第47章
ユキナの言葉に、樹は一瞬で血の気が引いた。
心臓が嫌な音を立てて脈打ち、視界の端がじわりと狭まるような感覚に、無意識に奥歯を噛み締めた。
樹は、ユキナにいつまでも隠し通せると思っていたわけではなかった。実際、毎日彼女の顔色を伺っていた。
それでも、なぜか紗江はユキナには話さないような気がしていた。
その前提が、音もなく崩れ落ちていく。
あれは、どれだけ言い訳を重ねたところで、最低な行為でしかない。
もう終わりだと思った。
「肝心なところに触れないで、そういうことだけして」
ユキナに鋭い視線を向けられ、喉の奥がひりつく。
「その上避けるなんて。紗江は本気でたつのこと好きなんだよ。どれだけ傷ついてるかわかってる?」
呼吸がうまくできなかった。
「紗江、私に、たつもきっと苦しんでるから、何も言わないでって言ってた。たつのことばっかり心配してた。たつは、紗江の気持ち考えたことある?」
樹の脳裏に、紗江の顔が浮かぶ。
優しくて、寂しくて、怖いくらい綺麗な――あの夜、月に照らされた彼女の笑顔が。
押し黙ったままの樹に、ユキナは畳みかけた。
「たつも紗江のこと好きなんでしょ? 避ける理由があるにしても、あの態度は有り得ないよ。紗江、ずっと誰にも言えずに、不安な毎日を過ごしてたんだよ。自分のこと好きって言ってくれてる人のこと、そんな風に傷つけて何とも思わないの? たつがそんな最低なやつだと思わなかった」
樹は立ち尽くしたまま、何も返せなかった。
「私は……私は今、和人に写真のこと教えてもらうことが楽しくて仕方ない。夢に向かってまっすぐな和人を尊敬してるし、応援したいと思ってる。それの、何がいけないの?」
「だから……」
樹はようやく口を開いた。
「だから、それだよ。毎日和人和人って、鬱陶しいんだよ」
「たつにそんなこと言われる筋合いない」
「俺はただお前が――」
「いつも、そうやって、お前お前って……最近私の名前すらまともに呼ばないくせに。紗江のこと好きなくせに。そんな嫉妬みたいな態度とられたら、また……」
――勘違いしてしまう。
その言葉を、ユキナは飲み込んだ。彼は自分のことが好きだなんて、長年思い込んできたことを、知られたくなかった。
「また、なんだよ」
「……」
「なあ」
樹は両手でユキナの肩を掴んだ。その目は、苛立ちとも焦りともつかない光で揺れていた。
「なんだよ。続けろよ」
「離して」
ユキナは顔を逸らした。
「ユキ」
樹の口から聞く自分の名前は、震えていた。
「こっち向け」
樹の低い声に、ユキナの鼓動は早くなる。
「そうだよ嫉妬だよ。ユキあいつと朝帰りしてたよな? あいつと付き合ってるんじゃねえのかよ」
「……違う! あれは撮影で遠出して、帰り道が通行止めで朝になっちゃっただけだよ。たつが考えてるようなことなんて何もない。和人は、そんな人じゃない……!」
『そんな人じゃない』
その言葉は、紗江と体を重ね続け、薄汚れた自分に当てつけられた言葉のように感じた。
「私は……本当に紗江のことが好きなら、ちゃんとして欲しいだけ。このままなら、たつ、本当にクズになっちゃう」
「俺は、クズだ」
「お前の考えてる通り、有森とやるだけやって逃げた。それについては何も言い訳しない」
「本当に……最低だね」
「なあ……。あいつとドライブなんか行くなよ。朝まで一緒にいるなよ」
そう言った樹の声は震え、涙声だった。もう何もかも終わりならば、体裁などどうでもよかった。
「たつに関係ない」
樹はユキナの腕を引っ張り、腰を引き寄せた。
「ちょっと、なに――」
目の前の彼の目には熱が宿っていた。それは怒りなのか、それとも。
顎を掴まれた。すぐに顔を背けたが、逃げられなかった。
