気にすんな。話したくないならもう何があったか聞かないから。ただ暖まっていってよ。さすがにこのまま一人で返せない」
「ごめん……」
俯くユキナを見て、和人はふっと笑った。
「何もしないから、そんな困った顔しないでよ」
和人は指紋認証のドアロックを解除し、玄関のドアを開けた。




