第45章
昼休み、ユキナは弁当の入った手提げを持って、隣のクラスへ向かった。
「あれ。ユキナ」
後ろから声をかけられ、振り向く。
音楽の教科書を抱えた紗江が、クラスメイトの女子生徒と並んで立っていた。音楽室から戻ってきたところらしい。
「紗江、ちょうど良かった。今、お昼誘いに行こうと思ってたの。久しぶりに、一緒に食べない?」
「うん、いいね。ちょっと待ってて」
紗江は一度教室に戻り、弁当の入った手提げを持って出てきた。
二人で中庭へ向かうと、渡り廊下の先から明るい声が流れてきた。
空は高く、抜けるような青が広がっている。日差しは強いのに、風は軽かった。
中庭のベンチは、昼食を広げた生徒たちで埋まっていた。
「もう座るとこないね」
「今日は天気いいもんね」
二人の視線が、同時に植え込み脇の石段へ向いた。
顔を見合わせ、そのまま日陰になっている場所へ並んで腰を下ろす。
「こんなに晴れてるのに、そんなに暑くないよね」
紗江は空を見上げて言った。
「そうだね、カラッとしてる」
吹き抜けた微風に、ユキナは気持ちよさそうに目を閉じる。
二人は手提げから弁当の巾着を取り出した。
「あー、お腹すいた。何度も早弁の誘惑に負けそうになったよ。耐えたー」
お腹をさすりながら言うと、紗江が小さく笑った。
「偉い偉い」
紗江はそう言って、小さな子どもにするみたいに、ユキナの頭を軽く撫でた。
いつもの柔らかな笑みだった。
けれど、その奥に、細く張った糸のようなものが見えた気がした。
「さーえ」
ユキナは紗江の顔を覗き込む。
「なーに?」
紗江は口調を合わせるように返した。
「たつと――なんかあった?」
できるだけ軽く聞いたつもりだった。
けれど、樹の名前を口にした瞬間、自分の呼吸が少し浅くなったのがわかった。
紗江は困ったように視線を伏せた。
すぐには答えなかった。
ユキナはペットボトルの蓋を指先で弄りながら、紗江の言葉を待つ。
中庭の賑やかな笑い声が、風に混じって二人の間を通り抜けていった。
「あの……ね」
ようやく紗江が口を開いた。
「もう、先月のことなんだけど」
ユキナは黙って頷く。
「大杉くんに、また数学を教えてもらうことになって。大杉くんはいつものように図書室って言ったんだけど、私が、うちで勉強しようって言ったの」
「紗江んちで?」
「うん」
紗江は弁当箱の包みを解きながら、記憶を辿るようにゆっくりと話し出した。
「大杉くん、少し迷ってた。彼氏いると思ってたみたい」
「あ、そっか……」
「私、焦ってたんだと思う」
「焦ってた?」
「大杉くんって、いつも涼しい顔してるでしょ。誰に対しても、あんまり踏み込まないし、踏み込ませない感じがして」
ユキナは、樹の顔を思い浮かべた。
「たぶん、私なんて眼中にないんだろうなって思った。だから、自分から動かなきゃ、何も変わらない気がしたの」
「そんなことないよ。たつのあの感じは、昔からそうだから――」
「最近、自分の気持ち隠し続けるのも辛くなってきてたんだ」
ユキナは、何も言えなかった。
紗江がそこまで思い詰めていたことを知り、胃の辺りが重くなった。
もしかすると、自分は無神経なことをたくさんしてきたのではないか。
そんな不安が、静かに胸に沸き起こる。
「結局大杉くんが折れて、うちに来てくれた」
「そっか」
風に揺れた髪を耳へかける。
胸の奥がざわついて、落ち着かなかった。
紗江は弁当箱を開いた。
しばらく、箸を取らなかった。
「私ね」
紗江は、膝の上の弁当箱を見つめたまま言った。
「大杉くんと、したの」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
「……え?」
自分の声が、遠くで聞こえた。
紗江は顔を上げる。まっすぐで、痛いくらい静かな目だった。
「私の部屋で」
それが勉強の話ではないとちゃんと理解するまで、しばらくかかった。
遅れて、鼓動が大きく鳴る。
「ごめん。幼馴染のこんな話、聞くの複雑だよね」
紗江は眉間に皺を寄せた。
ユキナは首を横に振ろうとした。けれど、うまく動いたのか、自分ではわからなかった。
意識と身体がばらばらに崩れていくような感覚だった。
樹は普段から、くだらない下ネタを平然と口にしていた。
何気ない会話の中でも、好きなセクシー女優について、「巨乳は正義だ」なんて馬鹿みたいなことを臆面もなく言う。
彼があまりにも明け透けに話すので、ユキナですら、その女優の名前を覚えてしまった。
今朝だって、その「推し」を堂々と見せてきた。
それをいちいち気にしたことはなかった。いつもの樹だと思って聞き流していた。
どれだけ軽口を叩いていても、結局のところ、彼はいつも硬派だったからだ。
身近な異性を「可愛い」とか「タイプだ」とか言っているのを彼の口から聞いたのは、紗江が初めてだった。
でも本人を前にしたとき、彼はいつも節度を保って接していた。
馴れ馴れしくしたり、思わせぶりな態度を取ったりもしない。
そういう境界だけは、どれだけ不器用でも、決して越えない人だと――なぜか、確信に近いものをユキナは持っていた。
だからこそ、樹が一線を踏み外す姿を、うまく想像できなかった。
「大杉くんの立場もあるし、幼馴染のユキナには知られたくないかもしれないって思ったら、なんだか言えなくて」
紗江の声は、淡々としていた。ユキナは、その静かな声に頷くだけでやっとだった。