「そんな力入れてねえよ。嫌なら、全力でぶっ飛ばして」
ユキナの目に涙が浮かび、睨みつけるような眼差しのまま、ぽろりと一粒こぼれた。
樹はその涙を親指で拭うと、そのまま、ユキナの唇にキスをした。
「……わかってて、やってる……」
――強く拒否できないことを。
ユキナの目から、次々に涙がこぼれ落ちた。
「なにがだよ。全然わかんねえよ、言え」
首を横に振った。涙は決壊したダムのように次々と溢れ出てきた。
次の瞬間、強い力で抱きしめられた。
「好きだ、ユキ」
耳元で低い声が響く。
視界は彼の胸で塞がれ、回された両腕には、痛いくらいの力がこもっていた。
「嘘!」
ユキナは必死で身を離そうともがいた。
「嘘じゃねえよ」
樹は彼女の腕を強く掴む。
「長いこと悩んでたけど、やっとわかった。俺はお前が好きだし、お前も、俺が好きなんだよ。それを認めたくなくて、あいつに逃げてるんだろ」
「勝手に決めないでよ」
「俺もそうだからわかる」
「あんたと……たつなんかと一緒にしないで」
ユキナは声を震わせて言った。
「ユキ。今ここで、言ってくれ。お前の本当の気持ち。頼む……」
ほとんど泣いているような表情だった。彼のこんな顔を見たのは初めてだった。
「ユキ、言って」
「私は――」
言いかけた時、ユキナの口が、再び樹のキスで塞がれた。
ユキナは、言葉の先を促した彼の言葉と、口を閉ざすその行為に矛盾を感じながらも、強く拒みきれない自分に失望した。
樹の大きな手が、逃すまいと左右の二の腕を押さえつけていた。それとは裏腹に、唇は震えるように優しく触れてくる。
ユキナは涙が止まらなかった。何の涙なのか、もう自分でもわからなかった。
「何でも、そうやって強引に――ずるいよたつ」
樹の手から、少しだけ力が抜けた。
「俺は、お前が好きだ」
「馬鹿にしないでよ。そんな都合のいい話、こんな状況で信じられるわけないじゃん!」
ユキナは樹の手を振り払った。
「紗江にもこうやってキスしたんでしょ? それ以上のことだって、何度も!」
「今の俺が何を言っても説得力ないのはわかってる。でも俺はユキのことが好きだ。思い出せないくらい、ずっと昔から」
「散々、紗江のこといいなって言ってた。それって好きってことじゃないの?」
「俺が好きなのはユキだけなんだって、やっとわかったんだ。有森のこと考えたら、こんなクソみたいな話ねえよなと思う。でも、そうなんだ」
「たつは……。ずっと、何年も自分の側にいた私が、急に自分の知らない人と別の場所で楽しそうにしてるのが、面白くないだけだよ。それは、ただの子供じみた独占欲だよ」
「俺だってそう考えたりもした。けど有森と関わってみて、お前への感情は特別だってわかった」
二人の影が、長く地面に伸びて重なっている。
「泣かしたいわけじゃない」
樹は、ユキナの頬に手を添え、次々に伝う涙を、そっと拭った。
樹は、祈るような、縋るような、そんな目で見つめてきた。
見ていられなくなり、ユキナは目を伏せた。
ふいに、左手を握られた。樹の右手は、すっぽりと彼女の手を包み込んだ。
「お前、よく俺の部屋見つめてるよな。なんで?」
「それは……たつが……」
「俺が、なんだよ」
ユキナの手を握る彼の指に、力がこもる。
「最近、部活辞めて、タバコ吸って――たまに悲しそうな遠い目をしてるのが……幼馴染として、心配だっただけだよ」
ユキナの目は、伏せられたままだった。
「昔と変わったなって、ずっと感じてる。紗江のこと、ずっといいなって言ってて、紗江だってたつのことが好きなのに。こんな風に、急に私のこと好きとか言ったり、キスするのも理解できない」
