第46章
放課後、ユキナは部室へ向かった。
ドアをそっとあけると、和人は作業台のプリンターの前で写真を手に取り、それをじっと眺めている。
プリンターは音を立てながら、さらに写真を排出しているところだった。
声をかけるのも憚られるほど、彼は真剣な顔をしていた。
ユキナがその場で彼をぼんやり見つめていると、和人はようやくユキナに気づいた。
「あれ、どうした? 入ってきなよ」
そう言いながら、和人の視線が一度ユキナの顔をなぞった。
「すごく真剣だったから、邪魔したくなくて。私のことは気にせず、作業続けて」
和人は手にしていた写真を置くと、作業台から半歩離れてユキナの方へ向き直った。
ユキナは窓の前に吊るされたネガを指差した。
「どっちみち、このネガ確認したら今日は帰ろうかなって思ってたんだ。昨日吊るしてったやつだけ気になって」
写真は、頑張った分だけ結果が返ってくるものじゃない。
以前、和人がそんなことを言っていた。
彼がバスケットをやっていた頃は、多少気分が乗らない日でも練習する意味があったと話してくれた。
走った分だけ体力はつくし、積み重ねたものは無駄にならない。
でも写真は必ずしもそうではない。気持ちが追いついていないまま無理にやっても、それが良い結果に繋がるとは限らないのだと。
ユキナは、あの時の和人の言葉が今になってすっと胸に入ってくるのを感じた。
和人はユキナの様子を見て、一瞬だけ考えるように視線を止める。
「ユキナ、ちょっと来て」
そう言って歩き出した和人は穏やかな笑顔だった。
ユキナは少し戸惑いながら、彼の後について暗室へ入った。
きちんと整理された機材の影が壁に伸び、静けさが心地よかった。
「見て、これ」
和人は、新しく届いた引き伸ばし機を指差した。
「わあ。これ、前言ってたやつ? 届いたんだ」
「そう。顧問丸め込んで部費で買ってもらったやつ」
和人は嬉しそうに笑う。
「前のは熱を持つから長時間使うと暗室が暑くなってたけど、これはLEDだからその辺かなり楽になった。光も安定してるから、前より焼きやすい」
彼の説明は止まらない。
「あと露光時間を数値で再現できるから同じ条件で焼き直しができる。それに光量の立ち上がりも速いし――」
「って、変態が出た、悪い」
珍しく高揚した様子の和人に、ユキナは目を細める。
「ううん。嬉しそうなの伝わってきて、なんか私も嬉しくなった」
和人はよく自分のことを、写真オタクの変態と自虐する。でも、好きなことを語る彼の表情は、いつも輝いて見えた。
そこまで夢中になれるものがある和人を羨ましく思っていたし、尊敬もしていた。
「まあ、わかりやすいところで言うと、暗室が前ほど暑くならないのが、地味に一番助かるかな」
「うん、それは助かる」
「だろ」
「この引き伸ばし機、私も使ってみたいから、次教えてね」
「うん、もちろん」
暗室から出た時、和人は言った。
「今日なんかあった?」
ふいに話題の焦点が自分へ向き、さらに和人が顔を覗き込んできたことに、微かな動揺が胸を走った。
「……何も、ないよ」
呼吸を整え、ユキナは言った。
「そうか。色んなこと溜め込む前に、何でも言えよ」
和人の優しい気遣いに、思わず涙が出そうになり、慌てて笑顔を作る。
「ありがとう」
ユキナは明るくそう言った。
和人はそれ以上追及せず、デスクへ戻ってパソコンの前に腰を下ろした。
昨日の放課後に吊るしておいたフィルムは、ワイヤーにぶら下がったまま静かに揺れていた。
端を摘まんで確かめると、もう湿り気は残っていない。
クリップを外し、窓から差し込む光に透かしてみる。小さなコマの中に、切り取られた景色が並んでいた。
机の上にフィルムを広げると、コマの切れ目に合わせて数枚ずつ切り分けていく。それを透明なネガシートへ差し込み、保管用のファイルへ収める。
最後に棚へ戻し、作業を終えた。
「じゃあ、行くね」
ユキナはパソコンに向かっている和人に声をかけ、小さく手を振った。
「……うん、気をつけて」
和人は椅子に腰をかけたまま言った。
* * *
ユキナは部室を後にして階段の方へ歩き出した。
夕方の日差しに照らされた西階段に、見慣れた広い背中が目に飛び込んだ。
階段の一段目に腰を下ろし、スマホをいじっている。
「……たつ」
ユキナの声に、樹は顔を上げた。