「大杉くんは、本当に勉強する気で来てた。私もちゃんと勉強を教えてもらって、それで少しだけ距離が縮まればいいって思ってたの」
紗江は箸を持つ手を止める。
「でも、近くで顔を見てたら、好きって気持ちが抑えられなくなった」
ユキナは息を詰めた。
「彼すごく戸惑ってた。今思い返しても、私……余裕なくて。たくさん醜態晒した。もう、恥ずかしくて消えたくなる」
「それって……」
やっと出た声は小さく、乾いていた。
「付き合うことになった、ってこと?」
紗江は静かに首を振る。
「私の気持ちは伝えた。でも、大杉くんは何も言わなかった」
「何も?」
「うん」
紗江は遠くを見るような目をした。
「一緒にいたら、わかるよ。私のこと、好きじゃないんだなって――」
風が吹き抜けた中庭の向こうで、誰かの笑い声が聞こえた。
「わかっていながら、関係だけ続けてたの」
紗江は苦しそうに、目を瞑った。
「紗江……」
「大杉くんとの繋がりが消えないなら、それでよかった」
その言葉は静かだった。
目を開いた紗江の表情は落ち着いていた。
「でもね。最後にうちに来たの、もう二週間前なの。それから連絡も取ってない。学校で見かけても、避けられてる感じ」
「じゃあ、それからまともに話してないの?」
「うん。多分、もう終わったんだと思う。……始まってすら、なかったけど」
紗江は自嘲のような笑みをこぼした。
ユキナの手の中で、ペットボトルが軋む。
「……ひどい」
声が、思ったより低く出た。
樹は昔から、人付き合いに関してはどこか淡白だった。
それでも、ユキナは彼の奥にある優しさや、不器用な思いやりを知っているつもりだった。
誰かをこんなふうに傷つける人ではなかった。
自分の知っている樹と、紗江の口から語られる樹が、あまりにも違いすぎて、まるで、知らない人の話を聞かされているみたいだった。
弁当箱の海老フライが、ぐにゃりと歪んで見えた。
「ユキナには白状するけどね」
紗江はまっすぐにユキナを見た。
「私、大杉くんがどうしても欲しかったの」
ユキナは顔を上げる。
「私のことを見てなくてもいいから、彼の弱さや痛みごと包んであげようなんて、都合良く考えてた」
ユキナは、樹の繊細さや脆さは、自分だけが知っていると思っていた。けれど、紗江もまた彼を見ていた。誰よりもまっすぐに。
そのことが、ユキナの胸を軋ませた。
「でも結局、私のエゴで大杉くんを追い詰めただけだった」
紗江は小さく息を吐いた。
「彼が無かったことにしたいなら、それでもいいって思ってるのは、本心なのに。それでも私は、この期に及んで、選ばれなかったことにちゃんと傷ついてる」
ユキナは酸素を取り込むように、空を見上げた。
はるか上で滑空している鳶が、ピーヒュルルと、ひとつだけ鳴いた。
「今朝ユキナと教室に行った時も、やっぱりもう私と関わりたくないんだなって確信した」
あの短くて長い沈黙。
あれは、やっぱり気のせいではなかった。
「ユキナ。私ね、彼女にはなれないんだろうなって、最初からわかってた」
紗江の横顔を見る。視線は、弁当に落とされたままだ。
「それなのに、大杉くんの優しさを利用した。ひどいのは、私の方なの」
ユキナは首を横に振った。
紗江はそんなユキナに、力なく微笑む。
「大杉くんに廊下で呼びかけてもらえるくらいの関係になれて、他愛もないメッセージのやり取りをして、たまに図書室で勉強を見てもらって、すっごく幸せだった」
「そこで満足していれば良かったの。それ以上望んで、その関係を壊したのは私。傷つく権利なんてないんだよ」
「それは違う。違うよ紗江」
そう言ったユキナの声には力がこもっていた。
「紗江の気持ちを知っていて、それでも曖昧なまま関係を続けたたつを、私は許せない」
「ユキナ……。ありがとう」
紗江は力なく微笑んだ。
「でもこれ以上、大杉くんの心を乱したくないんだ。彼の心は、ずっと平穏でいてほしい」
そこまで真っ直ぐ相手のことを思って、自分の痛みを言い訳にしない紗江を前に、ユキナは怒りの置き場がわからなくなった。
そして同時に、自分のことが頭をよぎった。
和人の気持ちを知っている。
それでも環境を変える決断ができないまま、和人の優しさに甘えている。
そんな自分が、「曖昧」なんて言葉で誰かを責めていいのかわからなくなった。
「私には、紗江の気持ち、本当の意味ではわかってあげられないと思うけど……」
ユキナは、紗江の手を両手で包み込んだ。
「紗江は、たつのことが好きなんだから、傷ついて当たり前だよ。権利とか、そんなの関係ない。ただ真っ直ぐ、好きなだけ。その気持ちは否定しないで」
「ユキナ……」
紗江の声が震えた。
「ありがとう」
その目に涙が溜まっていく。
「ごめんね。大杉くんと小さな頃から仲良いユキナに、こんな話して。このままだと、二人の関係まで壊しちゃう。もう、こんなの終わりにしなきゃ」
ぽろりと、涙が零れた。
紗江はそれ以上溢れないように、空を見上げる。
ユキナは、そっとその背を撫でた。
「そんなことは気にしなくていいから」
「こんなふうに泣きたくなかった。弱い自分が、嫌になる」
「たつはさ……」
ユキナは言葉を探した。
「不器用で馬鹿だけど。でも、ちゃんと話したいって伝えれば、逃げないと思う。だからお願い。自分ばっかり責めないで」
紗江の肩は小さく震えていた。
声を噛み殺すように泣く紗江を、ユキナは静かに抱きしめた。