「俺は、好みの有森を前にして、自制の効かないただの盛った動物だった。受け入れてくれるのをいいことに、やりたい放題やった」
そう言ってから樹は深く息を吐いた。
「……最低」
ユキナは、紗江の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
樹は、再びユキナを強く抱きしめた。
「離して」
ユキナは強い眼差しを向け、樹を突き飛ばした。
「ばか……ばか!!!!」
ユキナは大声で叫ぶと、校門へと駆け出した。
二人の影が、裂けるように離れていく。
「……小学生かよ」
小さくなる彼女の背中を見つめながら、呟いた。
立ち尽くす彼の瞳には、ぼんやりと、遠い記憶の背中が重なる。
樹は目を閉じ、校舎の壁に背を預けた。
喉の奥がひゅう、と嫌な音を立てる。息が吸えなかった。いや、吸っているはずなのに足りない。肺の奥まで空気が届いていない気がした。浅く速い呼吸だけが勝手に繰り返される。
――やばい。
この感覚を、樹は知っていた。
「っ……は……」
胸元を掴む。
鼓動が異様な速さで暴れていた。耳の奥で脈打つ音が響く。視界がじわじわと狭まり、指先が冷たく痺れていく。
頭の中で、去っていくユキナの姿が脳に張り付いたようにずっと離れなかった。
――落ち着け。
そう思うほど息は乱れた。
「ユキ……」
――あんなことしたかったわけじゃない。あんな顔させたかったわけじゃない。ただ顔が見たかった。声が聞きたかった。名前を呼んで笑いかけて欲しかった。会いたくないはずなのに、寂しくて仕方なかった。だから待っていた。
ユキナの泣き顔を思い出す。心臓が強く跳ねた。
「はっ……は……っ」
膝から力が抜ける。
ずるりと壁にもたれたまましゃがみ込んだ。
制服のシャツが張り付くほど汗をかいているのに、身体の芯は妙に冷えていた。
震える手で顔を覆う。
吐き気にも似た感覚が込み上げる。
何度か息を吸って、吐いて、それでも苦しさは消えない。
まるで肺ではなく、胸そのものが潰れてしまったみたいだった。
どれくらいそうしていたのかわからない。
乱れていた呼吸は少しずつ間隔を取り戻し、暴れていた心臓もようやく落ち着き始めていた。
それでも胸の奥の重苦しさだけは消えなかった。
樹は壁にもたれたまま俯いた。
頬を伝うものに気づいたのは、その時だった。最初は汗だと思った。けれど、顎先から落ちた雫が制服の膝を濡らす。
目を閉じた。嗚咽は出ない。声も出ない。ただ涙だけが次々と溢れてくる。肩を震わせることさえなく、静かに流れ続ける。
情けなかった。
みっともなかった。
それでも、もうどうにもできなかった。
額を押し当てるように膝へ顔を埋める。
奥歯を噛み締めても、涙は止まらない。
視界の奥に浮かぶのは、幼い日の記憶だった。
小さい頃から当たり前に隣にいた。
夕方まで一緒に公園を走り回り、日が暮れても帰りたがらず、互いの母親から怒られた。
夏祭りで迷子になったとき、不安がるユキナの手を引いた。
母親が帰ってこなくなったとき、ユキナは泣きじゃくりながら抱きしめてくれた。
窓越しに話した夜も、呆れながらも勉強を見てやった時間も、一緒に帰った放課後も、くだらないことで笑った日々も。
その全部が、容赦なく胸の奥へ突き刺さる。
樹は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
肺に空気は入る。
もう苦しくはない。
けれど、どうしようもなく、息をするのが辛かった。
校舎の壁に頭を預け、見上げた空は、いつの間にか雲に覆われ、薄暗くなっていた。
ひとつ、またひとつと、冷たい雫が落ちてきた。
やがて空は、耐えきれなくなったかのように雨を落とし始めた。