その無防備な表情に、ムカムカと怒りが込み上げてきた。
「こんなとこで、何してんの?」
「んー、お前待ってた」
樹はそう言うと、ポケットにスマホをしまった。
「なんで?」
「……なんでだろうな」
「はあ?」
「別にいいだろ。帰るぞ」
「てか、バイトは?」
ユキナは不審そうに眉を顰めながら尋ねた。
「今日はない」
「ふうん。まあちょうどいいや。これ、重いの」
持っていたカメラを差し出した。
「ん」
短く返事をして、樹は素直に受け取る。
「……不気味だなぁ。文句言わないなんて」
いつもならぶつぶつ文句を言うはずが、黙って受け取った樹の顔を見ながら、ユキナは言った。いつもの無表情だった。
昼間の紗江の言葉がよぎる。
きっと彼も苦しんでいる――そう言っていた。
せめてそうであって欲しい……と、ユキナは思った。
陽に照らされた西階段を降りると、夕方の校舎は、音楽室から聞こえてくる吹奏楽部のパート練習の音で響いていた。窓の向こうでは、運動部の掛け声がかすかに届いてくる。
ちょうど特進クラスの下校時間だったため、玄関の前は生徒が溢れていた。
ユキナが人をかき分けて自分の靴箱からローファーを取り出したとき、後ろから自身のスニーカーを手にした樹が声をかけた。
「人多くて面倒くせえな」
樹は気だるそうに言うと、先ほど歩いて来た西校舎の方を見た。
「あっち」
そう言いながら顎で西校舎を指すと、樹は裏手の搬入口へ向かった。
ユキナも小さく息をつき、ローファーを手にその背中を追った。
搬入口について、ガラス張りの重い引き戸を開けると、ガラガラと軋んだ音が鳴った。
外へ出ると、昼よりも空気は少し湿っていて、生ぬるかった。
滅多に人が出入りしない搬入口の前には、大きな楓の木が枝を広げていた。
「暗室にいたから、日差しが眩しい」
手のひらで日差しを遮りながら、目を細めて呟いたユキナの言葉を、樹は敏感に拾った。
「……暗室って、写真現像する暗い部屋だろ」
「よく知ってるね」
樹は足を止めた。ユキナも少し遅れて足を止め、振り返る。
「……あいつと――東和人と二人で入ってたのかよ」
「うん。教えてもらわないと、わからないこと多いからね。今日は新しい機材見て少し作業してきただけなんだけど」
「二人きりで暗い密室って、やらしくね?」
頭上では、強い風に揺らされた楓の葉が、乾いた音を鳴らした。
「……何言ってんの?」
ユキナは露骨に顔をしかめた。
紗江とのことを聞いたばかりだったため、ユキナは余計に腹が立った。
あのキラキラした時間を、汚されたような気がした。
樹は視線を逸らさず言った。
「ずっと前から思ってたんだけど、お前さ、すぐ制服のベスト脱ぐのやめろよ。下着透けてんだよ。そんな格好であいつと二人きりでいるのは普通じゃねえだろ」
「はあ!? 見ないでよ」
「知らねえよ。見えるんだよ」
「和人はたつと違って、そんなの見ないよ」
「バカじゃねえの? お前、男のこと知らなすぎる。無防備すぎるのも罪だからな。他のやつらだって――」
「そんなこと考えて女子のこと見てるの、変態なたつだけだし」
「お前マジで……バカかよ」
うんざりしたように言った樹に、ユキナは苛立ちを抑えられなかった。
「和人は心から写真が好きなの。部室は和人にとって大切な場所なの。部活中にそんなこと考えるわけないでしょ」
一瞬、風が止んだ。空気がわずかに重くなる。
「お前、あいつと――付き合ってんのか」
「付き合ってないけど」
樹の視線が、ユキナの表情を探るように動いた。
「……本当かよ」
「なんで嘘つかなきゃいけないの」
「お前は」
「なにが」
「だから、お前は、あいつのこと好きなのか」
「なんで?」
「最近お前、あいつとずっといるし」
「そりゃ、部活が同じだからね」
突き放すような言い方に、樹は語気を荒げた。
「最近デレデレあいつの話ばっかだよな」
「どうしてそんな言い方するの?」
「いい加減うぜえ」
「関係ないじゃん。大体、たつだって――」
言いかけてやめたユキナの言葉を、樹はイライラしたように促した。
「俺がなんだよ」
「言いてえことあんなら言えよ」
ユキナは、樹本人に何も言及するなと紗江に口止めされていたが、もう止められなかった。
「紗江と……したくせに」
放課後の校舎裏から、音が消えた。
遠くで響いていた吹奏楽部の音さえ、二人にはもう届かなかった。




